Noah/ℵ - 禁じられた名前
廃坑の確認に行っていた組員ベートの帰還と共にナツキとラムダは解放され、《終焉の闇騎士同盟》本部ビルを去っていった。
その姿を、ヴィスコは自室の窓から見下ろす。先程の部屋のさらに奥、ヴィスコと組の若頭しか入れない個室だ。部屋の壁を埋め尽くす書棚には、様々な古い書物や紙束がその存在感を示していた。
「親父、ほんとに良かったんですかい」
ヴィスコの脇に立ち、同じように外を見下ろす組員が一人。組でのコードネームはアレフ。ヴィスコの第一の側近であり、若頭だ。
「何じゃアレフ、汝も泣いておったではないか」
「いや、それは……でも親父、いつもはガキだろうが泣き落としなんて一喝して終わりじゃないですか。盟約を曲げてまで……」
「泣き落とされたわけではないわ、たわけ。……彼奴は人間にあらず。機嫌を損ねてはならん」
「は、それはどういう――」
訝しむアレフに、ヴィスコは真面目な顔で告げた。
「彼の少女は天使じゃ」
やっぱり幼女に泣き落とされたんじゃないか、と呆れた顔を見せるアレフに対し、ヴィスコは再び「たわけ」と鼻を鳴らし、書棚から分厚い紙束を取って渡した。埃と共に、古い紙の匂いが舞う。
「……これは?」
「《塔》が禁書に定めし、星の涙――ラクリマについての研究論文、その写しじゃ」
「っ!?」
「当然、原典は遥か昔に著者と共に燃え尽きておる」
とんでもないものを手にしていると気づいたアレフが慌てふためき、表紙を恐る恐る見た。……が、タイトルが読めない。知らない言語で書かれており、文字すら全く見たことがない。
「古代文字じゃ」
タイトルを指でなぞり、
「『星涙と聖片の共通項《天使因子》と古代文明の関連性推論』、そう題されておる」
「星涙と、聖片? ……天使、因子?」
星涙。呪われた星が最後の力で生み出し続ける、少女を象った対神獣兵器。呪いの象徴、人ならざる身体的変異「忌印」によって見分けられる。一般向けには心を持たない人形だと説明されているが、それが実は発生時の状態に過ぎないことは、アレフ含め、ある程度の人が知っている。
聖片は、《塔》の研究機関が神の御業を具象化してできる、様々な道具のことだ。分かりやすいところだと、街に立ち並ぶ街灯や街の内外を繋ぐ昇降機。もっと身近な例としては、指定した時刻にひとりでに音を発する目覚まし時計などがある。安価なものから高価なもの、子供でも扱えるものから《塔》や軍の関係者以外には起動すらできないものまで様々だ。
それらの共通点が、天使? 古代文明? 確かに全て、人智の及ばない領域にあるものではあるが……
首を傾げるアレフに、ヴィスコは「簡単な話ではない」と続けた。
「わしも未だ、中身はほとんど解読できておらぬ。じゃが……アレフ。ラクリマの種類を挙げてみよ」
「何ですかい、唐突に。ええと、フェリス種、ペロワ種、バニル種……」
アレフが列挙し出したのは、ラクリマの種族分類だ。忌印の見た目によって規定されるもので、個体識別名の最後に付され、個体IDにも頭文字が埋め込まれることになる。
また、この種族によって個体ごとにある程度の能力差が生まれる。例えばフェリス種など大きな耳を持つ種族のラクリマであれば、耳が良く察知能力に長ける一方、大きな音に弱い傾向がある。
アレフは組の中でも頭脳派であり、そういった知識にも広く通じている。彼が若頭にまで上り詰めたのは、その豊富な知識を巧みに用いて人をまとめ上げ的確に指揮する、その能力ゆえであった。
しかしヴィスコは首を横に振り、つらつらと続く列挙を止めた。
「そうではない。もっと大きな括りじゃ」
「大きな……と言うと、ドロップスとギフティアですかい? ああ、最近じゃマザーを独立分類にするなんて話もありやしたね」
