Noah/θ - 看病
――物音がした。
この空間に入ることができる者は限られている。自分以外で、今この時間にここにいるべき者はいない。少し警戒しながら、出入口へと向かった。
「あ、いたんですね……ただいま、ですよー……」
怪しい者ではなかった。数少ない同僚のうちの一人、いつも明るく元気が取り柄の少女。表の世界では「リモネちゃん」と呼ばれ、フィルツホルンという街の民からとても親しまれている。表向きは人民解放軍のなんとか言う課に所属しているらしい。
表に出られない自分としては、外で自由に活動できる彼女を羨ましく思った時期もあったものだが、表の仕事はなかなか大変そうで、ただ引きこもって研究だけしていればいい身分でよかったと最近はひしひし感じている。端末を通じて外の様子を楽しむことはできるし、自分はこれでいい。
今日は帰ってくる予定ではなかったはず。そう思ったが、彼女は憔悴しきっていた。何かあったのか――いや、この様子はきっと、彼女の「魔眼」が不発に終わったのだろう。カンが外れたのかと問うと、彼女はにへらと力なく笑った。
「やはー、お察しの通り、眼の副作用が、限界で……ちょっと、休ませて、くだ、さ……」
言い終わらないうちに、彼女はぱたりとその場に倒れてしまった。慌てて駆け寄り抱き上げると、もう意識がなかった。相当無理して、ここまで帰ってきたのだろう。
くた、と力の抜けた体はじっとりと汗をかいていて、熱もあるようだった。空間の端にベッドを展開して寝かせ、マットの硬さを彼女の好みに合わせる。まだ辛そうだ。稼働していない実験装置から水冷ユニットを引っこ抜いて額に取り付けると、いくらか表情が和らいだようで、ほっとする。
あとは何をすればいいのだろう。長く生きてきたが、子供の看病なんてほとんどしたことがなかった。彼女が『真実の魔眼』の力を振るうのは自説に絶対の自信があるときだけで、たまに少しだけ想定外の答えが返ってくることはあっても、倒れてしまうほど外すことはこれまでなかったのだ。
何か、食べ物を用意したほうがいいのだろうか。どうやって? 携帯食料しか持ち合わせがない。栄養もあるし素朴な味で自分は割と好きなのだが、病人食ではないような気がする。
おろおろしていると、「あのー」と彼女の声がした。意識が戻ったらしい。
「前が見えないのと……なんか、重低音がするんですが。ひんやりしてて気持ちいいんですけども……」
水冷ユニットは少し大きすぎたかもしれない。慌てて小さめの空冷ユニットを探しに行こうとすると、「これ以上変なものつけないでください」と止められた。……変なものじゃないのに。
「ベッドは感謝ですよー。……この副作用、あとはただ寝るくらいしかどうしようもないのでー……放っといて、ください……」
そう言われても、心配だ。同じ空間に息も絶え絶えの同僚がいるところで呑気に自分の研究を進められるほど、マッドサイエンティストになったつもりはないのだ。何か他にできることはないのだろうか。
「あー、じゃあ……服、着替えさせてください。もうなんか、腕も上がらなくて……」
よしきたと、共有ストレージから彼女の寝間着を取り出す。一旦水冷ユニットを取り外して体を起こすと、くたりともたれかかってきた。……本当に辛そうだ。
「……何なんです、このひんやりメカ」
演算器のオーバーヒートを防ぐためのユニットで、空冷よりも効果が高い。軍の制服を脱がせながらそのことを説明し始めたら、食い気味に「わかりました」と止められた。彼女はあまり、研究や実験には興味を示してくれない。すこし寂しい。
パチ、パチと上着のボタンを外していく。しばらくお互いに無言のままだったが、静寂を破ったのは彼女の方だった。
「……失敗しちゃいました。ここまでダメダメだったのは……初めてです。あたし、どうしちゃったんですかね」
彼女が演技ではない弱音を吐くのは、珍しい。
