震える腕の中
翌朝ナツキが目を覚ますと、身動きが取れなくなっていた。
温かい物体に、がっちりと体を拘束されている。
「……!?」
……最近、起きたら動けなくなっていることがやたら多くないだろうか。
視界が何か、温かくてやわらかい物体で塞がれている。
何だ、何だこれは――と首を捻って視界を確保しようとし、
「んっ、ぅ……んぁ……だめ、ですよー……そんな……とこ……んっ……むにゃ……」
そんな艶っぽい寝言が頭の上から降ってきて、ピシリと硬直する。
身体を包むのは、爽やかな柑橘系の香り。まるでレモネードに浸かっているような――
これは、まさか。
「リモネちゃん……?」
やわらかい物体をそっと押しのけて首を上向きにすると――二つの小さな山の向こうに、リモネちゃんの寝顔が見えた。
……把握。リモネちゃんに抱き枕にされている。
それは分かったが、何故こんなことになっているのかが分からない。
昨日の夜、リモネちゃんはナツキとにー子の部屋の隣の客室に運ばれ、ベッドに寝かされた。ここで寝るわけには、仕事が、せめて同僚に連絡を、などとうわ言のように呟きながら、彼女は帽子も取らずにものの数秒で眠りに落ちてしまった。
不可抗力とはいえトドメを刺したのはナツキである。しばらく様子をそばで見ていることにして、しかし幼女ボディ故どうにも眠くなってしまい、さすがにそろそろ自分も寝ようとベッドに入り――
待て……自分はそこで、どの部屋のどのベッドに入った?
まさか寝ぼけて、あのロリコンリモネちゃんと同じベッドに潜り込んだ!?
「う……うわぁ……子どもの眠気、恐るべし……ぎゅむっ」
「んふー……」
呟きに反応したのか、ナツキを抱きすくめるリモネちゃんの腕に力が入った。二つのやわらかい感触が頬に押し当てられる。
当たってる、胸が当たってるよリモネちゃん! 14歳にしては割とあるねリモネちゃん!
「ボクは幼女……ボクは幼女だから問題ない……はず……!」
念仏のようにそう唱えながら従順な抱き枕として過ごすこと、数分。
何も変なことをされずにただ抱きしめられる分には、案外ぽかぽかして居心地がいいかも、役得役得、なんて開き直り始めたあたりで、リモネちゃんの腕の力が弱まった。
解放してくれるのか、あるいは目が覚めたのかと思い顔を見上げ――その表情が苦しそうに歪んでいることに気がついた。
「リモネちゃん……?」
「ゃ……ぃや……やめ、て……ださ……」
……うなされている?
「……んで……あたし、ちゃんと……まもった、のに……」
「リモネちゃん、大丈夫、夢だよ! 起きて!」
体を揺すって呼びかけるが、起きる様子がない。
「だめ……待って、行かないで、そいつは――!」
「リモネちゃんっ!」
何かを追いかけるようにこちらに伸ばされた震える手を掴むと、リモネちゃんはようやくハッと目を開けた。
「っ――! あ、れ……ここは……」
「《子猫の陽だまり亭》の客室、だよ。……大丈夫?」
「ぇ……ナツキ、さん?」
目を覚ましてもなお、掴んだ手は小刻みに震えていた。
「うなされてたけど……怖い夢、見たの?」
「あー……うなされてましたか、あたし」
少し気まずそうに、もう見なくなったと思ったんですけどね、と小さくつぶやいた。その声も少し震えている。
相当酷い夢を見ていたのだろう。あるいはトドナコの森の陣にいた兵士と同じような、実体験の記憶のフラッシュバックなのかもしれない。こんな殺伐とした世界だ、どんな惨い過去を抱えていてもおかしくない。
何と声をかけるべきかと迷っていると、リモネちゃんは急にはっと真剣な顔になり、
「……ちょっと待ってください。そんなことより、何故ナツキさんがあたしと同じベッドに……片腕はナツキさんの体の下……密着姿勢……はっ!」
「ひらめいた! みたいな顔しないでくれるかな」
