少しだけ未来、下第三層外れの喫茶店にて
フィルツホルンは、地割れの街だ。
地割れと言っても、何百年も前の地殻変動でできたものが、長い時間をかけてゆっくりと削られ、広がり、地下空間が肥大化したところに人が住み着いた、そんな街。地割れの方向と垂直な面で適当に切れば、断面図は壺のような形になる。下に空間がある程度では崩れない丈夫な岩石が、川による浸食で少しずつ削られた、いわば天井が割れている地下洞窟である。
当然、街のほとんどは太陽の光とは無縁になる。その代わりを担っているのは、街の至るところに立ち並ぶ街灯と、地割れ内部の壁面に並べられた発光パネル。時間に応じて光の強度を変えるこれらは、実は気温調節も行っているらしい。太陽が年がら年中地平線上で動かないこの世界では、地割れの外より過ごしやすい環境と言えるかもしれないが――やはり、広い空が見えないのは少し窮屈だ。
街の主要部となっているメインの地割れ「中央洞」とは別に、近辺には無数に小さな地割れが存在し、時には直接、時には洞窟を通して複雑に繋がりあっているらしい。街に古くから住む者ですら、あるいは領主ですら、その全容は把握できていないという。そのうちの一つ、廃坑となっている洞窟に攫われたのは記憶に新しい……とは言っても、もう一ヶ月は前のことになるが。
遡ること数百年前、それら数々の地割れから鉄鋼、石炭、金銀銅その他貴金属が採掘できることが判明し、フィルツホルンは一気に栄えることになった。廃坑が点在しているのはその名残で、当時に比べれば鉱石採掘量は減ってきているものの、まだまだ底は見えそうにない。
それが反映されてか、街の基盤や足場は壁面沿い以外はほぼ全て金属で構成されており、どこを歩いてもカンカンと音が鳴る。靴と地面がぶつかる音、地面を構成している金属板やネジが擦れ、ぶつかり合う音。あまりにもうるさい場所は夜中から明け方にかけて通行禁止になったり、そもそも夜中に外を走るのは街全体としてマナー違反なんだとか。
「……なるほど、確かにこれは、うるさいな」
数日がかりの仕事を終えてフィルツホルンに帰還し、ふらっと寄ったカフェのテラス席。備え付けの新聞を広げつつ、ナツキは顔をしかめた。自分も歩いていた時には気にならなかったが、なるほどこれは落ち着かない。どうりでテラス席がガラガラだったわけだと、10分前の自分の選択を後悔する。
普段ナツキの暮らす《子猫の陽だまり亭》は壁面沿いの土の地面に建っており、さらに金属を使っていない木造建築だ。それが特殊なのであって、街の大半はこんなにうるさかったんだな、と今更ながらに気付かされた。
このやかましい街に疲れた子猫が、安心してうとうとできる陽だまりみたいな空間を作りたかったのさ――というラズの言葉も、今なら共感できる。《子猫の陽だまり亭》がそれを実現できているかというと……まあ、ラッシュ時以外なら、という感じだろうか。ただ最近、にー子は大きな音が苦手だと周知されてきたせいか、若干やかましさが減ったような気もする。
視線の先で、ナツキと(見た目が)同じくらいの男の子が走る。カンカンカンカンカン! 待ちなさい! と母親らしき女性が追いかけていく。カンカンカンカンカン! ――うるせえ! かーちゃんのバーカ! ――なんですって!? カンカンカンカン!
――うるせえはこっちの台詞だバーカ。
心の中で大人気なくぼやきつつ、母子が走っていった大きめの通りを見上げるのをやめた。あれだけ迷わされた複雑な立体迷路にも、もう慣れてしまった。
ナツキが今いるのは、下第三層で見つけたカフェだ。上流区と中流区の境目あたり、上流区寄りに位置し、昼前の中途半端な時間ながらもそこそこ賑わっている。上流区の店ということにしながらもドレスコードを無くし、それでいてある程度の上品さは保った、市民階級を問わず足を運びやすいカジュアルさが成功の秘訣だろうか。
「上級市民だからって皆が皆金持ちってわけじゃないだろうしな……」
上流区は上級市民の住む場所だ。法的には各ブロック間に明確な分断ラインが存在するものの、実際の境目は物理的にも財力的にもあまり明確ではなく、このカフェのようにどっちつかずな店や人も多い。
各ブロックの最大の違いは、上下水道の有無だろう。上流区までは公共福祉としての上下水道が完備されており、蛇口をひねれば綺麗な水が出てくるし、生活排水の行き先を考える必要はない。しかし中流区では水道は民間企業が管理するものになり、下流区に至っては川から汲み上げて水を確保し、汚水は適当にその辺に流すという中世スタイルになる。
ラズの構える《子猫の陽だまり亭》は中流区の少し下流寄りくらいに位置し、上級市民が利用することはまずない。飲食店ということで水道は良質なものを通しているが、それでも《塔》の浄化槽を通していない分水質は落ちるのだと、ラズは悔しそうにぼやいていた。
そしてこのカフェはといえば、上流区に店を置いているだけあって、何の前評判も調べずに突撃した割にはコーヒーの味も悪くない。
――そう、コーヒーだ。日本で飲んで以来の、本物。もちろん厳密には違うのだろうが、天使様謹製異世界語翻訳システムはこれをコーヒーだと告げていたし、味も十二分にコーヒーだった。何も文句はない。……ものすごく高かったことを除けば。
一日分の食費を全て飲み込み湯気をたてるコーヒーの液面をぼんやり眺めていると、奥から同じように黒い水面をじっとのぞき込む視線に気づいた。
