陽だまり亭の新体制
「なんか……ほんとにいろいろあったよね」
長い回想から、現在へと舞い戻る。
そろそろぬるくなってしまいそうなコーヒーのカップを持ち上げながらしみじみと呟くと、カップの向こう側で大きな瞳が二つ、ぱちくりと瞬いた。
「ふぇ……どうかしたです?」
「いや、ちょっと今日までのこと思い出してて」
スーニャとの出会いから二週間ほどが経った。スーニャが週一で《子猫の陽だまり亭》を訪れるようになったこと以外は特に目立った事件もなく、看板娘をしつつたまに依頼を受けて害獣や神獣を討伐したり、スラム街での小競り合いを鎮圧したりする日々である。
再びヘーゼルから剣を借りてナツキも戦いつつ、アイシャにアイオーンの門再接続を教え続けている。惜しいところまでは来ているのだが、まだアイシャ一人で成功したことはない。
今日も依頼を受けて泊まりがけで小型の神獣(Dランク)を数体討伐してきた帰り、気まぐれでふらっと立ち寄った喫茶店で休憩中だ。上流区と中流区の境のあたりにあり、上質な水道のおかげかコーヒーがなかなか美味しい。
「現実逃避、ってやつです?」
「……そうとも言うね」
一緒に食事をすることには慣れても、まだナツキのコーヒーを分けてもらうことには抵抗がある様子のアイシャだったが、割とズバズバと遠慮のない会話ができるようにはなってきた。
ナツキが何の現実から逃避しているのかと言えば、テーブルの上に伏せられた今朝発行の新聞――軍事欄に軍事そっちのけででかでかと掲載された、ナツキが看板娘として働いている様子のワンショット。
つまり、しばらく《子猫の陽だまり亭》はナツキ目当ての新規客でごった返すだろうという現実である。
「…………」
テーブルから新聞を拾い上げ、現実を直視する。
片手に料理を載せ、片手に調味料の小瓶を持ち、どこかのテーブルへと歩きつつ、ふと誰かに呼ばれて振り返ったのだろう瞬間を背後の少し斜め上から捉えた、狙って撮ったのだとしたら神がかり的な手腕のカメラマンによる一枚。
こうして客観的に自分の姿を見て改めて思う――この体、我ながらかわいすぎる。ハンターズギルドの受付で毎度毎度頭を撫でられるのも仕方がないというものだ。
ナツキの名前はもう、「感染個体のドールを連れた、A級神獣を一捻りで倒す実力の、美少女オペレーター&ハンター(8さい)」という強烈なパーソナリティと共に、フィルツホルンのハンターやオペレーター達には知れ渡っている。ついでに言えば、やたら依頼の多いトドナコの森周辺の村落や、やたら喧嘩の多いスラム街では「最近よく来る便利屋幼女」として顔が売れている節がある。
それだけでも色々と面倒だったのに、具体的なグラフィックイメージと「料亭の看板娘」という肩書きが付与されてしまった。……しかも、一般民衆も広く手に取る新聞によって。
「……今朝の新聞ってことは、お昼からもう戦いになるかもね……どうするアイシャ、依頼が長引いたことにしてぶらついて帰る?」
「それはラズさんがかわいそうなのです。……それに、新しいお客さんがたくさん来ると、ニーコちゃんが怖がるかもです……」
「うっ……はい、一言一句仰る通りです……ボクが浅はかでした……」
「はぅわっ、ごっ、ごめんなさいです」
「違うよ、アイシャはいい子だよ……」
テーブルの脇に備え付けられた薄い籠に新聞を戻し、ナツキは立ち上がった。
いざ、戦場へ――
☆ ☆ ☆
「なにこれ」
帰りついた《子猫の陽だまり亭》の玄関前に、大きな看板が立てられていた。というか、今まさに立てられようとしていた。まだ何も書かれていない。
「なつき!」
看板の脇に座ってぼんやりしていたにー子が、ぱあっと笑顔を咲かせてナツキの胸に飛び込んでくる。抱きとめてあげると、しっぽをぶんぶん振って全力の喜びっぷりを見せてくれた。
二泊三日の遠出依頼だったので、寂しかったのだろう。
「ただいま、にー子」
「おかえいにゃさい!」
「おお……」
まだまだ舌っ足らずなお出迎えの挨拶。ナツキがいない間に、ラズか他の客が寂しがるにー子に教えてくれたのだろう。
