Lhagna/ρ - 消えない傷痕
ヴィスタリア帝国第一王女、リシュリー=エルクス=ヴィスタリアは、今日も学院の研究塔を訪れていた。
「おや、リシュリー殿下。今日もゴルグ博士のところですか?」
「はい! 塔に入ってもよろしくて?」
自分の名前でサインをした申請用紙を、事務員の男性に差し出す。もう顔なじみとなってしまった彼は、いつも通りスッと真剣な目になって用紙を読み、やがて優しい笑みを浮かべた。
「はい、確認しました。どうぞお通りくださいませ。でもあまり遅くなりますと、国王陛下がご心配されますから……程々にお願いしますね」
研究塔の1階には、魔力で編まれた侵入者防止用のゲートがある。塔の研究員として認められ登録された者以外は、こうして受付で入塔許可をもらわなければならない。消灯時刻以降も残る場合はさらに面倒な手続きが必要だ。
「わたくしだってナツキ様と同じ、ゴルグ先生の弟子ですのに。どうしてまい日、こうやっておゆるしをもらわなければならないのでしょう」
「お気持ちは分かりますが、決まりですから。殿下はまだ、基礎過程を修了していませんので……研究員とは認められませんよ」
「うぅ、せーろんをききたいのではありませんわ……」
ワガママなのは分かっている。しかし今は、手続きの時間すら惜しいのだ。根源について知り、ナツキとの約束を果たす――ただそれだけを考えて、今リシュリーは生きていた。
これでも必要な手順を半分くらい勝手に省いているのですよ、と事務員に苦笑される。それはまあ、ありがたいのだが……
「それに殿下、もし登録許可が下りたら、夜もお城に帰らずにあの研究室に住み込むおつもりでしょう? それはよろしくありませんよ」
「ど、どうしてそれをあなたが知っていますの!? ……あっ」
バレたのではない、かまをかけられたのだ。お父様やお母様にバレたら怒られる――
「……と、先日、国王陛下から直々に勅令を頂戴したのです。王女様とて、覆せませんよ」
「お父様が!? 勅令を!?」
もうバレていた!?
「いやほんと、あれは冷や汗ものでしたね……くれぐれも、もし無理なら夜中に忍び込もうとか考えないでくださいね、くれぐれも!」
「うぅっ……」
なんということだ。次善の策まで潰されてしまった。せっかく数日前、塔の裏に小さな抜け穴を見つけたのに。
というか勅令って。そうホイホイ出してはいけないものだということくらいはリシュリーだって知っている。そんなことをして、お父様はお祖父様に怒られなかったのだろうか。
「お……お父様は『かほご』で『おやばか』なのですわ! ナツキ様がそうおっしゃったもの!」
「ふふ。陛下はそれを、褒め言葉と受け取るでしょうね」
「どうしてですのーっ!?」
うがーっ、と叫んでみるも、周囲にいた研究員達から微笑ましいものを見るような笑顔を向けられただけだった。……自分でも、あまり王女らしい振る舞いではなかったとは思う。少し恥ずかしくなって、そそくさと入塔ゲートを抜けた。
この塔には、一階の階段の裏、影になって見えない部分に、外に通じる小さな抜け穴がある。リシュリーの体の大きさならなんとか通れるくらいの、小さなレンガの綻びがあるのだ。外から見ると結構目立つ穴なのに、まるで治すことを諦めた傷のように、その穴は放置されていた。なのに、
「……もう、使えなくなってしまいましたわ」
何かいけないことをしたとき、一度目なら両親は怒らない。それが何故ダメなのかを説明し、次から気をつけるようにと注意してくれる。そして注意されたことを再び故意にやらかしてしまったとき、両親は烈火のごとく怒るのだ。それはとても怖いので、嫌なのである。そしてもう、事務員さんを通じて一度目の注意を聞いてしまった。だからもう、抜け穴は使えない。
塔の中央を貫く昇降機を呼ぶ前に、リシュリーは階段へと向かった。せっかく道を示してくれたのに活用できなくなってしまった抜け穴に、謝りに行こうと思ったのだ。そして向かった先には――なんと先客がいた。
