Noah/α - 血翼の天使
ナツキさんが「それ」を見た瞬間、わたしは恐怖のあまり気を失いかけたです。「それ」が怖かったのではなくて、ナツキさんからものすごい量の殺気が吹き出してきたのです。ナツキさんから教えられた気の力を使えるようになっていなければ、簡単に気絶してしまっていたと思うです。
「ひっ……な、なんだい……? ほ、本物だっただろう? 何を怒って……っ!?」
《古本屋》さんが机から転げ落ちて、ナツキさんが何も言わずに剣を喉元に突きつけたのです。
わたしは止めようとして、でも体が竦んで動かなかったです。それほどナツキさんの放つ殺気は強力で、体の震えが止まらなかったのです。
「ねえ、《古本屋》さん。ボク、ナツキって言うんだ」
「……、……は?」
ナツキさんは静かに自己紹介をして、フードを取ったです。すると何故か、《古本屋》さんの顔がみるみる青ざめていったです。
「何を怒って、だっけ。ボクの顔を見てもう一度言ってみる? ねえ……」
「ひ、ひぃぃっ……ぼ、僕のせいじゃない! それは寄贈されたものだ! 嘘じゃない、信じてくれ!」
「寄贈……ふーん、誰から?」
「し、知らない! 背の高い男だ、それ以外は分からない……」
「…………そう」
「がっ――」
ナツキさんから一際強い殺気が《古本屋》さんに向けて放たれて、《古本屋》さんは泡を噴いて気絶してしまったです。ただの殺気のはずなのに、なぜか血の色のバチバチが走ったような気がしたです……
「アイシャ」
「ひゃ、ひゃいっ」
「それ持ってついて来て。絶対に、誰にも見られないように……いいね?」
「わわわわわわわかったのでですっ」
もし「それ」を落としてしまったり、誰かに見られてしまったら、世界が終わってしまうです。それがはっきり分かったのです。
ナツキさんは殺気を纏ったまま「結界」の外に出て、トイレからも出て、メインストリートに下り立ったです。それだけで近くにいた人達はみんな震え上がって座り込んでしまったです。
そのままナツキさんは下流へと降りていったです。武器屋のハロちゃんはもういなくなっていて、本当によかったのです。あの子はきっと、殺気だけでショック死してしまうです。
途中のテントや露店の人達を震え上がらせながら歩くナツキさんの背には、やっぱり見間違えではなく、黒い霧と一緒に真っ赤な血の色のバチバチが出ていたです。地面に倒れた人達はそれを見て、口々にこう呟いたです。
――血翼の天使、と。
次にナツキさんが向かったのは、あのピンク色の酒場だったです。
「さっきぶりだね、マスター……」
「ひぃっ……あ、あらぁん……し……知ってしまった……のねぇん?」
「『あれ』に関わる情報全て、いくらで売ってくれるかな……?」
フーデッドローブを脱いだナツキさんが不思議な格好の店主さんを睨んで強い殺気を飛ばしたです。店主さんは《古本屋》さんみたいに気絶してしまうことはなかったですが、ガタガタと震えだして、
「ぜ……ゼロリューズよぅ……あ、アタシの命さえ……助かるなら……」
「じゃあこの件に関わった人間、全員リストにして出して。今すぐ」
「そ……そのリストなら、昨日《同盟》が買っていったわねぇん……口止め料つきで……はい、これよぅ……」
店主さんから紙束を渡されたナツキさんは、それを一目見るなり殺気の濃度を急上昇させたです。背中の血の色のバチバチが大きくなって、わたしは立っていられずへたりこんでしまったです。
「ひぃっ……!?」
「……これ……一体、『あれ』はいくつ存在するのかな……?」
「さ……300……よぅ」
「…………」
無言で紙束を睨みつけるナツキさんを、店主さんは冷や汗をだらだら流しながら観察していたです。
……「それ」と同じものが300個もあるなんて、わたしにはとても嬉しいことに思えたですが、そんなこと言えるはずもないのです。
と、そのとき、誰かが駆け込んでくる足音がしたです。
「マスター大変や、あいつらしくじりよったで! ナツキが暴れと、る……」
ラムダさんなのです!