得意げな顔で見上げてくるので、わしわしと頭を撫でてやると、目を細めて「にぅー」と鳴いた。かわいい。
「あいしゃも、おかえいにゃーさい!」
「ただいまです、ニーコちゃん。……一人でお外に出ちゃだめなのですよ?」
最近、にー子の行動範囲は店の前の庭まで拡大している。にー子が窓の外を気にするようになったことと、「だいじょぶ。せいきし、もうぜったいこない……」とスーニャのお墨付きがあったことで、ラズや他の客が監視していることを前提に許可されたのだ。
「ひとり、ちぁうよ?」
そう言ってにー子が指さしたのは、《子猫の陽だまり亭》の屋根の上だ。しかしその先には何も無い――いや、よく見るとその辺りだけ屋根が歪んでいるように見えた。
「すーにゃ! おきて!」
「えっ、スーニャ!?」
にー子が呼びかけると、歪んだ空気がほどけるように揺らめき、
「ん……ふぁあぅ……なにー、にーこ……あ、なつき、あいしゃ……」
眠そうにくしくしと目を擦るスーニャが姿を現した。いつものパジャマ姿で、大きな兎のぬいぐるみを抱えている。
「光学迷彩……?」
何の異能を持っているのかは「ひみつー……」と言われ結局教えてもらえていないが、もはやなんでもありである。しかし寝ていたら監視にならないじゃないか、とナツキが呆れていると、今度はすいーっと空中を滑ってナツキ達の前まで飛んできた。
「おかえりー」
「う、うん、ただいま……スーニャきみ、何でもできるね」
「ん……なつき、スーも……なでなでしてー……?」
ずい、と氷の角つきの頭を差し出してきた。どうやらにー子がナツキに撫でられていることは把握していたらしい。寝ながら監視とは器用なものだ、と驚きを通り越して呆れながら、薄水色の頭を撫でてやる。皮膚が氷のように冷たいスーニャだが、髪の毛まで冷たいわけではないのだ。
ふとアイシャがこちらを見ていることに気づき、おいでおいでと誘ってみるが、ぶんぶんと首を横に振られてしまった。にー子やスーニャの前で撫でられるのは恥ずかしいのだろうか。
「に、ニーコちゃん、スーちゃん、この看板は何なのです?」
そのまま話題を逸らすように、店の前の謎の立て看板を指差した。
「なぅ、らずさんが、たいへんーって」
「しんぶん……スーがもってきた。これ……」
スーニャの異空間ぬいぐるみから例の新聞が出てきて、例の面を広げて見せられた。
「う、うん、ボクも見たよ……改めて人から見せられると恥ずかしいね、これ」
「……? だいじょぶ、かわいい。みんな、かわいーっていってた……」
「そ、そっか……」
スーニャにとっての「みんな」がどの範囲を指しているのかは分からないが、もしかするとギフティア部隊の面々にすら認知されているのかもしれない。なんのフォローにもなっていないし、むしろ恥ずかしさが増したぞ。
このタイミングでラズが何かするならこの新聞関連だろうとは思ったが、しかしこの看板で一体何をするのか、待っている人向けのメニュー表だろうか、などと考えていると、玄関が開いてラズが出てきた。
「お、帰ったかい! 丁度いいね、アンタらも手伝いな!」
その手に提げているのはいくつもの小さなバケツだ。中を覗けば、ペンキと筆が入っていた。
にー子が全体を豪快に黒く塗りつぶし、アイシャが白で恐る恐る枠を作る。ナツキが装飾を加えていたら、楽しそうだと目を輝かせたスーニャが、筆も使わずペンキを空中で操り、水色や黄色で枠の外側を華やかに飾りだし、ナツキの仕事がなくなる。右下にラズがやたらと上手い眠る子猫の絵を添える。うん、オススメメニューの掲示板らしくなってきた。
「あとはアンタがやりな、ナツキ。いいかい、アタシが言った通りに書くんだよ」
「うん、任せて。やっぱりグラタンだよね?」
「何言ってんだい、馬鹿だね」
「え?」
色とりどりの枠の中央の大きなスペースに、ナツキはラズに言われるがままに文字を書き込んでいった。
――『一見さんお断り』。
☆ ☆ ☆
「あっはっは、こりゃ面白いねぇ。あたしのナツキちゃんに手を出そうなんて、100年早いよー」
「リリムさんのじゃないし、あとそのメスは何なの」
