茜色のコントレイル
ボォオー、と汽笛が鳴り響き、巨大な船がネーヴェリーデの水のアーチをくぐる。様々な貿易品を積み込んだその船は、これから15日ほどかけて海を渡り、フリューナ大陸へと向かう大陸間貨物輸送船だ。貨物船なので、船内にいる人間は全て船を動かすための船員であり、乗客はいない――少なくとも表向きには、そういうことになっている。
ネーヴェリーデの西端、港出入口の水のアーチを形作っている終端水路に腰掛けながら、その船を見送っている男が一人いた。
「あーもしもし、ボス? 作戦完了。船は無事に出港したよ」
『……無事出港しちゃったらダメなんだけど?』
通信機越しに聞こえてくる訝しげな声は、《塔》の端末であるこの男の上司――原初の涙、セイラ=ニル=マキナのものだ。
『うーん、πの伝手でも無理か。一筋縄じゃいかないな……』
「ん、ボス、何か勘違いしてない?」
船は巨体に似合わぬスピードで水平線へとひた走る。すでに豆粒大になった船体の下端が星の丸みの向こうへ沈んでいくのを眺めながら、端末πは愉快そうに口の端を吊り上げる。
「俺は作戦を恙無く完了したんだ。勝手に失望されちゃ困るね」
『いや……逃げられたんでしょ? もうプルタネルフで待ち伏せするくらいしかないじゃん』
「その必要はないよ、ナツキ君達はプルタネルフには辿り着けないからね」
『ふーん、あの子達の強さを見てそこまで断言するとは、ずいぶんな自信だね。腕利きの刺客を船に乗せた、とかじゃ無理だと思うよ?』
「だろうね。まあ、乞うご期待、とだけ言っておくよ」
『……分かってると思うけど、一応念を押しておくよ、端末π』
セイラの声が冷たさを帯びる。端末πはやや居住まいを正した。
『ぼくがきみにここまでの自由行動を許し、今回の秘匿作戦を任せたのは、きみがどんな手を使ってでも結果だけは完璧に出してきたからだ。過程は問わないけど失敗は許されない。分かるね?』
「仰せのままに、ボス。安心してくれていいよ、奴らは最初から最後まで俺の掌の上で踊ってるんだから。万事計画通りってね」
船の煙突の先が水平線に飲み込まれるのを見届け、端末πは海に背を向け歩き出す。
「危機を乗り越えた後の平穏な時間ってのは……人が最も油断するタイミングなのさ」
☆ ☆ ☆
「はぁ~……ナツキちゃん……ニーコちゃん……アイシャちゃん、ハロちゃん、スーニャちゃあん……会いたいよぉ……早く帰ってきてぇ」
「早ぇって! まだ出港したばっかだろ」
「だって……だって! やっとまた会えたと思ったら今度はフリューナ大陸よ!? もう二度と会えないかもしれないじゃない……!」
「ほら~レイニー、泣いてないで~しゃきっと歩く~」
ハンターパーティ《モンキーズ》の面々は、三ヶ月に及ぶ《水魚の婚礼》での任務を終え、ナツキ達も見送り、いつでもフィルツホルンに帰投できる状態になっていた。最後にゆっくり観光でもしてから帰ろう、というローグの案で、ラッカ達が今いるのは表街の港湾区である。
ちょうど大きな客船が一隻係留され、乗客の搭乗を待っていた。しかしここに集まっている人だかりのほとんどは船の乗客ではない。ネーヴェリーデの港湾区は世にも珍しい「船を見下ろす」港なので、それだけで観光名所になっているのだ。船をまたぐ橋に取ってつけたような縁結びのご利益まで用意されているせいで、どこもかしこもカップルだらけである。
「あ……これ乗ってけば……ナツキちゃん達を追いかけられる……」
「だめ~! レイニーってば~、行くにしても~まずはラズさんに~、報告に戻らなきゃでしょ~!」
「こりゃ重症だな……ん?」
ふらりと搭乗ゲートに歩きだそうとするレイニーと、腕を掴んで引き止めるルン。二人を苦笑しながら眺めていたラッカは、その向こうで船を見下ろす六人の人影に目を留めた。大人二人と子供四人の集団だ。大人のうちの一人、長い髪を先端でくくっている長身の女性は――
「あれ、ヘーゼル姉じゃね?」
「え、ヘーゼルちゃん? どこどこ……って、男連れてる!? そんな……嘘だ!!」
「いやヘーゼルの嬢ちゃんだって男の一人や二人……んん!? 待てありゃカイじゃねえか、チューデントの! 嘘だろ!?」
愕然と口を開けたローグとリンバウの叫びは、件の二人を振り向かせるには充分すぎる声量で轟いた。すぐこちらに気づき、ヘーゼルが笑顔で手を振り駆け寄ってくる。
「お、《モンキーズ》だ! 久しぶり~。そういえばネーヴェリーデに遠征中って兄貴が言ってたっけ。お仕事は順調? ……なんかレイニー泣いてる?」
「うぅ、聞いてよヘーゼル……あたしもう、これから何を目標に生きていけばいいか分からなくなっちゃったぁ……」
「お、おお……よしよし、なかなかのぶっ壊れ具合ねこれは。一体何があったの」
「何があったのはこっちの台詞だよヘーゼルちゃん……そんな男と一緒に子連れでデートなんて」
「カレシでも子供でもデートでもないから!」
ヘーゼルが叫ぶと、その後ろからわらわらと子供が四人集まってきた。全員お揃いのフード付きパーカーの女の子だ。
「うふふ、やっぱり親子に見えるんですわ」
「うーむ、ヘーゼルが母親はいいとして……」
「カイ様が父親はちょっと……コレジャナイ感あるわよね」