「……あら?」
まだ秋になったばかりだというのに、厚着の上に夕焼け色のマフラーを巻いたお姉さん――勇者パーティの一人、トスカナ=Q=ユーフォリエが、寂しそうな表情で抜け穴を見つめていた。
「ユーフォリエ様! お目ざめになられましたの!?」
今朝、お見舞いにいったばかりだ。その帰り際に、他の勇者パーティの面々にも会った。自分が基礎課程の講義を受けている間に、彼らが目覚めさせたのだろうか。
「ひゃっ!? ……あ、リシュリー殿下! えと、はい、おかげさまで……ついさっき」
慌ててこちらを振り向いたトスカナが、笑顔を浮かべた。
……寂しそうな、笑顔。
「そうでしたの、安心しましたわ。それでえっと、その……ユーフォリエ様は……」
ナツキの死に自分と同じくらいショックを受けて眠ってしまい、ついさっき起きたという彼女に、なんと声をかけていいものか分からなかった。ナツキやゴルグほど親交があるわけでもなく、ペフィロやエクセルほど積極的に話しかけてくるタイプの人でもない。トスカナとちゃんと話したことはほとんどなかった。
口ごもってしまったリシュリーを見て、トスカナはふっと表情を和らげた。
「殿下は優しいですね。大丈夫です、わたしはもう……夢の中で、十分泣いて来ましたから」
「……本当に大丈夫なのでしたら、あんなさびしそうなお顔はしませんわ」
そう言うと、トスカナは少し驚いたように目を丸くした。
「いえっ、本当に、大丈夫なんです。寂しいのは……はい、寂しいですけど……せんぱいが死んじゃった、ってことについてだけじゃないっていうか……えっと……」
しばらく言葉を探すように唸ったあと、
「あ、あの、殿下はこの穴のこと、ご存知ですか?」
「へっ? あ、あなですの?」
急に話が変わった。しかし話を逸らそうという雰囲気ではなかった。
穴についてはもちろんご存知だが、お父様に知られるわけにはいかない。何と返そうか迷っていると、
「あっ、ごめんなさい、話を逸らしてるんじゃなくって……あのですね、この塔、猫が一匹棲みついてたんです」
「ねこ、ですの?」
「はい、とっても頭のいい猫ちゃんで、人懐っこくて……ニーコちゃん、って呼ばれてかわいがられてたんです。この穴、ニーコちゃん用の出入口になってて……裏庭に繋がってるんですけど、みんな昼休みや放課後にそこに餌やおもちゃを持ってきたりしてて」
「まあ!」
猫は好きだ。王城でも飼おうと提案したことはあるが、お父様が動物の毛アレルギーなせいで実現には至ってはいない。学院で会えるなら、是非とも触れ合ってみたいものだ。
「穴を直そうとする整備士さんと揉めたりしたんですけど……最終的に、ニーコちゃんに頬ずりされた整備士さんが降参して。それで今でも残ってるんですよ、これ。……もう、ニーコちゃんはいないのに」
「えっ……」
もう、いない? それはつまり――
「寿命、だと思います。ニーコちゃん、わたしが初めて会った時からもう、おばあちゃんでしたから……いつの間にか、塔の中にも、外にも、姿を見せなくなったんです」
猫は死期を悟ると、こっそりと人目につかないところで一生を終える。それは聞いたことがあった。
「そうなんですの……」
「もう長くないってことは分かってましたから、せめて怪我や病気で死んじゃわないようにって、わたし、回復魔法も教えたんですよ」
「か、回復魔法を、ねこに、おしえたんですの!?」
とんでもないことを言っている自覚はあるのだろうか。魔法体系を魔獣でもないただの獣に教えるなんて、できるものなのか。そもそも星のマナを汲み上げる魔力回路は、人間や、魔王が生み出した魔獣にしか存在しないはずで――
「ふふ、わたしのいた世界では、わたしみたいな魔女は、使い魔の子猫と一緒に成長するんですよ? ……あ、この世界ではあんまり一般的じゃないみたいなので、これは秘密です。せんぱいにも言ってないんですから」