「お? やっぱり飲むか?」
「の……飲みませんです」
「気になってるくせに。尻尾が揺れてんぞ」
「ぅ……主人の食べ物奪うべからず、です」
「何言ってるのさ、ボクとキミは友達でしょ。一緒に飲もうよ。おいしいよ?」
「思い出したみたいに口調変えないでくださいです……」
ボクっ娘幼女モードへの移行ももはや手馴れたものだ。むしろ最近はこちらが基本になってきている。
ナツキの対面に座って若干引いているのは、猫耳と尻尾を生やした黒髪の少女――アイシャ=エク=フェリス。対神獣戦闘用に「調整」されたフェリス種のラクリマ、通称ドールであり、
「……オペレーターがドールを対等に扱うなんて、変な目で見られるですよ?」
彼女の登録オペレーターは、つい先日から、ナツキになっている。
「ふふん。ボクは史上初の幼女オペレーターだよ? 変な目が一つ二つ増えたところで、誤差ってもんだよ」
「……はぁ。じゃあ、一口だけ」
「うん、どうぞ」
「……いい香りです」
カップを差し出すと、アイシャは遠慮がちに、しかし興味津々な表情でコーヒーに口をつけ――しかしすぐ、その眉を寄せた。
「あぅ…………これ、にがいです……」
期待外れで残念、という感情を反映してか、猫耳がしょぼんと倒れた。
アイシャの見た目はナツキと大体同じ、8歳くらいだ。まだブラックコーヒーは早かったかもしれない。
「コーヒーだからね。甘くしたやつもあるみたいだけど、注文する? これとか……」
メニューに載っているコーヒーの種類は豊富だ。「焦がし砂糖のミルクコーヒー」、これはキャラメルマキアートだろうか。ラグナではコーヒーに近い飲み物を探すのも一苦労だったことを考えると、この一点に関しては素晴らしい世界かもしれない。
「ふぇっ!? けけけ結構ですっ!」
こんな高いものをドールなんかのために買うなんて、とわたわた手と首を振りまくるアイシャ。まあ無理に勧めるつもりはないし、値が張るのも事実だ。「じゃあ、今度来たときは甘いのを頼んで一緒に飲もうか」とだけ提案して、視線を手元の新聞に戻した。
なんと、この世界では活版印刷どころかデジタル製版もどきの技術が確立されているようだった。どうせ《塔》に全て管理されているのだろうが、こうしてタダで読める新聞が街外れのカフェに置いてあるのはそのおかげだろう。コンピュータやプリンターの類も、もしかしたらどこかにはあるのかもしれない。
ちなみに植物紙はちゃんと存在する。家や道路が金属製になるほどの場所ではあるが、そこまで遠くない場所、砂漠の端に森林があるのだ。街の中では珍しいとはいえ、《子猫の陽だまり亭》のような木造建築だってある。木造建築、もっと増えてもいいと思うんだけどな。
そんなことを頭の端で考えながら、文字を追う。……ラテンアルファベットにどこか似ている異世界文字(32種類あるらしい)の羅列が、日本語に翻訳された情報として脳に飛び込んでくる。視覚との齟齬による「何故読めるのかわからない」違和感はあるが、こればかりはこの世界の言語を覚えないとどうしようもない。まあ、言語のお勉強はまたいずれ。
「新聞、おもしろいです?」
「んー、そんなに面白いわけじゃないけど……メインの目的はこの世界の『常識』の勉強かな」
新聞は週に一度、休日に刊行される。1面は当然トップニュース。2面は領土内外の政治情勢。3面は軍事情報。4面以降は特にテーマは決まっておらず、枚数も週により増減する。
「あーでも、3面は毎週面白いかもね」
ダインに新聞の存在を教わったときに、過去8週ほどの新聞は全部読んだ。そこで分かったのは、軍の広報課が執筆しているという3面記事は戦場の血生臭さを緩和するためか毎度ユーモアがあり、その週の担当者の手腕が見て取れて面白いということだ。
この世界で軍事といえば基本的には対神獣戦線のことである。それこそ人類の存亡をかけた戦いなわけだが、軍の活躍により、ここ数百年ほどは人間の大きな街に壊滅的な被害は出ていないらしい。もちろん前線で戦うオペレーターやドールは毎日のように命を散らしているわけだが、それを市民に生々しく伝えるメリットはないだろう。
さて今週のおとぼけ防衛情勢は、と3面をめくったナツキは――内容を一目見た瞬間、激しくむせた。
「んっ!? げほっ、けほっ……っ、っ!?」
「ど、どうしたですか」
「けほっ、いや、うわぁ、えぇ……いやまあ気持ちは分か……いやだめだろ」
「ふぇ……?」
ナツキの狼狽っぷりに困惑するアイシャに、苦笑しながら3面を開いて見せると……アイシャはむせるようなことはなかったが、もともとぱっちりした目がさらに大きくなった。
「わぁ」
果たしてそこには、一面丸々でかでかと、料理の乗ったお盆を手に駆け回りながら微笑む金髪幼女――つまり《子猫の陽だまり亭》で給仕中のナツキの写真が、あまりにも完璧すぎるアングルとタイミングで誰かに隠し撮りされた一枚が、「話題のちびっ子オペレーター、普段は宿屋の看板娘!? ~最高の笑顔、激写です!~」などというふざけた見出しと共に、掲げられていた。
ああ、これは。
明日から、昼夜のラッシュが地獄になるやつだ。
早くラズに知らせなければ。
「かわいいです」
「……ありがとう」
もはや軍にとって、ナツキはアイドルやマスコット的な存在になっているらしい。
一体何故こんなことに。そもそもどうして自分はオペレーターなぞになったのだったか。
事の発端は、約三週間前――アイシャと再会する前日まで、遡る。