「押し入って来るかもしれないからねぇ」
「さすがリリムちゃん! やっちまえ!」
「いや、穏便に解決しようよ!?」
窓の外、知らない人々が続々とやってきては看板に気づき、様々な表情を見せながら散っていくのを、ナツキと常連客達は眺めていた。
「なぅ……らずさん、おきぁくさん、はいってこない……」
「ふん、いいんだよ。これ以上馬鹿猿が増えたらまだまともな猿どもの居場所がなくなっちまう」
「うぅっ、ラズさん、そんなに俺らのこと……」
「アンタはまだ馬鹿猿だよ、さっさと注文しな」
よく分かっていないにー子はお客さんが帰っていってしまうことを悲しんでいた。ラズは常連客の席がなくなってしまうことを理由にしていたが、本心としてはにー子やナツキ、アイシャを守ろうとしてくれているのだと思う。この間の聖騎士のように、どうすることもできない相手がなるべく店に入ってこないように。
「いいかい、紹介制にするからね。金払いの良さそうな奴を連れてくるんだよ!」
「任せろラズさん!」
当然それに加え、にー子たちを受け入れられることが前提としてあるわけだが、それは誰もが分かっていた。
「おうお前ら! 緊急会議すっぞ!」
「何でてめえが仕切ってんだキール!」
「うるせえ! んなことより今はナツキちゃんの安全のが百倍大事だろうがッ!」
椅子の上に立ったキールが、例の新聞を机に叩きつけた。パァン、と小気味いい音が響く。
「椅子に立つんじゃないよ! バカ騒ぎは注文してからやりな!」
ラズの雷が落ち、思い思いに昼食を注文した常連客達がテーブルを囲んだ。
一見さんお断りで新規客を蹴っているというのに、今日はやたらと客数が多い。皆新聞を読んで飛んできたのだろう。
「これを見ろ」
例の新聞の3面が広げられ、キールがナツキの写真を指差した。
「かわいい」「かわいいな」「最高」「さすがナツキちゃん」「娘にしたい」「寝かしつけたい」「これぞ世界平和」「にぁ!」「わかるー……」
「ボクのいないところでやってくれるかな!」
「ふふ、ナツキさんが照れてるです」
「うるさい。ってかにー子とスーニャはなんで混ざってるのさ!」
アホみたいな会議場に水を配膳していく。正直、もうお盆ごと置いていくから勝手に取って欲しい。
面と向かってかわいいかわいいとちやほやされるのは「わかる、この体かわいいよな」という凪いだ気持ちで聞いていられたのだが、自分の写真を見て褒められると何故かどうにも落ち着かない。何故だ。こいつらがエロ本拾った中学生みたいなノリだからか。
「そうだ、確かにかわいい。だがこれは『写真』ってやつだ。堂々と店に侵入して、俺らに気付かれずに聖片振りかざしてこんな貴重な一瞬を切り取りやがった、羨ま――けしからん盗撮野郎がいるってことだ! どうせこの一枚だけじゃねえぞ、そいつはこんな写真を何枚も何枚も隠し持って――クソッ、羨ましい! 俺も『カメラ』欲しい!」
「キールさん本音、本音出てるよ」
カメラは聖片らしい。キールの様子を見る限り、一家に一台あるような代物ではなさそうだ。
「カメラって高いの?」
「んー、200万リューズくらいはするかな? お金持ちって感じだよねぇ」
あたしも持ってないよー、とリリムが手をヒラヒラ振る。どうやら普通は報道機関が使うもので、個人で写真を撮るのは金持ちの道楽、というイメージのようだ。
「俺らにカメラなんか買えるわけねーからな、外部の犯行だ」
「なら紹介制になったし、店に入られることもないんじゃないか?」
「バカ、そしたら外にいる時を狙われるだけだろが。オフの日とか、おつかい中のナツキちゃんやアイシャちゃんの写真が……欲しい!!」
「ああ、欲しい」「欲しいな……」「俺も」「にーこも!」「スーも……」
「ねえ、ここにいる人たちはみんなバカなの!?」
「今更何言ってんだい、ほら、さっさと運びな」
そう、うちの常連客達は基本的にバカばっかなのだった。
ナツキとしても、盗撮されたいかと言われれば当然ながら全然されたくない。今度からは殺意以外の意識にも気をつけて外出するとしよう。