ラムダさんは部屋に入ってきて、無言のナツキさんを見て口をぱくぱくさせたです。
「ラムダさん、ナツキさんが壊れちゃったのです、ラムダさんの忠告はほんとだったのです……うぅ……助けてくださいです……」
「うぉ、ぉう、自分、アイシャか……」
ナツキさんが壊れてしまった今、わたしにはもう頼れる人がほとんどいないのです。ラムダさんにすがりついたら、ラムダさんはちらりと「それ」の入った袋を一瞥して、頬をひきつらせてナツキさんを見たです。
「ラムダ……」
「お……おう、なんや」
「ラムダも、『見た』んだね」
「…………まあ、な。そ、それよかナツキ、自分それ、一体どこで手に入れよったんや。もうあらかた《同盟》が回収しとるはずやで……」
「ごめんなさいラムダちゃん……『オリジナル』の場所、アタシが……教えちゃったのよぅ……」
「はぁ!?」
「だってぇん……まさか七杯飲みきるなんて思わなかったし……この子があの『血翼の天使』だなんて知らなかったのよぅ……」
「二人で七杯飲んだんか!?」
店主さんの涙ながらの告白に、ラムダさんは「間に合わんかった……っ」と両手で頭を抱えてしまったです。
「オリジナル……回収……はは、やっぱりそうなんだ。ねぇ、ラムダ……本当に、世の中には知らなくていいこともあるんだね……」
「そう言ったやないかっ、全部ワイらで片付けたるって……!」
「ボク……もうラムダの顔直視できないよ……」
「っ……大丈夫や、ワイは何とも思っとらんで!」
ナツキさんが殺気を撒き散らしながら泣き出してしまったです。いつもの嘘泣きじゃなくて、本当に泣いているのが分かったです。
「せ……せや、ほな元凶のアホいてこましたろ、な、それでスッキリや!」
「…………。一応聞いておくけど、元凶ってやっぱり……そうなの?」
「……。悪気は、無いんとちゃうか、あれは」
「…………っ!」
ナツキさんは脇目も振らずに酒場から駆け出してしまったです。わたしはラムダさんに抱えあげられて、ラムダさんが全速力でナツキさんを追いかけてくれたです。
そしてナツキさんにようやく追いついたのは、《同盟》本部ビルの最上階で……
「――ヴィスコおじいちゃん、大っ嫌い!!!」
ちょうどナツキさんがそう叫びながら、スパァン、と全力のビンタを《同盟》のトップのお爺さん、ヴィスコさんに叩き込んでいるところだったのです。
ヴィスコさんは唖然としてナツキさんを見たです。何が起こっているのか分からない、というように。
溜息をつくラムダさんには分かっているみたいだったですが、実は私にも、ナツキさんが壊れてからずっと何が起こっているのか、どうしてナツキさんが怒って泣いているのか……全然分かっていないのです。
だって……こんなに、すごいものなのですよ? すごい値段で取引されるのも納得なのです。それにこれを欲しがる人がたくさんいるなんて、とっても嬉しいことなのです。
「……アイシャ、アホ! 何出しとんねん! なおしとき!」
「ふぇっ……で、でも……こんなに、かわいいのですよ? よくわからないのです……」
わたしはその、色鮮やかな表紙を見下ろしたです。
『ぶらっでぃ☆えんじぇる ナツキちゃん ~地上に暮らす天使の素顔~(成人向け・非売品)』
――そんなかわいらしい文字と一緒に、《子猫の陽だまり亭》のお風呂の湯船でくつろぐナツキさんのかわいい写真が大きく印刷された、他にも色々なナツキさんの写真がたくさん詰まった写真集の表紙を。
「ほら、わたしやニーコちゃんもたまに写ってるです! 写真なんて貴重なものに写れるなんて、とっても嬉しいのです」
わたしとナツキさんとニーコちゃんで背中の洗いっこをしているページを広げて見せたら、ラムダさんは「やめやアホ!」と叫んで目を逸らしてしまったです。こんなに綺麗に撮れているのに、不思議で――あっ、ナツキさんに写真集を取られてしまったです。
「アイシャ」
「は……はいです」
「――そういうことじゃ、ないんだ」
ナツキさんは笑っているように見えて、目が全然笑っていなかったです。
そしてわたしから取り上げた写真集を上に放りながら剣を抜いて、
「幽剣流・破の四――」
一瞬気の力がナツキさんの右腕に集まったかと思うと、目にも止まらぬ速さで剣がヒュンヒュンと煌めいて、
「――《砕水》」
まるで水滴が弾けるみたいに、写真集はたくさんの細かい細かい紙の粉になってしまったのです。同時に粉々に砕け散ってしまった刀身と一緒に落ちていくそれは、キラキラと舞う朝の窓辺の埃みたいに綺麗で――
……も、もったいないのです!!