しー、とトスカナは指を口に当てて悪戯っぽく笑った。
さすが勇者、何もかも規格外だ。そう感心するリシュリーだったが、トスカナはすぐに笑顔を収め、寂しそうな表情に戻ってしまった。
「本当は、回復魔法だけじゃなくて、寿命を伸ばしてあげたくて。先生方に聞いて回ったんですけど……皆さん口を揃えて、それは現代魔法学で関与できる領域ではない、って言うんです。だから時間は大切に、って。それは分かりますけど……そんなの、この世界の猫ちゃんには分からないじゃないですか」
「そう、ですわね」
寿命は、生まれた瞬間に根源から魂に書き込まれる絶対的な値だ。悪魔の剣などで魂そのものを削られてしまう超例外的な状況を除いて、干渉することはできない。……ナツキが、練気術の講義で教えてくれたことだ。「実は俺も一年分くらい悪魔の剣に吸われてんだよな」などと呑気な顔で言っていて、こちらは青ざめさせられたのだが。
「でもわたし、知ってるんです。寿命を伸ばす魔法、実はあるんです」
「えっ!?」
そんな魔法、世紀の大発見ではないか。そんな平然とした顔でさらっと言うものではない。
「だって……わたしの世界では、使い魔になった猫ちゃんは、普通の猫ちゃんの何倍も……人間と同じくらい、長生きするんです。寿命を伸ばす魔法なんてかけてないはずなのに、なぜか」
「な……なぜか、ですの?」
「はい、なぜか、なんです。わたしの世界でも、理由はわかってませんでした。みんなそれが当然だと思ってたんです。でもわたしはそれを突き止めようとして、友達と一緒に隠れ里を出て……捕まって、えっと…………死んじゃったんですけど」
トスカナはしまった、という顔で言葉を濁らせた。
勇者の皆さんは、元の世界で亡くなって、その姿のまま転生してきている。若くして亡くなったのには必ず普通ではない理由がある。だから絶対に、勇者様の世界の話をこちらから持ち出してはいけない。――そう、お祖父様は何度も言っていた。実際、勇者パーティの面々が元の世界の話をリシュリーにしてくれたことはほとんどない。
「えっと、それはどうでもよくて……それで、この世界なら隠れなくても勉強できるんだから、わたしが研究して発見してニーコちゃんを助けるんだって、頑張ったんですけど……間に合わなかったです。悔しくて、わんわん泣いちゃいました」
――先生にも分からないことがあるのですか!?
――そりゃあるし、むしろ分からないことだらけだ。
――そういう、まだ誰も知らない謎を解き明かしていくのが、俺たち研究者の仕事ってわけだな。
不意に脳裏に浮かんだ、ナツキと最後に交わした会話。
トスカナはまだ、自分と同じ学生なのに……もう、研究者なのだ。
「あれ、でもそれなら、ニーコちゃんをその使い魔にすればよかったんじゃ……?」
「しようとは、考えました。でも……」
本来は子猫の頃から数年かけて心を通わせてから行う儀式なのだ、とトスカナは言う。もうおばあちゃんになってしまったニーコちゃんには他にも心を通わせてきた人がたくさんいて、その心をトスカナ一人に染め上げるのは無理があるし、ニーコちゃんもそれは望んでいなかっただろうと。その選択を後悔しているわけでもないと。
「……あ、これ、まだ先生方には秘密です。寿命の話すると、皆さんすっごく怖い顔するんですよ。やめとけ、って顔に書いてあるんです」
「そっ、それは……わたくしに話してしまって、よかったんですの?」
「だから、秘密、です」
しー、とトスカナは再び口に指を当てた。
この短時間に、2つも勇者の秘密を知ってしまった。戦々恐々としながらコクコク頷く。
「そういえば、不当に削られてしまった寿命を元に戻す、とかなら、禁呪レベルの死霊術があるにはあるってゴルグさんが言ってましたけど……あ、これも確か秘密でした」
