仇には仇を、恩には恩を
子分Dの言葉通り、服はボロボロになって隣の横穴の奥に捨てられていた。下着はもはや履ける状態ではなかった。ワンピースは襟のまわりが裂けているだけだったので、着ていく。ノーパンワンピース……丈も長いし大丈夫だろう。たぶん。
子分Dによれば、この洞窟はフィルツホルンの外、別の地割れの中にある無数の横穴のうちの一つらしい。もともとは鉱石を採掘していた廃坑を隠れ家にしており、フィルツホルンとは隠しトンネルで接続されているとのことだ。
脱出する前に、彼に教えてもらった道順を辿って「目的の部屋」へと急ぐ。アリの巣のような坑道を抜け、やがて見つけたその部屋は、ナツキが囚われていた場所と同じような拷問部屋だった。
人がひとり、いる。まだ生きていた。
「や、お兄ちゃん」
「……何や、自分。逃げよったんか」
数時間ぶりに見たラムダは、蓑虫になっていた。
縄で何重にも縛られ、洞窟の天井から逆さに吊られていた。
殴られたのか、頬が腫れているのが痛々しい。
「あんまり驚かないんだね」
「兄貴の叫び声がずっと聞こえとったさかい……そういや、静かなったな。殺したんか?」
この部屋と先程の部屋は位置的にはそこまで離れておらず、複雑な構造の空洞で繋がっているのだと子分Dは言っていた。そのせいで、先程の部屋で発生した大きな音はこちらの部屋へと届く。逆には届かないらしい。
恋人や家族と分けて捕え、片方を嬲り殺すのをもう片方に聞かせて愉しんでいたというわけだ。吐き気がする。
「両手両足、踏み潰してきただけだよ。今ごろ子分Dが手当てしてるんじゃないかな。静かになったのは気絶したか、運ばれたかだね」
「なんや、生きとんのか。……誰や子分Dて」
「ロリコン」
「ああ、あいつ……自分、何かされたんか」
「別に何も。ボクは愛でるものらしいから」
「せやろな」
これで伝わるあたり相当だな、子分D。
クズが生きていると聞いたラムダは、残念そうな、悔しそうな、しかしどこか安心したような、複雑な顔をしていた。あんな男でも、ラムダの言うところの「人の縁」は、少しはあったのだろうか。
「で。仇、返しに来たんやろ。ええで、好きにしいや」
そう告げ、ラムダはナツキをじっと見た。自分に下される罰を目に焼き付けようとするかのように。
それに対し、ナツキは首を横に振った。復讐に来たわけではない。
「違うよ、ラムダ」
「違うわけあらへん、ワイは自分攫って殺人鬼に差し出しよった極悪人やで」
「でもボクのこと、庇ってくれたんでしょ?」
「ちゃう……庇ったんは自分やない、ワイ自身や」
ラムダはギリッと歯を鳴らした。
「兄貴に言われた通りガキ騙して攫って、兄貴に褒められていい気になって、いざ殺すっちゅうときに後悔して日和って、ほんでこのザマや。はは、自分勝手のツケや、救えんやっちゃな、ホント。史上稀に見るアホや。ドクズや」
「……ま、そうかもね」
否定はしない。ラムダの行いは許されることではないし、後悔するタイミングは遅すぎるし。ナツキがただの幼女なら、確実に嬲り殺されていただろう。
ラムダの目の前まで歩を進める。逆さに釣られているラムダの顔は、ナツキの顔とちょうど同じ高さにあった。
「…………っ」
顔の前にすっと手をかざすと、ラムダは反射的に目を閉じた。
覚悟決めたような顔しといて、死ぬのはやっぱり怖いんだな。そりゃそうか。
「てい」
ビシッ。
全力のデコピンを一発、額に叩き込んだ。気を通していない指で。
ラムダは全身をビクッと震わせ、やがてそれがただのデコピンだと気づくと、恐る恐る目を開けた。
「……は?」
「仇、返したよ」
「……何、言うとんねん。自分、死にかけたんやで」
「そっちはもう、兄貴さんに返したよ。今のは睡眠薬飲まされた分と、昼までにお店に帰れなかった分。反省してよね」
これでもしナツキや他の知り合いが犠牲になっていたのなら、また別だったかもしれない。でもナツキは生きているし、大した怪我もしていない。ラムダへの個人的な恨みは、今言ったことくらいだ。ラムダはクズに命令されてナツキを運んだだけ。なら彼はまだ、やり直せる。
