酒場 Ⅱ
一杯1リットルとして、七杯を二人で分担して一人あたり3リットル半だ。とても飲み切れる量ではない。
「そ……そんなに飲めるわけないじゃん!」
「あんらぁ、7000リューズって確認したわよぅ? ……文句でもあるのかしらぁ?」
「こんな非常識なコップだなんて思うわけ――」
反論しようとして、横からくいくいっとローブの裾を引かれた。
「アイシャ?」
「とりあえず一杯飲んでみるです。もしかしたら行けるかもです」
「いや、行けないでしょ、ボクら二人でこんな量……」
「一杯飲めば、たぶん分かるです」
そう言って、アイシャは大きなジョッキを両手で持ち上げ、ごくごくとリンゴジュースを飲み始めてしまった。
「まあ……お金払っちゃったし……飲めるだけ飲むか……」
諦めの心持ちで、重いジョッキに口をつける。
「……あ、おいしい」
普通のリンゴジュースだ。しっかりキンキンに冷えていてなかなか美味い。こう言ってはなんだが、正直《子猫の陽だまり亭》でラズがたまに出してくれるぬるいリンゴジュースより美味かった。
「ぷはっ、おいしいです~」
「いい飲みっぷりよぅ」
店主は強面を不必要にニコニコさせてアイシャとナツキを観察していた。《気配》術で見える意識に全く隙がない。何かイカサマをしないように見張っているというわけだ。
やがてアイシャが一杯飲み終わり、ナツキも少し遅れてジョッキを空にした。
「甘くておいしかったのです」
「うん、おいしかったけど……リンゴジュースだけでおなかいっぱいになったの初めてだよ……」
ただでさえ体が小さくなっているところに、牛乳パック一本分を飲み干したのである。お腹の中が大洪水状態だった。
しかしアイシャは片手でお腹を少しさすると、小さく頷いてこちらに顔を寄せ、
「ナツキさん、あとどれくらいいけるです?」
そんなことを小声で聞いてきた。
どうやらアイシャは諦めるつもりはないらしい。正気か?
「……頑張ればあと一杯は行ける……かな……」
高校時代、何かの集まりで飲み物を持ち寄ったときに、余った2リットルペットボトルのお茶を一気飲みして見せた奴がいた。少し苦しそうにしていたが、頑張ればこの体にも何とか収まるだろうか。
「いや、でもアイシャ、二杯目が飲めたとしてそれ以上は無理だよ、アイシャだって……」
「この大きなコップ一杯で、だいたい燃料一個分なのです」
「え?」
燃料。確か、ドール用に作られた丸薬のようなものだ。アイシャが看板娘になった日の夜、一度ラズが見せてくれたのを覚えている。外殻が溶けると中に圧縮された栄養液が溢れ出し、一瞬で腹が満たされる代物だったはずだ。
「わたしは燃料五つまでなら大丈夫なのです。ナツキさんがあと一杯飲んでくれるなら、勝てるです」
「へ? 五つって……五杯!? いやいや、いくらなんでもそれは――」
「はーい、おかわりよぅ。んもう、内緒話はだめよぅ、気になっちゃうじゃないのん」
ドン、と同じサイズのジョッキが置かれ、店主が体をくねらせた。目に毒である。
「いただきますです」
アイシャが迷いなくそれを呷る。こうなってはナツキも飲むしかない。満腹感を抑え込むように、最初ほど美味しく感じなくなってしまったリンゴジュースを喉へと流し込んでいく。
なんか最近似たようなことがあったな、とデジャヴを感じ、すぐに思い出した。……《迅雷水母》に極液とかいう謎の液体(卵)を飲まされたときの感覚と同じである。思い出したくなかった。
「んくっ、んくっ……ぷはっ、おかわりなのです!」
「!?」
まだナツキが半分も飲めていない間にアイシャは二杯目を飲み干し、さらに次を要求した。思わず飲むのをやめてアイシャを見る。
「ちょっ、アイシャ、大丈夫なの?」
「ふぇ、まだ二つ分なのですよ?」
すぐさま店主が次のジョッキを出し、アイシャがそれを持ち上げ、飲み始める。全くペースの落ちない飲みっぷりに唖然としつつ、ナツキは自分のジョッキの残りを飲み込み始めた。
一口飲む度に胃が張っていくのが分かるような苦しみの末、
「っぷはっ、はぁっ、はぁ、っぷ、もう飲めない……」
ナツキは二杯目をどうにか飲み終えた。お腹の中が大洪水どころか、水風船になった気分である。何故アイシャは平然としていられたのか、と隣を見ると、
「んくっ……んくっ……ぷはっ!」
アイシャはちょうど三杯目を飲み終えたところだった。
「ふぅ、ふぅ……次くださいです」
「アイシャ!?」
信じられない発言に思わず名前を叫んでしまう。同時に店内がにわかにざわめいた。
見れば、意識のある客達が皆、アイシャのことを凝視していた。
「あ、二杯目飲んだです? ……もう一杯、行けるですか?」
「っぷ、い、いやもう無理、っていうかアイシャ、大丈夫なの!?」
「ちょっと苦しいのです……ふぅ」
そう言いながらアイシャは自分のお腹をさすった。ワンピース越しでも分かる、スイカでもまるごと詰めたのかと問いたくなるほど大きく膨れたそれは、ちょっと苦しい、どころの騒ぎではない。
そしてまた訪れるデジャヴ。……ああ、これはアレだ。この世界に転生する前日、ペフィロが巨大おにぎりを丸ごと平らげて突然ストリップショーを始めたときの記憶だ。
「はい、次よぅ」
そして無慈悲に置かれる次のジョッキ。すぐさまそれを同じように呷り、アイシャはリンゴジュースを胃袋へと流し込んでいく。
