天使に会いに
先程リンゴジュースを山ほど飲んだせいで、丁度尿意がせり上がってきていたところである。古本屋がトイレになっていることはひとまず置いておいて、用を足しておくことにした。
この世界にはなんと水洗トイレがある。水道が引かれている中流区以上にある公衆トイレはほとんど水洗で、《子猫の陽だまり亭》も同様だ。もうかなり上流側まで来ているからか、ボロい木造の見た目に反してしっかり洋式トイレっぽい見た目の便器が設置されていた。
女の子としての用の足し方には、まあ、何と言うか、慣れた。慣れざるを得なかったとも言う。
「アイシャはいいの? めちゃくちゃ飲んでたけど……」
個室の前で立って待っているらしきアイシャに声をかけると、
「ふぇ? ラクリマはトイレしないのです」
そんな予想外極まる答えが返ってきた。
「いやそんな、アイドルはナントカしないみたいな……」
「トイレ、初めて入ったです。こんな感じなのですね」
「……マジで言ってる?」
そう言われてみれば確かに、《陽だまり亭》でアイシャやにー子が用を足しているところは見たことがない。
「で……でも、じゃあ食べたものはどこに消えるのさ」
「食べたものはわたしたちが生きるためのエネルギーになるですよ?」
「いや、残りかすとか余分な水分とか……何とは言わないけど、出るんだよ、人間の場合」
「残りかす……? 何が残るです?」
「……不要物?」
「ふぇ……エネルギーにならない食べ物があるです……?」
困惑している雰囲気がドア越しに伝わってきた。どうやらこれは、ラクリマと人間で体の仕組みに大きな相違がありそうである。
「そういえばさっきもものすごい速さで消化してたもんね……」
破裂しかけていたお腹がいつの間にか空っぽになっていたのを思い出し、そういうものと納得するしかないのだろうと結論づけた。
というかそうなると、ナツキの身体はやはりラクリマではなく人間なのだ。出会ったばかりの頃に、おめぇはラクリマだ、なんて言ってきたダインに今さらながらちゃんと反論できそうである。
「でもトイレの必要が無いのはちょっと羨ましいなぁ」
「そうなのです?」
「まあね……え、じゃあラクリマってその、なんだ……おしりの穴もないの?」
「ふぇ、分からないのです……わたしのおしり、見てみるです?」
「見てみません!」
言葉を選んで問いかけたら爆弾発言が跳ね返ってきた。そうだった、アイシャは精神年齢が14でも羞恥心だけはにー子レベルだということを忘れていた。
「全くもう……ん?」
用を足し終えて立ち上がり、水を流そうと振り返ったところで、ふと気づいた。
「……本棚?」
背後の壁に、抽象的な本棚の絵が浮かび上がっていた。こんな絵、個室に入る時には無かったはずだ。
――本棚。そして元々ここにあるはずだと思っていたのは古本屋だ。
「ナツキさん、どうしたです?」
「アイシャも入って。これ、何かありそう」
とりあえず水を流し、ドアを開けてアイシャを招き入れる。
「ほら、これ見て」
「……? 何もないのですよ?」
「あれ?」
ナツキが指さした壁は、元通り何も書かれていない木材に戻っていた。
ドアを閉めてみたり、別の個室に移動してみたり、一人だけで入ってみたりと色々試してみるも、本棚が再び現れる気配はなかった。幻覚だったんじゃないかとナツキが自分の目を疑い始めたところで、アイシャが「もしかして」と頭の上に電球を灯した。
「中にいる人がトイレを使ったら出る、です?」
「水を流してみるのは今やったよ?」
「水を流しただけじゃ、使ったとは言えないと思うです」
「…………マジで?」
ということは、何か。
ナツキとアイシャが二人で個室に入り、ナツキが用を足さないと、二人で本棚の絵を見ることはできないのか。
「ナツキさん、もう一回やってみるです」
「…………」
幸い(?)、ナツキは2リットル以上も水分を溜め込んでいる。未だに胃腸の中には未消化のジュースが残っているし、少し待てばすぐに尿意に襲われるだろう。だがしかし、
「わたし、人間さんの体に興味あるです」
「……アイシャ」
そんなことを言って興味津々な瞳でこちらの股ぐらを凝視してくる女の子の前で平然と用を足せるほど、心を幼くするのは無理があると思うのだ。
「どこから出てくるです?」
「アイシャ」
「おなかぎゅーって押せば、おしりの穴から出てくるですか? んむっ」
「アイシャ、そこまで」
「んぅー……?」
片手でアイシャの口を塞ぎ、片手で顔を覆い深々と溜息をつく。
知的探究心が強いのは非常に結構だが、それを今発揮されるのは非常に困る。
「あのねアイシャ、世の中にはTPOというものがあってね……」
人間の排泄機能と関連する羞恥心、公共マナーについて淡々と語り、どうにかこうにかアイシャに後ろを向かせて再度用を済ますことに成功し(チラチラ見られていた気がするが)、羞恥心をはるかに上回る甚大な疲労感と共に後ろを向くと、
「わ、見えたです!」
「うぅ……長く険しい道のりだった……」