「じゃあ次は、恩を返すよ」
「は? ……自分、何やっとんねん」
手に気を通し、ラムダをきつく縛っている縄の結び目を解く。
「受身は自分で取ってね」
「は……わ、ちょ、ぶっ!?」
縄の支えを失ったラムダの長身は、頭から地面に落ちた。……一応頭と首に気を通しておいたから、大丈夫だろう。
やがてむくりと体を起こし、ラムダは困惑したような顔でナツキを見た。
「……恩て、何のや」
「ジュースのお礼。ボクが返す番だったでしょ?」
薬入りでも、あの赤いマスカットジュースは普通に美味しかったから。
「なっ……あれは自分に一服盛ろうっちゅう魂胆で」
「だーかーらー、そっちの仇はさっき返したでしょ」
ラムダは床に座り込んだまま、口をあんぐり開けてナツキを見つめた。
「……許して、くれるんか。ホンマに?」
そもそもラムダに対する悪印象なんてほとんど無いのだ。『子猫の陽だまり亭』という名前を聞いたときの、彼の悲しそうな表情を覚えている。彼だって本意ではなかったのだろう。
それに、ナツキが意識を失う直前にだって――
「謝ってくれたでしょ」
「謝った?」
「倒れるボクを受け止めてくれたときに」
かんにんな。……確かに、そう聞こえた。
ラムダは少しバツの悪そうな顔になった。
「……聞こえとったんか」
「うん。だから、もういいよ。仲直りしよう」
「仲直りて……」
「そうすれば、仇は返さなくてよくなるんだよ、ラムダ」
広げた右手を、差し出した。
「だってボクたち、友達でしょ?」
そう笑いかけると、ラムダはしばし言葉を失い――
やがて大きな右手が、小さな右手に、重なった。
俯きながらすまん、すまんと繰り返すラムダの頬が濡れていたのには、気付かないふりをしておいた。
☆ ☆ ☆
ラムダとの仲直りから、30分くらい後。
彼の案内で隠し通路を抜けた先はフィルツホルンの地低層の外れで、時刻はまだ夕方だった。
「ラムダぁ、これはちょっと恥ずかしいよ」
「なんでや、子供は普通喜ぶもんやで」
「いやだってみんな見てるじゃん! 下ろしてよ!」
今ナツキは、身長2メートル半になっていた。道行く人々がはるか下に見え、道行く人々は皆逆にナツキを見上げていた。
……端的に言えば、ラムダに肩車されていた。
「せめてサングラスと帽子取ってよ!」
「なんでや、かっこええやろ」
微笑ましいものを見る視線が集まるのは別にいい。幼女とはそういうものである。だかしかし、今集まっているのは心配と不審と好奇の眼差しだ。それはどう考えても、肩車しているのが有名なヤクザ集団の組員だと一目見て分かるからである。
「自分、足短いやろ。この方が速いっちゅーねん」
「ついていけるから大丈夫だってば」
「アホ言うなや。ガキに走らせてワイはスタコラ歩くなんちゅうカッコ悪いこと、できるわけあらへんやろ!」
「ちっちゃい女の子肩車してスラム街歩いてるヤクザ、カッコよくはないよ!?」
そう、スラム街である。
場所で言えば、Dブロック地底層の外れ。どこもかしこも鼻が曲がるような悪臭が立ち込め、ボロ布を被ったような粗末な服装の者がふらふらと歩いては不良に絡まれている、そんな地域。
どうやら警察にも放置されているらしく、ニット帽黒サングラスジャンパーコートの不審者があちらこちらで闊歩している。
「職質されるされないとかそういう問題じゃなくてさぁ……」
ナツキがラムダの頭の上で膨れていると、
「……ワイはお前を守ると決めたんや。こないな場所で手放せるかアホ」
そんな小っ恥ずかしい台詞が、小さく聞こえた。そこまで心を入れ替えてくれたとなると、助けた甲斐があったというものだ。
もちろん、それをスルーするナツキではない。居心地悪さを押し付けられている仕返しに、ここぞとばかりに弄り倒す。
「え、なに今の、プロポーズ? よく聞こえなかったからもっかい言って!」
「ちゃうわボケ! 二度と言わんわ! ……あーほら、着いたで。ウチの本部や」
上手いこと躱されてしまった。
まあ、こんな所まで来た本来の目的を優先するべきなのはその通りだ。……まさか、それを計算に入れてさっきの恥ずかしい呟きを吐いたのか?
