新・看板娘
まだ夕飯時ではないというのに、一階は多くのお客さんで賑わっていた。階段を下りた途端に大勢の視線が飛んできて、思わず一歩引きそうになる。
「ナツキちゃん!」
その場にいる全員の代表のようにナツキの名を呼んだのは、キールだった。にー子の服を買ってくれた八百屋さんである。おじさんと呼んだらまだ30なのにとショックを受けていたが、幼女にとって30歳は充分おじさんだと思うのだ。
ちなみに《子猫の陽だまり亭》で使っている野菜の一部はキールの店に注文していたりする。
「こないだのオペレーター試験の爆発事故に巻き込まれたんだってな? 無事でよかったぜ」
「え、爆発事故?」
「訓練用の聖片に爆弾が紛れ込んでたんだろ? 大量に怪我人が出たって……」
「あ、あぁー、うん、爆発事故ね」
比喩が事実とすり替わってしまったのか、あるいは対外的にはそういうことになったのかは分からないが、他のお客さんもうんうんと頷いて心配そうな顔をしているあたり、この場の共通認識のようだ。ひとまず話を合わせておく。
「大丈夫、リリムさんのおかげでボクは元気だよ」
「そんならいいけどよ……くそっ、俺も店休んで見に行きゃぁ良かったぜ、俺がその場にいたらナツキちゃんの盾になってヒーローになってたってのによ」
「あはは……ありがとう、キールさん」
その場合、殉死ってことになるけどいいの? とは言わないでおく。昨日の今日でナツキがピンピンしていることで、ちょっと吹き飛ばされた程度の怪我だと思われているのだろう。神獣の苗床&宿主にされてフィルツホルンを襲う寸前でした、なんて正直に言ったら卒倒しそうだ。
他のお客さんも皆、安堵の表情を見せていた。まだリリムが来ていないせいで、噂だけが広まっている状態だったのかもしれない。
「なぅー、きーる、きーる」
「お? どうしたニーコちゃん?」
いないと思ったら厨房から出てきたにー子が、キールの袖を引いた。
「んなー。およふく、ありゃた……ありあーしゃ……なぅ?」
言うべき言葉が分からなくなってしまったのか、首を傾げ、再び厨房の奥へと駆けていく。
ナツキとキールが顔を見合わせていると、程なくして戻ってきて、
「およふく、ありあとーごしゃました!」
ラズに教えられてきたのだろう、服を買ってもらったことのお礼をにっこり笑顔で元気に叫んだ。
「んふぅっ……」
にー子に笑顔を向けられたキールは口元を抑えて悶絶している。他のお客さんからの羨望の視線がキールに集まる。
その様子を見て不安になったのか、にー子は今度はナツキの裾を引いて、
「なつき、にーこ、ありあとごしゃまし、できた?」
「うん、大丈夫。あとはぎゅーってしてあげれば完璧」
「にぁ!」
アドバイス通り、にー子はキールの右足に抱きついた。キールは喜びのあまり震え出し、それを見た他のお客さん達がガタガタガタッ、と椅子から立ち上がる音を響かせる。
「へ……へっ、ナツキちゃん、俺は今……死んでもいいぜ」
「そ……そっか、じゃあ、助太刀はいらなさそうだね」
一歩下がる。
「へ?」
「キールゥ……テメェ、抜け駆けしやがったな……?」
ガシッと肩を掴まれたキールが後ろを振り向けば、そこには嫉妬と羨望からなる黒い感情が渦巻いており、
「うわっ何だよ、俺はただワンピース買ってやっただけで」
「物で釣るたぁ卑怯な手を……」
「ひぇっ、誤解だっての――」
今にも殺し合いが始まるんじゃないかという緊迫した空気が流れ――
「にぅ! けんか、めっ!」
――ない。何故ならにー子がいるからである。
「そ……そうだな、ごめんな、ニーコちゃん」
「なぅ」
キールの肩を掴んでいた大男が手をどかし、にー子はそれでいいのだ、と言わんばかりに頷いた。ラズが胆力で客を従えるこの店のボスだとすれば、にー子は純粋無垢さで客を従えるボスなのである。
にー子に喧嘩を封じられたお客さん達が、代わりにキールに対抗してにー子に贈るプレゼントについて真剣に話し始めた。ナツキに向いていたはずの意識はもはや全てにー子に向かっている。一応自分も看板娘として、もっと存在感をアピールしていくべきだろうかと思ったりもするが――
(いや――今アピールするべきなのは、ボクじゃない)
階段を見上げ、
「ね、みんな優しいでしょ?」
「……はいです」
階段の手すりの隙間から恐る恐る一階の様子を見ていたアイシャが、目を丸くしたまま頷いた。