同じベッドに潜り込んだのは自分だが、不可抗力だったのだ。幼女は眠気には逆らえないのである。決して不埒な真似を許可した覚えはない。というかずいぶん元気そうだな。心配を返せ。
「大丈夫そうだし、ボクはお仕事の準備してくるよ」
さっさと退散することにしよう。そういえば寝間着に着替えずワンピースのまま寝てしまった。アイロンの聖片はあったりするのかな、などと考えながらベッドを降りようとすると、
「ぁ……」
そんな小さな声と共に、リモネちゃんの手が伸びた。
捕まってたまるかと急いで離れようとして――彼女の顔が、見捨てられた子犬のように心細げなことに気づいてしまった。
うなされていた時の、行かないで、という声が蘇る。
「リモネちゃん……」
リモネちゃんはすぐにハッとして腕を下ろした。何でもないですよ、と言いながらへらりと笑う。
……さっきの軽口は、強がりだったのか。
「……およ? ナツキさん?」
「もう少しここにいるよ」
一度捲った布団の中に戻り、リモネちゃんの顔を見上げた。
驚きの表情の中に、隠しきれない安堵が混じっている。
「……いいんですか? あたし、何するか分かりませんよー?」
「リモネちゃんを信じるよ、変なことはしないって」
「うっ……生殺し……」
信頼を人質に取ってみる。意外と効果的だったようで、リモネちゃんはわきわきさせていた手を下ろした。
そのまま、数分。
他人の温もりがある布団というのは、それだけで居心地がいい。
両親がこの世を去ってからしばらくは、幼い秋葉と一緒の布団で寝ていた。怖い夢を見て目を覚ましたとき、秋葉は決まってナツキを起こし、腕に抱きついてきた。信じられる者の存在を確認するように、どこにも行くなと引き留めるように。ナツキが幼かった頃、両親に縋り着いたのと同じように。
だから、
「……ごめんなさい」
そんな言葉と共にそっと抱きしめられても、振りほどくことはしなかった。
信じてたのにー、なんて軽口でも叩こうかとも思ったが、やめた。リモネちゃんの腕はまだ、微かに震えていたから。
「……いいよ、安心するまで、そのままで」
今はまだ、抱き枕の身分に甘んじていてあげようと思った。
☆ ☆ ☆
リモネちゃんの腕の中、温かな微睡みの時間は、ドタバタと廊下を走る音で終わりを告げた。
「にぅー! なつきいない! どこー?」
「あっ、ニーコちゃんダメなのです! その部屋は――」
そんな声と共に部屋の扉が開き、いつものストライプもこもこセーターのにー子が飛び込んできた。遅れて青い顔のアイシャも現れる。
「にぁ、なつき、いたー! ……なぅ? だれー?」
「ニーコちゃん、ダメです、こっち、こっち来るのです!」
見知らぬリモネちゃんに気づいたにー子は警戒の表情になり、しかし好奇心が勝るのか、とてとてとこちらに近づいてきた。それを慌てて引き留めようとするアイシャ。
「およ? 未登録ラクリマ……の、感染個体……?」
「……あっ」
しまった。リモネちゃんはこれでも軍の人間で、全ドールの管理権を持っているとかいう謎ステータスつきだ。そんな彼女ににー子の存在を知られるのは、あまり良くないはず。ダインなら血相を変えて阻止するんじゃないか。
アイシャが顔を青くしているのはそのせいか。まずい、何か適当にごまかさなければ、とリモネちゃんの顔を見ると――目が爛々と輝いていた。
「ぎゃんかわ! え、何ですかナツキさん、この子! ぺろぺろしていいですか!?」
「いいわけないでしょ!」
しまった。リモネちゃんのロリコン部分が元気になってしまった。別の意味で存在を知られるべきではなかったかもしれない。
先程までの悪夢に怯える子供のような雰囲気はどこへやら、リモネちゃんはベッドから飛び降り、にー子にずずいと顔を寄せた。当然、その分にー子は後ずさる。
「に……にぁ……?」
にー子の猫耳が後ろへ反り、尻尾がピンと立って膨らんでいる。最大警戒状態だ。そうだにー子、リモネちゃんに対する反応はそれで正しい。
