酒場 Ⅲ
ビンク色の横穴を出て、丁度近場にあった岩陰にアイシャを連れていく。
「アイシャ、吐いちゃっていいんだよ」
「だめ、です、んぷっ、もったいない、のです、はぁっ、すぐ、消化され、るです、から」
これだけの量、そんなすぐに消化されるはずがない。そう主張してもアイシャは譲らず、苦しそうなままその場に仰向けに横たわった。
「……ごめん、アイシャ。無茶させて。ボクが代わるから、楽にしていいよ」
ワンピースの破れてしまった脇腹部分から手を差し込み、大きく張り詰めたお腹に触れ――皮膚や腹筋、内臓に張り巡らされたアイシャの気の力を、ナツキの気で塗り替えていく。
「んっ……ぷはっ、あぅ……バレてた、ですか……んぅっ、でも、はぁ、上手くいった、です、あうっ」
「無茶し過ぎ」
空いている方の手でデコピンを一発。本当にこれは、命懸けの無茶だ。
「根源の窓を見つけさせただけで、身体強化なんて教えてないのに……一体いつ覚えたの?」
「朝、ベッドの中で……と、ここまで来る、途中、なのです」
そう、あの巨大ジョッキ五杯分のジュースなど、本来アイシャの小さな体に収まりきる量ではないのだ。それを無理やり、胃袋やその周辺臓器、筋肉、皮膚を丸ごと身体強化で頑丈にして抑え込んでいる。
つまり今もしナツキが気の制御を止めれば、アイシャのお腹は破裂してしまう。そういう状態だ。
アイシャのお腹に触れてそう気づいた瞬間から、常に上書きできるように準備はしていた。しかしアイシャは全く気の力の制御を誤ることなく、ナツキに頼ることもなく、ここまで複雑な身体強化を保持して見せた。
「ナツキ、さん……わたし、役に立てた、です?」
正直、ものすごい才能だ。誰に教えられることも無く半日で習得し、使いこなせるようになるものでは決してないのだ。それは師として喜び褒めるべきことで、しかし――
「アイシャ……ボクは今怒ってるよ」
「ふぇっ……?」
「命を粗末にしてまでボクの役に立とうとしないで」
「っ――」
アイシャの策に気づいた時、心の底からそう思った。
と同時に、ナツキを押し倒すにー子の泣き顔の記憶と共に飛来した巨大ブーメランに胸を抉り取られた。あの時のにー子の気持ちが今は手に取るように分かる。
「ねえ、アイシャ……ボクが練気術を教えるのは、アイシャに命懸けで恩返ししてほしいからじゃないよ。ボクと一緒に、ボクたちの大切な人を守って欲しいからなんだよ」
「それは……分かってる、です。ナツキさんは、優しいから……」
「分かってないよ。その守りたい大切な人の中にはアイシャもいるってこと……絶対分かってない」
「……!」
ついこの間、ナツキもにー子に教えられたことだ。一歩間違えれば即死の状況に自ら飛び込むのは自己犠牲の奉仕ではなく、あとに残される者達のことを考えない愚行だと。
「ぁ、ぅ……ごめんなさい……です」
「……んーん、ボクの方こそ……アイシャが焦ってること、全然気づかなくてごめん」
今日は最初から、アイシャの様子が少しおかしかった。ずっと消極的だったアイシャがやけに積極的で、常にナツキを先導するように動こうとしていた。……しかし時折見せる不安そうな表情は、いつもよりも何かに怯えているようだった。
「弟子にするとか言われて突然変な力も押し付けられて……そこまでされたんだから早く何か役に立たなきゃ、って思ったんだよね。ボクだってアイシャの立場ならそう思う……ってことに、さっきようやく気づいたんだよ」
「そ、それは……あぅ」
今まで自分が役に立ったことがない。それを相談したら力を与えられた。そこまでされて役に立てなければ、自分の存在価値を示せない。道案内は本当に役に立っているだろうか、ナツキなら一人でもきっと闇市に入ることくらいできて、自分がいる意味などないのではないか。もっと頑張らなければ、自分が役に立てる場面を見つけなければ。
――そんな思考に陥っていたアイシャは、ちょうど貰った力を活かして役に立てる場面を、見つけてしまった。
「……燃料を五個食べても大丈夫なのは、本当なのです。でも……あのコップ一杯は、本当は……燃料ひとつよりもちょっと多かったです。三杯と半分くらいで、おなかが破けそうになったです」