「ユーフォリエ様、『おくちにちゃっく』してくださいませ!」
このままでは何か重大な機密まで知ってしまいそうだ。ナツキがたまに使っていた、「静かに」という意味らしい慣用句を投げかけると、トスカナは一瞬きょとんとして、すぐにふふっと笑った。
「リシュリー殿下、ほんとにせんぱいが好きなんですね」
「へ? そ、そのとおりですわ!」
何をいきなり、当たり前のことを言い出すのか。
「結婚したいですか?」
「とーぜんですわ!」
好きな人とは、結ばれるものだ。今までに読んだどんなお話も、そうだった。
「わたしもです。恋敵ですね、わたしたち」
「……えっ」
恋敵。お話で読んだことはある。好きな人を取り合う相手のことだ。普通は綺麗なお姫様や王子様、勇者様や正義の味方が勝つけれど……
「わ……わたくし、お姫様ですわ」
「ふふ。わたし、勇者様です」
真剣な眼差しをぶつけ合って、数秒。先に表情を緩めたのはトスカナだった。
「……こんなに、王女様相手に張り合えるくらいに、せんぱいが好きだって気持ちは……しっかり残ってるんです」
ふっと視線を逸らし、その向かう先は――壁に開いた、小さな抜け穴。
ニーコちゃんという猫がいた、その傷痕。
「あ……」
「どうして、消えないんでしょう――」
――もう、せんぱいはいないのに。
声に出されることはなかったその続きは、リシュリーの胸を深く抉り貫いていった。
「っ……」
もう立ち直ったのだ、大丈夫なのだと自分に言い聞かせ続けていた。
だってそう思わなければ、そう思い込まなければ――
「ごめんなさい、話、結局逸れちゃいましたけど……そんな感じで、この穴を見て、ちょっといろいろ考えちゃったんです。せんぱいへの恋心、消えてほしくはないけど……ずっと、痛いんだろうなぁって」
トスカナの言葉が、一つ一つ、心の防壁を突き崩していく。
「きっと痛くなくなったときにはもう、ニーコちゃんの記憶みたいに、せんぱいとの想い出が昔のものになってて、こんな気持ちも薄れちゃってて……それがすごく寂しくて……殿下?」
気がつけば、涙が溢れていた。
「ぅ、ぁ……」
「わ、わっ、ごめんなさい! 泣かせるつもりじゃ……」
王族たるもの、人前で泣いてはいけない。そう教えられてきた。だからこれまでずっと、城の自分のベッドの中でしか、泣いてこなかった。もう6歳なのだから、王女なのだからと、お母様やお父様に泣きつくのも控えるようにと言われていた。本当に強く求めればきっと、お母様もお父様も抱きしめてくれたと思うけれど……二人とも、それに他の誰も、自分のナツキに対する気持ちを理解してくれてはいなかった。
だから――
「ごめんなさい、そうですよね。エクセルもゴルグさんもペフィロちゃんも、もう立ち直ってるとか言ってましたけど……わたしと同じなら、平気なはず……ない、ですよね」
だからこんな風に、誰かの胸の中で泣いたのは、久しぶりだった。
トスカナの体はとても大きく見えたのに、実はお母様の半分くらいしかなかった。自分よりはもちろん大きいけれど、自分の力でも突き倒せそうな……城の使用人見習いと同じくらいの、普通の女の子の体だった。
そしてその体は――自分と同じように、震えていた。
昇降機があるおかげで誰も寄り付かない、薄暗い階段の下。
トスカナと――本当に自分の気持ちを理解してくれるたった一人の相手と一緒に、思う存分、リシュリーは泣いた。
そんなことがあった後だけに、
「じゃあ殿下、そろそろ――せんぱいを、探しに行きませんか?」
泣き止んだ自分にかけられた言葉は、きっと幻聴なのだろうと思った。
久しぶりにラグナの話を、王女様視点で。にー子はニーコでした。
トスカナが転生に至る経緯については……また、そのうち。どちゃくそ重めの話になりそうです。
======================
何件か誤字報告を頂きました。助かります、ありがとうございます!