……ただ、尻尾がセーターを捲りあげているせいで後ろから見るとパンツ丸見えだから、リモネちゃんに背を向けないように。
「うふふー……怖がらなくていいんですよー、優しくしますからねー……」
「にっ……」
「リモネちゃん、にー子に手を出したらボク怒るからね。ボクに手出すより怒るし、うちの常連客に袋叩きにされるからね。二度と店に入れなくなるから、そこ理解して行動してね」
先手を打っておくと、リモネちゃんは「そんな殺生な!」と嘆きながらも手を下ろした。
ナツキもベッドを下りる。途端、にー子が慌てて駆け寄ってきて、後ろに隠れた。
「なつきー……」
「おはよう、にー子。大丈夫だよ」
「ぐっ! そのポジション、ずるいですよ!」
不安そうにこちらを見上げるにー子の頭を撫でながら、悔しそうなリモネちゃんがどう動くかと観察していると、
「んだよ、朝っぱらからうるせェぞ」
「あっ、ダイン……」
今一番来て欲しいような欲しくないような男がやってきた。
「ん、リモネ? ……そういや、昨日来てぶっ倒れたつってたな。で、……あァ……そういう状況な」
しかし特に慌てるでもにー子を差し出すでもなく、
「そいつはこないだ拾った感染マザーだ。ラズが気に入っちまったもんで、マスコットにしてんだよ。今は《砲弾》も《充電》も足りてんだろ? そいつのおかげで売り上げ上がってんだ、徴収は勘弁してくれや」
とだけリモネちゃんに告げ、答えも聞かずにさっさとギルドへと出かけてしまった。まるで答えなど分かりきっているかのように。
リモネちゃんも「なるほど」と素直に頷き、無視してにー子を連れていこうとするでもなく、
「となると通うしかないですね……むむむ、いやしかし、そんな時間は……」
なんて唸っている。いや来なくていいよ。別の意味でにー子が危険だ。
……この様子だと、ギフティアであるということさえバレなければ問題ない、のだろうか。
「ナツキ! ニーコ! アイシャ! いつまで寝てんだい、さっさと降りてきな!」
「にっ!」
階下からラズの呼び声が届く。にー子が肩を跳ねさせ、慌てて廊下に飛び出して行った。
そして部屋の隅で空気に徹していたアイシャもそれに乗じて部屋を出ようとするが、それを見逃すリモネちゃんではなかった。
「あー、アイシャ=エク=フェリス、あなたはまずこっちです」
「はっ、はいですっ……」
そう、彼女はアイシャの首輪が外れた通知を受けてやって来たのだ。アイシャから詳細を聞き出すのか、まさかまた《正気》術を使うのか。謎の声なんて答えを予想しているはずもない、また倒れてしまうんじゃ……と思いきや、
「回路展開、診断」
首輪に指を触れ、魔法回路の点検を始めた。診断は回路のコアへのアクセスが必要な操作である。リモネちゃんが全ドールの管理者だというのは事実なのだろう。
「長めに一回、その後短く一回……ふむー、順当に故障ですかね。接続解除……フィルタも機能している、と」
流れるようにアイシャの首輪を外し、すぐに付け直し、こちらを向いた。
「えーナツキさん、この子の首輪は故障している可能性が高いので、再発行します。今日の午後あたり、空いてます?」
再発行。……どうやら大事にはならずに済みそうだ。
昼と夜のラッシュの間の時間帯なら大丈夫だと伝え、そのタイミングで軍の本部受付にアイシャを連れていくことになった。
「んじゃ、お世話になりましたですよー」
ラズさんによろしく、と言い残して、リモネちゃんは流れるように窓から飛び降りた。
二階とはいえそこそこの高さだ。少し慌てて窓から外を見下ろしたが、ナツキの心配をよそに、上流区側へと元気に走っていく背中が見えた。軍籍は伊達ではないということだろうか。
「さて、と……ボクらも降りよっか。朝の仕事を教えるよ、アイシャ……アイシャ?」
「ひゃ、ひゃいですっ!?」
リモネちゃんの目の前でガチガチに硬直しっぱなしだったアイシャは、しばらく舌がうまく回らないようだった。