「……うん」
「全部で燃料七個分くらい、なのです。でもそれくらいなら、気の力でどうにかできる……気がしたです」
そしてそんな思いつきを命懸けで実行してしまう程に、ナツキはアイシャを追い詰めていたのだ。
「ねえアイシャ、ボクって実は結構バカだし使えないよ?」
「ふぇっ?」
「昨日もお風呂で言われるまでアイシャの気持ち全然分かってない時点で大バカだったし、そこで練気術の最初の一歩を教えてなんか解決した気になってたのもバカだし、アイシャに引き止められなかったら全力で地の果てまでラムダを追いかけてたし、アイシャがいなかったら闇市の入口で延々電撃に焼かれ続けてたし、ローブも着ずに突入してたし、あの新人組員の人にも気づかずにメインストリート駆け上ってたし……」
「はわわわわなっ、なつ、ナツキさんに限ってそんなことないのです!」
大慌ての否定が飛んできた。……一体アイシャの中で、ナツキはどんな完璧超人だったのだろうか。
「……違うよアイシャ、謙遜でも励ましでもお世辞でも嘘でもなくて、全部ホントのこと。もしアイシャがいなかったら、ボクはまだ地上を彷徨ってたはずなんだ」
「ふぇ……」
「アイシャがいてくれて本当に良かったって、今日何度も思ったし……もっと言えば、アイシャが生きていてくれてよかったって、毎朝起きる度に思ってるんだよ」
「ふぇええっ!?」
毎朝そんなに具体的にそう思っているわけではないが、アイシャとにー子と同じベッドで目を覚まして新しい一日が始まるあの時間、本当に幸せを感じるのだ。それを言語化すれば、そうなる。
「お風呂で言ったでしょ、アイシャやにー子が元気でいてくれることが一番の贈り物だって。あれ、本当だよ?」
「……あ」
「ボクのために何かしてくれるのはもちろん嬉しいよ。でもそのせいでアイシャが傷ついたらボクは悲しいし……にー子やラズさんも、《子猫の陽だまり亭》の常連客の皆も、あとダイン……はちょっと微妙だけど、きっと悲しむと思う」
「……はいです」
「アイシャの存在価値なんて、そこにアイシャがいてくれるってだけで充分すぎるくらい計器振り切れ天元突破の大爆発なんだからさ、何かしなきゃ、なんて頑張らなくていいんだよ。強いて言うなら……ずっとボクの友達でいてくれると、もっと嬉しい。これがボクの本音」
「…………っ」
アイシャは一旦言葉を詰まらせ、これだけは譲れないという風に強い視線を向けた。
「それでも……わたしは、わたしを助けてくれたナツキさんに、わたしの力で恩返ししたいのです」
「うん」
その気持ちを否定することはできない。ナツキとて、同じ立場になればそう考えるだろう。
「ですから……いつかきっと、この気の力で、ナツキさんにもできないことをできるようになってみせるです。それまで……待っててくれるです?」
しかしそれを焦る必要はないのだと、自分の身を犠牲にしてまでそれを達成する必要はないのだと、それは正しく伝わったようだった。
「もちろん。一緒に頑張ろうね、アイシャ」
「はいです!」
と、真面目な話が一段落したところで、先程から気になっていたことがある。
「でさ、アイシャ。これは全然関係ない不思議なことなんだけど……」
「はいです?」
「ついさっきまでパンパンだったお腹がいつの間にかぺったんこなのは、どうして?」
「ふぇ?」
ずっと手を添えていたはずのアイシャのお腹はいつの間にか元の細い状態に戻っていて、指で押してみるとふにゃ、と凹んだ。
「えっと……食べ物を消化したら、お腹は凹むですよ?」
それは確かにそうで、嘘ではないのだが、なんの説明にもなっていなかった。
きょとん、と首を傾げるアイシャは何も疑問に思っていないようで、そこでふと先程「すぐ消化される」と言っていたことを思い出す。
「…………」
ここで何かを言い返しても首をかしげられるだけ。そう悟ったナツキは、やり場のない疑問を込めた指先で、ただふにふにとぺたんこのお腹をつついて回った。
「く、くすぐったいのですー!?」