ラクリマは稀に、その知能や能力に他の個体と大きな差をつけて発生することがある。「異能」、すなわち人智を越えた固有能力を振るうそれらの個体は特に「ギフティア」と呼ばれ、《塔》や軍によって対神獣戦線の切札として厳重に管理・育成されていると聞く。アレフも実際に見たことはない。
ギフトを持たない大多数の通常の個体を特に指して呼ぶ場合は「ドロップス」という分類名を用いる。その中でも生まれつき生存本能を持つ高知能個体がたまに確認され、遺跡内の他のラクリマを集めてコロニーを形成しようとすることから、シーカーの間では「コロニーマザー」あるいは略して「マザー」と呼ばれている。これをドロップスから独立した分類にしようという話が出始めているというのが、つい最近聞いた話だ。
しかしヴィスコは再び首を横に振った。
「括りは正しい。じゃが、不完全な答えじゃ」
「……不完全、ですかい」
「23枚目、下の図を見るがよい」
言葉に従いページをめくった先には、ラクリマらしき個体の写真が四枚、横に並べられていた。どう記録したのか、体内の構造らしき白黒写真が脇に添えられている。
それぞれの写真の上部には、個体名か種族名らしき文字列。下部にあるのは説明書きだろうが、やはりどちらもアレフには読むことができない。
ヴィスコが代わりに、それを読み上げる。
「上に記されておるのは個体名、種族名にあらず。左から順に、『堕ちし者』、『授かりし者』――」
「!? まさか」
マザーは最近生まれた呼称。それを入れたとしても一つ余計。
「――『原初の涙』、『天使の雫』」
ヴィスコが続けたのは、アレフが聞いたことも無い二つの分類。分かったのはただ一つ、自分が今、絶対に知ってはならないことを知ってしまったのだということだ。
「数百年前、世界のありとあらゆる書物、紙片、伝承から、これら二分類の存在は抹消されたのじゃ。ほぼ間違いなく《塔》によってな」
不安を裏付けるヴィスコの言葉に、アレフはため息をつく。これはきっと、この組織のトップに代々受け継がれてきた特級機密だ。しかしそれを話してくれたということは、アレフは組織を継ぐ若頭として真に信用されているということに他ならないわけで。喜べばいいのか、憂えばいいのか。
「それで……親父は、あのガキがその天使――天使の雫だって言うんですかい。そりゃさすがにないでしょう、なんてったってあのガキにゃ忌印が……っ!?」
反駁しようとして、論文の図を見たアレフは、気づいてしまった。
横に並んだ四体のラクリマの写真。その一番右端の個体に、呪いの象徴はなかった。耳も尻尾も毛皮もない、髪先が蛇になっているわけでも、目が三つあるわけでもない――どう見ても、人間だった。
「当然、確証はないわ。されどかの小娘は、汝らの弾丸の雨を事も無げに躱しきるに留まらず、殺気のみで十の男衆を無力化しおった。ギフティア並か、それ以上――ただの人間では説明がつかぬ」
「……はい」
それは確かに、そうだ。自分達は、あの悪名高き『血溜まり亭』の刺客が来たと聞いて、全力で応戦したはずなのだ。
「気づけば銃を取り落としていて……未だに信じられない、尋常ならざる気迫、強さでした」
「うむ。しかも、蝶のごとく可憐な姿に、優しく、真っ直ぐな心を持っておる」
「はい……はい?」
おかしい。そういう話だったか?
「わしはかの可憐なる妖精、いや天使に、心を奪われてしまったのじゃ……断じて、泣き落としに屈したわけではない!」
「…………あの、親父?」
「おじいちゃんなんて、初めて言われたのう……」
――あ、ダメだ。この組織、俺がしっかりしないと潰れる。
アレフは決意を新たにし、愛しい孫娘を見送るような表情で寂しげに窓の外を眺め続けるヴィスコを置いて、部屋を出たのだった。