「大丈夫そう? 今日はやめとく?」
「だ……大丈夫、なのです……たぶん」
瞳が不安そうに揺れている。ナツキが説き伏せたからと言って、そう簡単に人間から受けてきた酷い扱いを忘れて切り分けられるわけがない。
「安心して。万が一何かされそうになったら、ボクがちゃんと守るからさ」
「は、はいです」
「……あ、そうだ。怖くなったらボクの後ろに隠れるといいよ。それだけで皆――」
「ナツキちゃん? 誰と話してんのー?」
「あ、キールさん」
階段を見上げて喋っているのを目ざとく見つけたキールが寄ってきた。アイシャは慌てて一歩後ずさったが、それ以上階段を上ってしまうことはなく、その場で踏みとどまった。
……頑張れ、アイシャ。
「《モンキーズ》の連中でも帰ってきて――ん?」
階段の下まで来たキールがこちらを見上げ、アイシャに気づいた。そして数秒間硬直し、
「あー……なるほど、なるほど、分かったぜ。そっか、オペレーターになったんだもんな……」
そう言ってうんうんと頷いた。この数秒で、アイシャがナツキのドールだと理解したのか。さすが、泣きながら突撃してきたにー子の求めることを正確に見抜き行動しただけのことはあるな。
「……今日からなのか?」
「うん、この後みんなに自己紹介してもらううもり」
「そっか……そりゃまた、急だな」
「ラズさんが動けるなら働けってさ。ひどいよね」
「…………っ」
「キールさん?」
キールの様子がおかしい。何やら寂しそうな、悲しそうな顔でナツキを見ている。何故そんな顔を。それに今見るべきはアイシャなのでは。まさかあんなににー子大好きなキールが、ラクリマがドールになったからと言って差別的なことを言い出すとは思えないが――
訝しむナツキに気づいた様子もなく、キールは唇を噛み、どうしようもないのは分かるが納得はいかない、という表情でくるりとホールに向き直り、叫んだ。
「おいみんな、ニーコちゃんへのプレゼントの話は後回しだ!」
「んだてめぇ、一人占めは――」
「ちげぇよ! そうじゃなくて……ナツキちゃんが……ナツキちゃんが……もう、今日限りでいなくなっちまうんだぞ!」
……ん?
「待って、キールさん――」
どうしてそうなった、それは誤解だ。そう伝える前に、ホールがどよめきに満ちた。
「何だって!?」
「マジか……やっぱ、そうなのか」
「オペレーターになるんだもんね……寂しいけど、仕方ないよね」
「そうよね……うぅ、どう考えてもオペレーターのが給料いいわよね……」
「シトラちゃんの時もそうだったけど、急すぎるって……」
「てか現実的な話、ナツキちゃんいなくてこの店回るのかよ?」
「階段の上でナツキちゃんと話してた子が後釜っぽいぜ……これから挨拶に来るって……」
「もうそこまで手ぇ回ってるのかよ! ……くそっ」
「うおおおんナツキちゃん、俺は絶対忘れないからなぁ! でもっててめぇら、新しい子を笑顔で迎え――」
「うるさーい! みんな落ち着いて! 分かった、全部分かったけど誤解、キールさんの誤解だから! ボク辞めないよ!」
なるほど確かに、オペレーターになるなら《子猫の陽だまり亭》は辞めるのが自然な流れだろう。キールが全て理解したと勝手に思い込んだ自分が悪い。悪かったから泣くな、大の大人が揃って泣かないでくれ。
「メインはこっち、オペレーターは副業だから! たまにいなくなると思うけど、少なくともあと数ヶ月はここでも働くよ!」
「そ、そうなのか? 何で……だってオペレーターの方が何倍も稼げて……」
「あのねぇ、ボクはできれば平和に暮らしたいんだよ。戦いなんてしたくないの」
本心である。必要とあらば戦うが、戦いに飢えているわけではない。ラグナでの後半一年のような、仲間内でのわいわいのんびりスローライフを送りたいのである。
ナツキが断言すると、ホールは安堵に包まれた。
「それじゃ、さっきの子は……?」
キールが階段に視線を向ける。ようやくアイシャを紹介できそうだ。
「ボクの友達。……アイシャ、出ておいでよ」
「は、はいです」
声をかけると、おずおずとアイシャは階段を下りてきた。
「あ……あの、アイシャ=エク=フェリス、です。えと、その……」
不安げに揺れる猫耳と尻尾。それに気づいたお客さんが、目を丸くしてにー子のそれと見比べる。
「ラクリマ……?」
「え、かわいい……耳ぴこぴこしてる……」
「お前ニーコちゃんの時もそれ言ってなかった?」
