煩悩は焔に燃ゆ
「アレフ、これで本当に全部だね?」
「は、はい……ナツキの姉御……この度はっ……本当に……」
「次は無い」
「はいぃっ!」
目の前の地面に裏向きに並べられた300冊の禁書を冷めた目で見下し、ナツキは松明の火を投げた。
燃えていく。全て燃えていく。
焚書など唾棄すべき最悪の行為だとずっと思っていた。いや、今でも思っている。思想の自由は尊重されなければならない。いかなる反社会的な特殊性癖と言えど、実行に移さない限りそれは合法であり、規制してはならない。それは厳然たる事実である。
しかし――実在幼女の盗撮写真集くらいは、本人の手で燃やし尽くす権利があってもいいと思う。ナツキの心が男で、この体こそ自分の体だと思えるほどこの世界で年月を経ていないおかげでまだ平静を保てているが、もし本当に女の子だったら自殺しかねない事態である。
――そういうのは創作物の中でやれ。これに尽きる。
「ああああ……ワシの天使コレクションがぁああ……何故じゃ、何故こんなことをするのじゃ、まさかワシが汝を性的な目で見ているとでも言うのかぁぁああああ!」
全ての元凶が涙ながらに崩れ落ち、そんな言葉を吐いた。
面倒なことに今回の件、全ての元凶は確かにヴィスコなのだが、彼に全く悪気はなく、彼がロリコンなわけでもなく、彼の嘆きも彼の立場で考えてみればある程度は正当なのである。……ある程度は、だが。
不幸なすれ違いと勘違いが連鎖して、今回の事件は起きた。そしてその中で誰が一番戦犯だったかというと、先程からずっとナツキの横で土下座を決めている長身の男――ヴィスコの第一の側近、アレフである。
「な、ナツキの姉御……アレフは悪くないですぜ、俺らが酔っ払ってたせいで……」
「そうじゃないでしょ。ボクがまた来ることなんてないって決めつけて、変な噂が闇市中に広まるまで放置したのはアレフ……もちろん、拡散の中継点になったキミたち幹部にも責任はあるけど」
まず、ナツキが実は成人済みの美女で裏社会の住人で欲求不満で幼女に変装している、という根も葉もない噂が闇市中でまことしやかに囁かれるようになったことが、全ての下地となった。
それが全て真実であると仮定された場合、この世界の法ではこのエロ本は合法になる。これは所謂「合法ロリ」の「成人向けグラビア写真集」という扱いになるのだ。
しかし当然、掲載された写真を見れば誰でも分かる――この体で成人済みは無理があると。そして例の噂は高校を舞台にしたエロゲーにおける「登場人物は全て成人済みです」の類、すなわち建前だと解釈され、闇市で秘密裏に取引されるようになり、「これは広く知られている噂によれば合法である」という免罪符と共に、その手の性癖を持つ者達に広まったのである。
「……みんな、大っ嫌い」
「うぐっ……」
ヴィスコを数時間灰にした一言は、ヴィスコに孫のかわいさを布教され続けていた影響か、幹部や他の組員たちにもよく効いた。
そして肝心の、本の流通の源はどこにあるのかと言えば、
「何故じゃあああ、ワシはただ、我が天使の日常を写真に収めてくるよう命じただけじゃと言うにぃぃい……」
燃え盛る炎の前で泣き崩れているヴィスコの、そんな比較的健全な願いによって生まれた大量の写真がそれである。そのうちの一枚、《陽だまり亭》で仕事中の写真はヴィスコによって軍の広報課に匿名で送り付けられ、新聞に大きく掲載された。その新聞とヴィスコの自慢により、組員達はヴィスコが保有する大量のナツキの写真のことを知ることになったのである。
ヴィスコが布教用に純粋な気持ちでばらまいた写真の中には入浴中や着替え中のものも含まれていた。ヴィスコの嘆きを聞く限りでは、どうも盗撮の実行犯はロリコンでもなく邪な意図もなく、ただ指示通り性的な目で見られるはずもないナツキの日常を無作為に撮影していたようで、実際扇情的なアングルやポーズは一枚もなかった。
しかし一方で、ナツキを実は欲求不満の妙齢の美女だと勘違いしている下っ端の馬鹿共がそれを「幼女の体で精一杯頑張ったえっちな自撮り写真」だと決めつけた結果、ナツキの欲求を少しでも満たすため、という建前のもと、一冊の同人えっち写真集が出来上がってしまったのである。
そして「幼女っぽいけど実は成人済みの美女」という勘違いフィルターを纏った彼らは無敵であった。本は瞬く間に《同盟》の中で広まり、増刷され、下っ端の馬鹿共の手でナツキの勘違い設定と共に闇市へと拡散されたのである。……ヴィスコや幹部たちには全く報告されぬままに。
ヴィスコはともかく幹部たちは遅れてその事態に気づいてはいたが、アレフが訂正を面倒くさがったせいで彼らにまでナツキの勘違い設定が浸透してしまっており、まあいっか、となったという。
「いや、その設定に無理があるってことに、どうしてそこで誰も気づかなかったのかな!?」
「いや……薄々気づいちゃいたんですぜ……」
「でもみんな同じこと言ってるし……そういう聖片もあんのかなって……」
「困ったら何でも聖片で解決するのやめて! はぁ……せめて増刷する前にブレーキ踏んで欲しかったよ……」