「……大きなビルだね」
目の前には、周囲の建物と比較して異様に背の高いビルが建っていた。
……と言っても、七階建てくらいだが。周りがボロい小さな平屋ばかりなせいで、異様に存在感がある。
「でかいだけのオンボロビルや。今年崩れる、今年こそ崩れる言われ続けてもう二十年は経っとるらしいで」
《終焉の闇騎士同盟》本部。こんな僻地まではるばるやって来たのは、ドアの修理費を請求するため――ではなく、クズの所業を告発して組織内の取り締まりを徹底してもらうためだ。二度とにー子に触れさせるものか。
今のナツキには、まだ縄で縛られた跡もある。頬には殴られた痕もある。隠し部屋への行き方も覚えている。状況証拠はたんまりあったし、《子猫の陽だまり亭》に帰る途中に寄れる位置に本部があるということで、寄っていくことにしたのである。
「ラムダも一緒に来ちゃって良かったの? 一応、あいつの子分だったんでしょ? 見せしめになんかされたりするんじゃ……」
「自分だけやったら信じてもらえへんやろ。それにワイは下っ端も下っ端の使いっ走りやさかい、何とかなる何とかなる」
そう言い切るラムダだったが、なかなか本部に足を踏み入れようとはしない。顔を上から覗き込めば、彼の額には冷汗が浮いていた。
「ラムダ……」
巨大な組織の下っ端も下っ端の使いっ走りが、組織のトップに、自分も噛んだ特大のやらかし案件を報告に行くのだ。心穏やかでいられるわけがない。もしかすると、死ぬ覚悟すら決めているのかもしれない。
少し安心させてやろうと、ぎゅっとラムダの頭を後ろから抱きしめてやった。幼女の癒しパワーの使い所だ。
「わ、何やねん」
「大丈夫だよ、何か言われたら、ラムダはボクのこと庇ってくれたんだって証言するから」
「……それはウソや。言うたやろ、ワイは――」
「ラムダがそう思ってても、ボクにとってはホントのことだよ」
もしまた同じことが起きたら、ラムダはきっと全力で庇ってくれるだろう。
……そして、非常に言いにくい事だが――
「あとねぇ、たぶんラムダよりボクのほうが強いよ。安心しなよ、何があっても守ってあげるからさ」
そうぶっちゃけると、ラムダはフッと笑ってため息をついた。
「……そんな気はしとったけど、情けない話やなぁ。ナニモンやねん、自分」
「あはは、それはまだ秘密」
ハグを解き、馬跳びのようにぴょん、と前へ飛び降りる。
そのまま目の前にある大きな金属扉を開き、中へ入った。
「こんにちはー」
ギィ、バタン。
「……は? 待てやおい!」
取り残されたラムダの叫びが、ドア越しに聞こえた。