このまま泣き崩れてしまうのではないか、と思ってしまうほど弱々しい声はしかし、一定の冷たさを失うことはなかった。自分も彼女もいつの間にか、そう簡単に泣くことはできなくなっていた。……きっともう、涙が枯れ果ててしまったんだろう。
「いえ……分かってるんです。滅多にない《計画》の手がかりかもしれないって、やっと終わりにできるかもって、飛びついちゃったんですよ……聖下も、期待はするなって仰ってたのに。あたしはバカなんです。あの時から……何も変わってない」
手がかり――例の天使の雫かもしれない個体だろう。本当にそうなら、《計画》を一歩先に進める鍵になる存在。あるいは、『最悪の可能性』として《計画》そのものを潰しかねない存在。端末の一人――確かλあたりに一度接触させて、彼女にも報告させたはずだ。
「あの端末くん、なんか仕事放り出して自分の人生楽しんでるみたいな感じで……報告がどうにも信用できなくてですねー……」
それは、仕方がない。あの端末たちの使命の半分は、人間らしい人生を謳歌して自分にフィードバックすることだ。でもそれは、彼女や聖下には秘密。……聖下にはバレてるかもしれないけれど。
「でも、彼の報告通り……ハズレでした。アレは……ただの変で強くてかわいくて運が良くて不思議でかわいい、人間の幼女です」
それは、「ただの」とは言わないと思う。あとかわいいが二回あった。
そこまで異質な存在なら、やはり何かあるんじゃないかという気にもなる。新しいラクリマの種類とか、むしろ神獣の手先とか。……聖下の記録通りなら、もう《計画》が始動してから五年は経つのだ。敵も味方も、あれこれ変わり始めてもおかしくはない。
「……そう思って、いろいろ実験もしたんですよ。体に忌印や聖片埋め込まれてるんじゃないかって全裸に剥いて全身揉み倒したり、おなかに顔埋めて鼓動と体内音を感じてみたり、実は神獣や使い魔の擬態なんじゃないかって中級回復薬飲ませてみたりしたんですけど……なんかもうただの理想のぷにぷに幼女で。はぁ……誘拐したいです」
……初対面でそこまでされたのなら、その幼女もさぞ怖かったことだろう。
小さな女の子が大好きな彼女は、そのときのことを少し興奮気味に語り出した。胸が小さいのを気にしていてかわいかっただの、涙目で睨まれてゾクゾクしただの……もしかして、自分が大好きな機械について話しているときも、周りにはこんな感じに見えているんだろうか。ちょっと気をつけた方がいいかも。
「あたし、副作用に耐えきれなくて、顔に出しちゃったんですよ。そしたらあの子、どうしたと思います? 『ボクが答えるとリモネちゃん辛そうだから』なんて言って、黙っちゃったんですよ。この眼のことなんか知らないはずなのに、初対面のあたしを気遣って……あれは天使ですよ。天使の雫じゃなくてもあれは天使……ちょっと、聞いてますか」
思ったより元気そうだ。
寝間着の前を留め終え、額を軽く突く。
「あぅっ……」
心は元気でも、体がそれについていけていない。バランスを崩して、パタリと仰向けに倒れた。
「何、するんですかー……」
不満の声は、不調を思い出したかのように弱々しくなっていた。大好きなものと触れ合った思い出で一時的にブーストがかかっていただけらしい。
自分はしばらくここを離れる予定はないから、何かあればすぐに呼んで欲しいと伝えると、彼女はぼーっとした顔で、少し安心したように笑った。見た目通りの、子供のような素直な笑顔だった。
……きっと、これが彼女の素の姿なんだろう。
そんなことを考えながら、水冷ユニットを再び額に装着した。……頭と一緒に目まで隠れてしまうのは、やっぱり大きすぎるかもしれない。彼女も口を不満げに曲げた。
「……濡れタオルとかでいいんですよ、セイラ」
濡れタオル。……それでは何度も取替えないといけないのではないだろうか。そう聞いたら、そういうものだと返された。
長く生きてきたが、人間の看病の仕方はいまいちよく分からない。
かつてぼくが守ろうとした、たった一つの存在は――人間ではなかったから。
第3話終わりです。
少しずつ、世界を繋げていきましょう。