「んくっ、んくっ……」
アイシャの顔が徐々に苦しそうになっていくが、ペースは全く落ちていない。当然同じペースでアイシャのお腹は膨らんでいき、細身のワンピースがぎゅうぎゅうに引き伸ばされている。
「おい、何だあのガキ……」
「四杯目だぞ……」
周囲の客たちがざわざわし始め、店主の顔も険しくなっていく。
「あ、アイシャ、本当に無理しないで……」
「んぷはっ、はぁっ、はぁ……だ、大丈夫、なのです、次で最後、ですからっ、次、くださいです!」
「ちょ待って、お腹破けちゃうよ!?」
「破け、ないのです!」
「いやいやいや何を根拠に!? だってもうこんなに――」
今にも弾けてしまいそうなアイシャのお腹に手を伸ばし、触れる。
――その瞬間、全てを悟った。
「アイシャ……まさか」
アイシャのお腹は石のように固く張り詰めていて、少しでも押せばどこかが破けてしまいそうな状態だった。しかしナツキには、ナツキにだけは、その心配がないことが分かった。
「……おチビちゃん、ここでスプラッタショーはやめて欲しいんだけどぉん……ホントに飲むのぅ?」
「はやく、うぷっ、持ってくるですっ」
「ボクからもお願い。限界になったら、残りはボクが飲むから」
「…………」
突然態度を変えたナツキを訝しむように店主は目を細めたが、すぐに七杯目のジョッキを持ってきてくれた。
アイシャは覚悟を決めた目付きになり、それを一気に飲み込んでいく。喉がごくりと動く度、ナツキが触れているアイシャのお腹は限界を超えて張り詰めていく。
突然ブチッ、と何かが弾ける音がし、まさか内蔵でも破裂したんじゃないかと周囲がどよめく。ナツキも一瞬心臓が跳ねたが、心配はいらない。ワンピースの脇腹あたりの縫製が千切れてしまっただけだ。むしろそれで少し余裕ができたのか、アイシャの表情が少し和らぎ、ペースが上がる。
「んっ、んくっ、……んくっ……ぷは、ぁっ」
そしてそのまま、ナツキの手助けも借りることなく、アイシャは最後のジョッキを飲み干してしまった。
「はぁっ、はぁ……っ、これで、終わりっ、なのです……っ」
「アイシャ!」
ジョッキをカウンターに置き、アイシャはふらりと後ろに倒れかけた。それをなんとか支えようとし、その重みにナツキまでよろめきかける。アイシャはこの小さい体に、推定5キロもの液体を詰め込んだのだ。
「ぅ、ぐる……じい、です」
「当たり前だよ……ボクでさえ、ぅぷっ、苦しいんだから……」
周囲の客たちはざわめかない。ただただ唖然として、荒い息を繰り返しながらお腹をさするアイシャを見ていた。
「これで文句ないでしょ。早く情報、教えてよ。店主さん」
一刻も早く、アイシャを安全な場所で介抱しなければならない。店主を急かすと、他の客と同じく茫然自失していた彼は慌てて動き出し、
「まさか飲みきるなんてねぇん……しょうがないわぁ……はい、これ。受け取りなさいな」
紙切れに何かを書き、四つ折りにしてナツキに渡した。
「その子のとんでもない飲みっぷりに敬意を示して、オマケ付きよぅ」
「……そりゃどうも」
さすがに耳をそばだて目を見開いている他の客の前で開けるほどナツキも馬鹿ではない。《同盟》も利用している以上は情報屋としては信用できるはずと判断し、そのままポケットに仕舞った。
「アイシャ、立てる?」
「っ、なん、とか……」
ふらり、巨大なお腹を抱えながら立ち上がるアイシャに肩を貸し、
「店主さん……どうせ途中で諦めるだろうって思ったんだろうけど……ここまでアイシャを追い込んだの、ボクは許さないよ。……この期に及んで何も分かってなかったボクと同じくらい、許さない」
出力をある程度絞った《気迫》術を放った。
「ひっ……!? あ、アナタ、ただの子供じゃ、な……!?」
フードを取り顔を見せる。情報屋だ、今後も利用することはあるだろう。その時にまた今回みたいなナメた真似をされては困るのだ。
「ボクはナツキ。この子はアイシャ。ボクら二人とも、ただの幼女だけど……相手が誰だろうと、売る気がない情報は最初から売れないって言えよ、悪徳情報屋」
「……!?」
店主が顔を青ざめさせ、何かを言い募ろうと口を開きかける。
「あ、でもこの紙は信用しとくよ。さすがにそこで評判落とすようなことはしないよね。オマケ付きってのも本当でしょ」
殺気を収め、口調も戻してそう補足しておく。
しかし店主は青ざめた顔のまま、ナツキを見てわなわなと震え出した。心なしか、殺気を受けていた時よりも顔色が悪い。
「そ、そうよぅ、でもその紙、開けない方がいいと思うわよぅ……」
「は?」
「情報は……本物よぅ。でも……アナタが真実に辿り着いてしまったら……もう闇市は……終わり……まさかアタシがその引鉄を引くなんてねぇん……」
情報屋までもがラムダと同じようなことを言い出してしまった。
何故か。ナツキの殺気を受けて、情報を渡した相手が戦える者だと分かってしまったからか。あるいは――ナツキの顔がここまで知れ渡っていて、ナツキだからこそ闇市を破滅へと導く何かがあるとでも言うのか。
「……そんな結末、少なくともボクは望んでないよ。じゃあね、店主さん」
今はアイシャが優先だ。店主に別れを告げ、アイシャを支えながらピンク色の酒場をあとにした。