「またダインさんが拾ってきたのか? やっぱあの人、そういう趣味なんじゃ……」
「待って、首輪がついてる。ってことはドールで……え、つまりそれって」
「もしかして、ナツキちゃんのドール?」
「ふぇっ、そ、そうなのです! ごめんなさいっ」
視線に耐えきれなくなったか、アイシャはさっとナツキの後ろに隠れた。怖くなったらナツキの後ろに隠れろ、という指示に従ってくれたようだ。
そしてそれを見たお客さんたちは、顔色を変えて慌てだす。その慌てっぶりはなかなかのもので、隠れたアイシャですらきょとんと目を瞬いていた。
彼らがここまで慌てるのには理由がある。実はアイシャに指示した今の行動は、にー子の場合における「お前は怖いから嫌いだ、あっちに行け」という明確な拒絶のサインなのだ。
普段はその行動を取らせたマナーの悪い客を諭したり追い出したりしていた彼らは、自分たちが初手でその地雷を踏むとは思ってもいなかったのだろう。
さてどう取りなしたものかと考えていると、お客さんの群れの中からにー子が慌てて出てきた。
「なぅ? あいしゃ、こぁくないよ。みんな、いいひと! ね?」
ね、の部分でにー子が後ろを振り返ると、皆必死に首をぶんぶん縦に振った。彼らに悪意がないことはアイシャも分かったようで、ナツキの背後から出てきた。一度深呼吸して、
「アイシャ=エク=フェリス、です。フェリス種のドールで、対神獣用調整済みドロップス、個体IDはF0-A0021です」
初めて会ったときにも聞いた、ドールとしての自己紹介を始めた。
「登録オペレーターはナツキさんで、それから……不良品で、重感染個体で、どこに行っても役立たずの出来損ないだったです。ずっと……そう言われてきたです」
その言葉に、お客さん達から怒気が揺らめくのが分かった。
……そうだ、それが「普通」の反応だ。
「でもナツキさんが、わたしも生きていていいんだって……言ってくれたのです。友達になろうって」
柔らかい笑顔で言い切ったアイシャはそこで口ごもり、やがて意を決したように、
「……あの、みなさんは、わたしが怖くないのです? 気持ち悪くないのです?」
不安そうに、そう聞いた。
以前ナツキにも投げかけられた問いだ。きっとアイシャにとってはまだ、それを否定する答えを返したナツキはイレギュラー中のイレギュラーで、他の人々はそう思っているか、思っていても口には出さない「優しい人」のどちらかなのだと考えているのだろう。
「ラクリマはみんな、この星を守るために生まれてきた、神獣と戦うための……ただの兵器なのです。なのにわたしは、人間じゃないのに人間みたいに喋って考えて……気持ち悪い、不良品の兵器なのです。だから、……?」
問いはその先へは続かなかった。アイシャは気づいたのだ。お客さんたちが皆、泣きそうだったり、怒りに肩を震わせていたりと、「おかしな」反応をしていることに。
「……ナツキちゃん、オペレーターってのは皆、クズなのかよ?」
怒気を孕んだ声でそう聞いてきたのは、キールだった。
肯定を返したいところだが、きっと本当にクズなのはオペレーター達ではない。彼らに十分な情報が行き渡らないようにし、ドールが心を持たぬただの兵器であると信じ込ませているのは、《塔》だ。
「知らないんだよ、みんな……感染個体って、珍しいから」
ここにいるお客さん達だって、にー子に出会うまでは「感染」という言葉すら知らなかったのだ。悪意ではなくとも、ナツキとにー子をパンダか何かのように扱おうとしたことは、彼らとて覚えているだろう。
「……《塔》の奴らめ」
キールは一言そう呟いて、ホールを見渡しながら叫んだ。
「気持ち悪い? 怖いだぁ? そんなかわいい面しといて何言ってんだ。なぁ皆!」
途端、ホールが湧いた。
「そうだそうだ!」
「新看板娘アイシャちゃんかわいいヤッター!」
「ねえ、撫でていい? 撫でていい?」
「お……俺、ナツキちゃんファンクラブやめてアイシャちゃんファンクラブ作ろうかな……」
「アイシャちゃんこっち来て! こっち! 採寸させて! ニーコちゃんにあげる分と一緒に服作ったげる!」
「ふぇっ!? あ、あの……ふぇぇ……ナツキさん……わたし、どうすれば……」
怒涛の好意が押し寄せ、あまりの未知の体験に涙目になってしまったアイシャは、耳を倒してまたナツキの後ろに隠れたのであった。
……。
……ナツキちゃんファンクラブ、あったのか。