そこには先程と同じ、抽象的な本棚の絵がぼんやりと浮かび上がっていたのだった。
うん、このギミックを考えた奴をぜひとも一発殴ってやりたい。
「で……どう思う?」
「ふぇ、えっと、そんなところからお水が出てくるなんて不思議だと思ったです……」
「本棚、本棚の話ね! ボクの股間見ながらしみじみ感想言うのやめてよ……ってかやっぱり見てたんじゃん!」
「はわっ、ご、ごめんなさいです」
今のアイシャは完全に素だった。本人に全く悪気がないことは分かるので頭を抱えてしまう。
「本棚……特に何かの謎かけって感じでもないよね。普通の本棚の絵だけど……」
「はいです……」
「試しに気でも通して――わっ!?」
指先を本棚の絵に触れさせた瞬間、絵が光り、魔力反応と闇のマナの残滓を残して消えていった。
「な、何だったです……?」
「触れたら発動するタイプの魔法陣……トラップによく使われるやつ」
「っ!?」
トスカナがいれば最初に診断できたのだが、練気術では隠された魔法回路や魔法陣を遠隔で検知するのは難しい。接触がトリガーのトラップは練気術とは致命的に相性が悪いのだ。
常にトスカナがサポートに存在していたことのありがたみを噛み締めつつ、無言のまま緊張の数秒間が経過するが、
「何も……起きないです?」
「みたい、だね」
個室内に他に異変はない。本棚が現れる前の状態に戻っただけに見える。
「中に異変がないなら……」
外だ。
アイシャと頷き合い、慎重に個室の扉を開け、トイレの廊下に一歩踏み出し――
景色が変わった。
「っ、結界!?」
「ふぇ、あれ、ここ……どこなのです?」
「アイシャ、警戒! ボクの後ろについて!」
トラップ魔法陣が発動し、誰かの張った結界に取り込まれた。ラグナでの魔法戦なら、既に敵の胃袋の中にいるに等しい状態だ。
剣を抜き、周囲に気を巡らしつつ空間を観察する。見た目は古びた洋館の中のような装いで、ロウソクの明かりがぼんやりと埃っぽい空気を燃やしている。周囲には本棚がいくつも並び、目の前には豪奢な執務机が置かれている。そしてその机の上に腰掛けて本を読んでいる――骸骨の仮面で顔全体を覆う、長身長髪の男。
「…………へえ、子供が来るとは珍しい。ああ、僕の書庫に何の用だい?」
ナツキとアイシャに剣を向けられているにもかかわらず、男は読んでいたらしき本をパタリと閉じると、ツカツカとこちらに近づいてきた。
「それ以上近づかないで。あなたは誰?」
剣を前に突き出して警告すると、男は素直に両手を軽く上げてピタリと止まった。
「ああ、失礼……とは言っても、君たちは僕に会いに来たのだろう? 書庫の門は書を求める者のみに開かれる――ああ、僕は誰、か。名前は捨ててしまったよ。今の僕はただ、《古本屋》と呼ばれている」
「古本屋……!」
「そうさ。……ああ、君たちを害するつもりも閉じ込めるつもりもないよ。もし偶然入ってしまったのなら、もう一度扉を開き直すといい。二度と同じように入ってくることはできなくなるけれどね」
その言葉に嘘は感じられず、《気配》術でも敵意は検知できなかった。まだ警戒は解かないが、剣は下ろす。
「……古本屋に、用があって来たんだ」
「ああ、承ろう。そこの本棚の本は好きに立ち読みしてくれて構わない。あるいは……秘密書庫の扉の鍵をお持ちかな」
鍵。古本屋で求められる鍵なら、情報屋がオマケしてくれた。
「『天使に会いに来た』」
アイシャと共にそう告げた瞬間、骸骨の仮面の奥で男の表情がピクリと揺れたのが分かった。
「……この最悪のタイミングで、君たちのような子供が、あんな物を?」
この反応はもしや、ここにあるのか。高額取引されているブツとやらが。
調査をしている、とは言わない方がいいかもしれない。何も答えず、意味深な笑みを返しつつ、《念話》術でアイシャにも黙っているよう伝える。
「まあ……いいか。これで厄介事から縁を切れるなら……」
男はそう呟くと、「少し待っているといい」と言い残して背後の扉から何処かへと去っていった。
程なくして返ってきた男は、黒い布袋に入れられた何かをナツキに渡し、
「お代も返却も結構。……ちょうど、手放そうと思っていたところだから」
そんなことを言って、逃げるように執務机に戻った。
「……ここで中身を確認しても?」
「僕はもう見たからね、構わないけれど……勧めはしない。中身が本物であることは《古本屋》の名にかけて保証しよう。だから……特に君たちが誰かの遣いならば、確認せずに雇い主に渡すことを強く勧めるよ。天使の業火に呑まれて死にたくなければ、ね」
男は本気で、ナツキとアイシャのことを心配しているようだった。しかし雇い主などいないのである。そして「僕はもう見た」ということは、見てすぐ死んだり闇市が滅んだりするような代物ではないはずだ。
ならば、見るのを躊躇する理由はない。これを確かめに、はるばるここまで来たのだから。
そしてナツキはアイシャと共に「それ」を袋から取り出し――
――闇市を滅ぼそうと、思った。