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バニトス  作者: vep
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ユハの回想(2)

ユハの回想の続きです。

 バニトス。私たちの言葉で「異常な場所」を表す。

私たちが逃げ込んだ遺跡を、一体誰がそう呼び出したのかはわからないけど、今は誰もがそう呼んでいる。



 あの後どうなったか、話を続ける。



 高原からの逃走の前、少しだけ疑問に思っていた。

そんなに大きくて安全な遺跡なら、森も高原も諦めてここに移住するのもいいんじゃないかって。

バニトスに移ってすぐにわかった。ここは人が住んでいい場所じゃない。誰もが、できることならここへは来たくなかったのだと思う。

壁に守られた内部はとても広大だ。砦のようにも見えるけど、かつて何かの軍事作戦に使われたというよりかは、むしろ居住地、いや、街として機能していたんじゃないかと思う。

 至る所が半崩壊状態だったけど、まず、木や石でできた住居が見える。大きな建物にいたっては、鉄の柱や梁による骨組みが成されているところもある。

 看板も、道案内のものからお店のものまで、なんていうのかな、字を書いただけじゃなくて、絵とか、すごく凝った作りで、きっと廃墟になる前はすごい街だったんだろうと想像できる。


それなのに、何故人が住んでいい場所じゃないかというと、この街の空気が問題だった。


 バニトスは強烈な『負のマナ』に満ちている。マナってわかるかな。とても言い表しにくいんだけど、雰囲気というか、場の空気、感じ、そんなもの。だから負のマナと言うと、「イヤ~な感じ」って言うのが一番適当かもしれない。逆に『正のマナ』っていうのもあって、これは「いい感じ」。

 マナはどこから生じるのかっていうと、私たち生き物からなんだけど、動物たちと違って知能がある私たちは特にマナに敏感で、心身に影響を受けてしまいやすいらしい。

実際、バニトスに入ってから、たくさんの人が体調を崩し、汗や涙が止まらなくなったり、お腹を壊したり、気持ち悪くて吐いたりしていた。

重い病気にかかって死んだ人も少なくなかった。また、そもそも街に入れなかったり、環境に耐えきれずすぐに外に出た人もいくらかいた。


 そしてそれ以上に不気味だったのが、私に起きた奇妙な変化だった。



 私に何が起きたか、それからどうなったか。少し話をさせてほしい。



「ユハ、お願い、起きて」

 母さんの声で、私は目覚めた。バニトスに入ってすぐ、私はひどい負のマナを感じて気絶してしまった。

丸一日気を失っていた私を、母さんは必死で看護してしてくれたらしい。


 起きた時、本当にびっくりした。

自分の体の、下半分が消えていたからだ。正確には消えていたわけじゃない、見えなくなっていた。

脚があるかな、という位置を手で探ると触ることができたし。脚にも、自分の手が触れた感覚があった。


「私、なんでこんなことに」

 恐る恐る、私は母さんに尋ねた。

「わからないわ。あなたが倒れてからずっと看ていたけれど、その間、体の色んな部分が透明になったり、見えるようになったりして……、私もどうしてあげたらいいのかわからなくて……」

 今まで泣いたところを見たことがない母さんが、目に涙を浮かべていた。さらに母さんは続けた。

「誰かの助けを借りようと思ったけど、できなかったわ。今、皆錯乱しているから。ユハの、この異常な状態を見て、危害を加えようとする人がいるかもしれないと思ったの。でも、そうしてよかった。今こうしてあなたがちゃんと起きてくれたんだもの。体は痛くない?」

「大丈夫。それより、ここは……?」

 私が目覚めた場所は、薄暗いけど屋根のある場所だった。

寝かされていた場所も、硬い地面なんかじゃなくて、ふわふわの毛布の上だった。

「遺跡の中にたくさんの建物があってね。皆空いてる家を自由に使っているわ。ここはたくさんのお部屋がある家で、部屋の一つを使わせてもらっているの。ああ、それにしてもお腹が空いたわね。食べるものを手に入れられないか、あとで調べてみるわね」


