ユハの回想(3)
ユハの回想の続きです。
暗い廊下を走って、階段を駆け下りて……、その時周辺の景色を初めて見たはずだけど、ほとんど記憶に残っていない。外はものすごくじめじめしていて最悪だったことと、高い建物がたくさんあったことだけは覚えている。
わけもわからず走った。怖かったんだ。何がって聞かれると、色々ありすぎて説明できないけど、とにかく怖かった。
しかも腹が立つことに、この街ときたら、まるで負のマナのお風呂だ。たっぷり走ったら、ひどい眩暈と吐き気を感じて、目の前のやりすぎってほど大きな建物の手前にある門にもたれかかって、それから倒れ込んでしまった。横に人がいたけど、私の姿が見えるようになったら気付いてくれるかな。
でも、気付いたらどうするんだろう、私も母さんのようにひどい目に遭わされるのかな。
そんなことを一瞬考えたけど、耐えられずに意識を失ってしまった。
目を覚ますと、やけに明るい部屋の、横長でふかふかの椅子――ソファってやつ――に寝かされていた。
「起きたか」
偉そうなこげ茶の机に、偉そうな大きな椅子。そこにふんぞり返って座っている男が正面にいた。
「ホットペップ!?」
高原に逃げ込んだ時、私たち家族を助けてくれたパナップの息子、ホットペップだった。
「ユハ、だったか。お互い無事で何よりだったな」
ホットペップは座ったまま、何やらたくさんの紙を見比べながら淡々と話す。
「無事じゃないよ、母さんは死んじゃったし、父さんも多分……」
「そうか」
「ホットペップの両親は……?」
「わからん」
相変わらず、ホットペップは紙を見比べていた。どうしてこんなに冷淡なのか、私には理解できなかった。
「まあ、それより自分の身の心配をすべきだ。一体何があった?」
「わ、わからない。母さんが変な男にひどい目に遭わされて、なんか、私……」
「ユハ、落ち着け。お前はどこからここまで来た?」
「え、えっと、色んな部屋がある高い建物……。そういうのがたくさんあった」
「高い建物がたくさん、居住区か。と、いうことは『ギャング』だな」
ホットペップがぱっぱっぱと早口で言ったけど、私は何一つ理解できなかった。
『ギャング』という単語は、死んだ母さんを見物していた奴も言っていたのを覚えているけど。
「あの、ギャングって……?」
尋ねた私に対して、ホットペップの方がむしろ、お前は何を言っているんだ、といった顔をした。
「ギャングを知らないのか?呆れたな」
「知らないよ。教えて」
「いいだろう。お前は知っておく必要がある」
まず、この街に入った翌日から、暮らしの不便さに耐えきれないと感じた連中の一部が同族から略奪行為をはじめたことがきっかけだった。
そこにずる賢い奴が現れて、暴力を商売にしようと思い付いたようだ。
そいつは腕っぷしも強く、それまで各々好き勝手に暴れていた連中を、力をもってして束ねあげた。
バニトスのいくつかある区域のうち、『居住区』と呼ばれる地区の中央を占拠したその集団は『ギャング』と名乗った。
驚くべきことに、ここまでの出来事が僅か二日間で起きていた。
ギャングは、暴力的な連中が群れているだけなんだけど、これが意外に厄介だ。
ギャング外の人々は報復を恐れて個人相手だとしても手出しができない。対してギャング側は集団であるので、リスクの少ない略奪行為が可能になる。
居住区に住む人々はギャングの顔色をうかがい、物資を献上、もしくは何かしらの対価を支払って難を逃れる方針を取りはじめているらしい。
ギャングに加わろうとする者もいるようで、規模はこれからも大きくなることが予想されている。
「お前の母親も食糧を得るため、ギャングに関わっていたんだろう。だが何かヘマをしたか、連中の機嫌を損ねたか」
淡々とホットペップが語った。私は俯くしかなかった。
「ところで……」
「えっ?」
私は顔を上げた。ホットペップは紙を机に置いて、こちらをじっと見ている。
「お前、面白い力を持っているな」
「えっ、な、何が……?」
なんだか、とぼけなきゃいけない気がしたんだけど、だめだ。とぼけるもなにも、向こうは私の異変についてとっくに知っている風だ。
焦って、心拍数が上がる。指先が消え始めた。
「それだ、それ。どうなっている?」
ホットペップは座ったまま、涼しい顔をしている。それが逆に怖かった。身体がどんどん透けていく。
「おい、危害を加えるつもりはない。姿を消してもいいが、逃げないで聞いてくれ。お前はこれからの生活を考える必要があるし、『俺たち』はギャングを警戒している。そこでだ」
ホットペップが、すん、と鼻をひと鳴らしして、改めてきっと私を見据えた。
「俺のもとで働かないか? ユハ」
この時、私の運命は変わった。