増刷はただのコピーで行われた。コピーの聖片もそこそこ値が張るものであるが、高価なカメラで撮った高価な写真を高価な印刷機でヴィスコが現像したものをそのままページとして使った原本には、増刷分とは比較にならない超法外なプレミア価格がついた。プレミア版があるという噂はコピー品の値段をも釣り上げていき、詳細不明の高額取引が頻繁に行われている、という状態になった。
「巨大すぎる金の動きは闇市でも《塔》に気づかれるで。それが調査依頼になって軍から降ってきたんやろな」
ラムダがそう分析すると、土下座を続けるアレフがぼそりと口を開いた。
「俺もさすがにヤバいと思って、《オリジナル》だけはなんとか回収して《古本屋》に封印したんです……一昨日くらいに……」
「遅い! 誰もかも何もかも致命的に遅いっ!」
《古本屋》の言っていた「長身の男」はアレフだったようだ。
「増刷分は姉御より先に回収しきれたってのになぁ……」
アレフとナツキの会話を聞いていたベートが溜息をつく。
ナツキが《同盟》本部を訪れてヴィスコに相談したとき、アレフが既に部屋を去っていたせいで、ベートを初めとする幹部たちはナツキのことを誤解したまま話を進めた。あの時点ではまだ、彼らもこの事件が自分たちが引き起こしたものだとは気づいていなかったのだ。
ナツキが去り、本格的に調べ始めようとしたところでアレフが帰還し、彼らは全てを悟った。自分たちが広めたものが、言い逃れする余地もない違法も違法の実在ロリ盗撮写真集だということにようやく気がついた。
このまま放っておけば、自分たちを一瞬で気絶させる能力を持ち、A級神獣をアイオーンも使わず一人で倒した(ことになっている)化け物ことナツキが真相に気づき、怒り狂って《同盟》どころか闇市を丸ごと焼き尽くしてしまうに違いない――
そう考えた彼らはまず、ナツキでも調べればすぐにたどり着けるであろうコピー品の回収を急いだ。その途中でラムダも合流し、過去の遺恨はひとまず置いておいてナツキの心の平穏のために共闘することになったと言う。
情報屋の助けも借り、一日かけてなんとか全てのコピー品を回収し終えた彼らは安堵していた。
「まさか姉御が初手で《古本屋》行くとは……」
「な、何よぅ、アタシのせいだって言うのぉん?」
酒場の店主は、ナツキとアイシャは《同盟》に回収されようとしている例の本をどうしても読みたい誰かに差し向けられて来たのだと考えたらしい。しかし《同盟》の回収作業を邪魔せずに例の本にたどり着くには、《古本屋》で原本を閲覧させてもらうしか方法がない。
かといって《古本屋》の現在位置の情報などそう簡単には売れないし、関連するブツがブツである。そこで到底不可能な金額(飲み物の量)をふっかけ退散してもらおうとしたところ、なんとアイシャが飲み干してしまった。
もっとも《古本屋》はよっぽどのことがない限り蔵書を手放すことはないと言う。つまり結果的に今回は「よっぽどのこと」だったわけであるが、一般的には閲覧はできても持ち出すことは許可されず、ならナツキの目に触れる結果にはならないだろうと踏んで、店主は魔法陣の場所と合言葉を教えてしまった――目の前にいるのがそのナツキだとは思わずに。なぜならナツキはその時点では、闇市に入る方法を求めてラムダを追いかけ回しているはずだったから。
「ちなみにスラムのチビ共が言うてたチンピラ共のエロ本もそのコピー品やったし、夫婦喧嘩の原因も旦那がそれ持っとったからや。復縁はせんかったらしいで」
「世界一いらない補足をどうもありがとう! ……うぅ、しばらくスラムは顔出して歩けない……」
本が燃えても記憶は消えない。それは目の前に集まっている大勢の《同盟》組員達も同じだ。
すっかり灰になった300冊から視線を上げ、臨時召集された《同盟》全組員を冷たい目で見渡し、ナツキは重い口を開いた。
「それで……ボクのあられもない姿をじっくり見た上に、えっちな本にして裏社会の変態共の記憶にまで植え付けてくれやがったキミたちは、闇市とスラムを燃やし尽くすのをやめてあげたボクに、一体どんな誠意を見せてくれるのかな……」
無意識に濃密な殺気が放射され、多くの組員たちが泡を吹いて気絶した。
今回の事件で分かったのは、《転魂》術の寒々しい氷色の燐光や、気功回路の正常稼働時の茜色の燐光と同じように、《気迫》術、というか「殺気」の固有光が存在するということである。強すぎる殺気に付随して発生するそれは、バチバチと稲妻のように走る血色の雷光のように見える。ラグナで戦った古龍共が背後に纏っていた謎の赤い稲光の正体がようやく判明した。あれはきっと人間に巣を荒らされたせいでめちゃくちゃ怒っていたのだろう。
それを翼のように背後に背負ったナツキがゆらりと幹部たちの方を向くと、元々土下座していたアレフ以外も慌ててその場に平伏した。
「な……なんなりと……ご命令を……」
「ボクに命令されなきゃ具体的な誠意も示せないの? ……ああ、死んでお詫びとかケジメで指詰めるとか爪剥がすとか、そういう責任の取り方は嫌いだよ」
冷たくそう言い放つと、彼らは途方に暮れて震えながら黙り込んでしまった。正直に言えば死んで記憶ごと消えて欲しかったが、《同盟》がいなくなると裏社会の秩序が崩壊することを懸念する理性は残っていたし、大量粛清者として裏社会に名を残すのはちょっと嫌だった。
さて、どうしようか。