 母さんは珍しくよく喋った。

父さんが戻ってこないこと、慣れない土地に来たこと、そして私が倒れたことで、精神が張り詰め切って、疲れに疲れていたはずだけど、私の意識が戻ったことで、緊張の糸が緩んだのだろう。

 ゆっくりと体を起こした。腰のあたりまで見えなくなってるけど、しっかりと床に座れる。さらに立ち上がった。問題なく立てる。いやウソだ、見えないから少しふらついた。でも、身体が部分的に透明なことを除いて、異常はないようだと安心した。


 翌日、私に部屋に居てと告げてから、母さんは出かけた。食糧を調達してきてくれるという。

部屋を空にすると、別の誰かに取られる危険がある。だから内側から扉の開け閉めを管理する留守番が一人要るわけだ。――私たちの家ではかんぬきが使われていたけど、ここの扉には鍵が使われていた。これはとても便利。ただ、施錠は外からは解除できない。鍵穴に対応する鍵がないからだ――


出かける母さんに向けて、「ありがとう」と今できる最高の笑顔を向けたけど、この時の私はたまたま顔だけ透明になっていたから、きっと気付かれなかったかな。


 一日使って、私は自分の異変に適応しようとした。なんとなく、出来る気がしたんだ。

というのも、前日の夜、部屋の扉の向こうで誰かの大きな叫び声が聞こえたのだけど、

それにびっくりした私が自分の体を見ると、全身が透明になっていたのに気付いた。

その時思ったんだ。この異変は私にとって必ずしもマイナスにならない。そして、コントロールできるかもしれない。って。


 考えは概ね当たっていた。どうやらこの現象は、私がドキドキすると――心拍数の上昇に応じてって説明の方がかっこいいかな――勝手に起こるものらしい。試しに部屋の中を走り回ってみたけど、しばらく走っているうちに見事に全身が透明になってくれた。

そして落ち着いてくると、段々姿が見えてくる。


 次の課題がコントロールだった。けど、なかなか自分でドキドキした気分になるのは難しい。

高原からの逃走のことを思い出すとか、ちょっと考えたけど、ドキドキするまで時間もかかるし、何より精神的に辛かったからしなかった。

 コントロールについては保留した。


 翌日、新たな発見をした。いつも通り部屋を走り回って透明になって遊んでいたのだけど、転んで膝を盛大に擦りむいてしまった。

血が垂れる。すると、血の付いた地点を中心に、身体の透明化が解除されていき、徐々に姿が見えるようになってしまった。

まだドキドキしているのに。血を拭き取って、膝を止血しても、透明になることができなかった。

 その時は相当後悔したけど、その日の夕方ぐらいになるとまた出来るようになっていたので安心した。

原因が負傷だとすると、夕方には透明になれるようになっていたのはおかしい。この時傷はまだ完治してなかったからだ。だとすると、血液が原因だった可能性の方が高い。血『液』と限定したのには理由がある。擦り傷ができて半日、止血した布の内側は血でパリパリになってたけど、それでも問題なく透明になれたからだ。

 もっと厳密には、どのぐらいの量の血液が付いたらそうなるかとか、あったかもしれないけど、とにかく血液はこの異変とは相性が悪いということがわかった。


 他の液体、もしくは物体だったらどうか。

「水……透明化は解除されない」

「はちみつ……もったいないので指にちょっぴり。結果は水と同様」

「透明化した自分の手に絵を書いた場合……絵が空中に浮かんでいるように見えて面白い」

「木の実を持ってみる……絵と同様」

 全然、試行回数も少なかったし、実験と呼べるほどのものじゃなかったけど、重要なのは何かをやってみて、そして考えることだった。


 実験をしたことで、逆に今まで疑問に思わなかったことが疑問になった。

「自分が持っているものは透明にできない」はずなのに、「自分が身に着けているものは透明にできる」ことだった。

 衣服とか。でも、この時は考えてもわからなかったから、この謎も保留にした。


 母さんは毎日食べ物を持って帰ってきてくれる。パンに、水に、お肉、果物、時にはお菓子もあった。

 十分すぎるほどの食糧を手に入れてくる母さんを訝しく思った。無理をしていないかと尋ねたけど、

「大丈夫よ」

と返事をしてくるだけだった。


 私は愚かだった。これが異常だと勘付いていながら、無意識に食にありつける贅沢に溺れていたんだ。


 五日目、事件が起きた。いつもより大分遅い夜中、母さんがふらふらになって帰ってきた。扉を激しくノックされて、とても驚いたのを覚えている。

 母さんの姿はひどかった。衣服を着ていないこと、全身を殴打されたような痣があること、もう色々と衝撃的で、何が何やらわからなくなった。驚きと恐ろしさで、どんどん私の体が透けていく。

「母さん、どうしたの?」

 急いで母さんに駆け寄って、肩に毛布を掛ける。私は声を殺して母さんに尋ねたけど、

「大丈夫よ……」と、よわよわしくいつもの言葉が帰ってきた。

 息も切れ切れで、全然大丈夫なわけがない。

「お願い教えて! 何があったの?」

 私が母さんに詰め寄ったと同時に、外で大きな音がした。

何かを打ち付けるような、とても大きな音。それから叫び声。


「おいクソアマがぁ! ここにいるんだろうが! 出てこい、ぶっ殺してやる!」

 とてつもなく下品な言葉使いと、不快な濁声の男だ。

「嘘でしょ!?」母さんが小さく悲鳴を上げると、すぐに私に向き直って、さらに小声で、

「隠れなさいユハ。透明になれる?」

と言ってきた。

 私はすでに身体のほとんどが見えなくなっていたし、母さんの気迫に押されて、すぐに全身は透明になった。

「絶対に、絶対に出てきちゃだめよ」

「母さん! だめだ!」

 母さんが部屋を出ようとしているのが明白だったから、私は止めた。強く母さんの腕を掴む。

「離しなさい!」

 怒鳴りつけて、私の手を振りほどくと、母さんは扉を開けて外へ出て行った。

……なんとかかんとか!っていう、早口で意味のわからないこと――恐らく罵倒言葉――を言う男の声が聞こえたあと、

「あなたが! あなたが……」またなんとかかんとか。母さんも声を潜めてしまったせいでうまく聞き取れなかった。

 母さんが何か言い終えたあと、男が「はぁーあ」と、大袈裟にため息をついたのが聞こえた。

「なんだよ、白けんな。じゃあもうおめーみてーな女なんかいらねーよ」

「ちょっと! 声が大き……」

「みなさーん! ここに誰にでも股を開くあばずれがいるよー! 遊んであげてー!」

「何を言うの!!」

 全く状況が飲み込めなかった。思わず扉に耳をくっつけて外の様子を少しでも伺おうとする。

 揉み合う音。殴打の音。男の罵倒。母さんの悲鳴。だめだ、母さんが! ……でも私は震えながら聞き耳を立てているしかできなかった。

「クソッ! クソが!! ボケ! クズ女め!!」

 もう、聞こえるのは男から放たれる悪意にまみれた言葉と、何かを激しく殴打する音だけ。


 やがて男が去っていく。足音が完全に消えたと思ったら、今度は複数の近寄ってくる足音が聞こえて、話し声で騒がしくなった。

「死んでるぜ」「愚かな女だよ……」「ひでぇ……」「『ギャング』に関わったんだね」

 眩暈がするほど心臓が高鳴っていた。目がしばしばするし、舌が痺れる。恐ろしいほどの嫌な予感がする。

 扉を少しだけ開けた。扉の向こう側を見たのはここへやってきて初めてだった。外は不安になるほど薄暗い廊下だ。

 扉を開けてすぐ、横たわった母さんの姿を見つけた。周囲を四人の見物人が取り囲んでいる。

「母さん!!」

私は扉を勢いよく開けて飛び出した。

「なんだ?扉が勝手に……」「声もしたぞ」

 他人に私の姿は見えていない。訝しむ見物人を無視して、私は母さんに駆け寄って、顔を見た。

 見物人が言っていた通り、ひどい有様だ。見るんじゃなかった。

 私はありったけの叫び声をあげて、その場から逃げ出してしまった。一生の汚点だ。母さんの死を受け入れられなくて、逃げたかったんだ。

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