「威厳が足りないですよね」
「……好き放題言ってくれるな、貴様ら」
「「「「きゃー!」」」」
さらに後ろからヌッとカイが近づいてくると、子供たちは楽しそうに慌ててヘーゼルの後ろに隠れる。「親子にしか見えねえな」とリンバウが笑い、ローグは歯ぎしりをした。
「久しぶりだなラッカ、こんなところで会うとは。オレ達はこれからフリューナに渡るところだが……お前達も行くのか? フィルツホルンに根が生えてるのかと思っていたぞ」
「いや、俺たちはさっきナツキちゃん達を見送って、これからフィルツホルンに帰るとこだぜ」
「む? 客船に今朝の便はなかっ……ああ、なるほど。『お部屋』か」
「ちょっ、ラッカ!」
「あっやべ、秘密なんだった。これ秘密な」
しー、とラッカが口に指を立てると、カイは呆れたように笑った。
「分かっているさ、ナツキが何をしてどこに向かっているかはヘーゼルから聞いている。オレ達の目的地もほぼ同じ、メディル海だ。道中ばったり会うかもしれんな」
「ギルドの依頼にしちゃ遠出だな? しかも子供連れかよ」
「個人的な旅行だ。元々はオレ一人のつもりだったのだが……な」
ちらり、ラッカとカイの視線が四人の少女に向く。それに気づいた少女達は口々に言い募った。
「今更わたくし達を置いていこうったってそうはいきませんわよ! ここまで来たら一蓮托生、ばけーしょんに出発ですわ!」
「バケーションというより、これはそう……ハロを追いかける気ままな旅さ。私達の一生は元来、小説のように起伏に富んだものじゃないんだ。ふふ、こんなチャンスを逃す手はない」
「違うわ、カイ様はヒルネ様を探しに行くの! あたし達はカイ様の親衛隊なのよ!」
「もう先輩達ったら、わたし達はお仕事ですよ? 世界の武具や工房を見て回って知見を吸収するのが目的なんですから!」
全員言っていることが違う。
どういうことなの、というかこの子達どこの誰なの、という視線が集まり、カイは肩をすくめて「ウチの見習いラクリマ共だ」と答えた。
普通なら人間ではないということにまず驚くところなのだろうが、アイシャ達と触れ合ってきた《モンキーズ》一同にとっては今更である。カイもそれは分かっているのか、感染云々の説明はせずに話を続けた。
「ハロが父上から免許皆伝を押し付けられて、ウチの工房から出ていったのは聞いたか? こいつらはハロに感化されて『世界』を見に行きたいと言い出したのだ」
「え~、言い出したって言っても~、法律上は~ご主人様の許可が必要なはずですよね~? お父様は許してくれたんですか~?」
「意外にも、な。父上にも色々と思惑はあるようだが……おかげで子守りをしながら星の裏側まで行くことになってしまった」
「で、あたしは世界の鍛冶工房巡りって餌でまんまと釣られて、子守りにこき使われてるってわけ。ギルドの店はウチの見習いにぶん投げてきちゃった」
ヘーゼルが補足すると、ローグとリンバウはほっと胸を撫で下ろした。本気でヘーゼルとカイがただならぬ関係にあると思っていたらしい。
「ほらお前ら、ちゃんと自己紹介しろ」
「はっ、はい!」
カイに促され、最初に前に出てきたのは一番真面目そうな子だった。フードを取ると、薄紫色の髪の間にちょこんと生える小さなクマ耳が見える。手早く後ろ髪を結って小さなポニーテールにし、直立不動の体勢を取った。
「ムース=ノウ=ウルス、です! 剣が好きです、大好きです! すごい剣をたくさん打って打ちまくって剣に囲まれて過ごし、剣に最期を看取られて星に還るのが『夢』です! そのためにシンギ師匠の弟子を目指して、いえ、免許皆伝を目指して鋭意修行中ですっ!」
「やれやれ全く、ムースはそればっかりだな」
呆れながら続けてフードを取ったのは、乳白色の長くふわふわもこもこなくせっ毛の中から一対の巻き角を覗かせる、マイペースそうな子だ。
「私は二アリー=エク=アリエス。『夢』は弟子を取ってそいつらに仕事をさせて、自分は活字の海を漂うだけの生活を送ることさ……と師匠に言ったら怒られたので、別のを考え中だよ」
「あたりまえですわ……」
続いて、薄黄色に白のメッシュの入ったショートボブに大きな赤リボン付きのカチューシャを付けた、どこかのお嬢様のような話し方のラクリマが前に出てくる。忌印は見当たらない……かと思いきや、リボンに隠れる位置にちょこんとハムスターのような小さな耳がついていた。
「こんにちは、人間の皆様方。ビルマ=ウナ=カヴィですわ。わたくしの『夢』は、世界一かわいい武具をたくさん作って、辛く苦しい戦場をかわいいで染め上げること! よろしくお願いしますね」
「さすがビルマちゃんかわいい! じゃあ最後はあたしね!」
最後に意気揚々と躍り出てきたのは、燃えるような赤のロングストレートに噴水型のアホ毛を乗せた、八重歯が印象的な元気いっぱいの子だ。腰の辺りから太いトカゲの尻尾のようなものが生えている。
「エクシア=テル=プレストよ、シアでいいわ! 優しくて強くてクールでカッコいいオトナな騎士様のお気に入りになって、その人の魅力をあたしの武具で世界に知らしめるのが『夢』よ! それでゆくゆくはその人の専属鍛冶師になって、ジョーネツ的な……コイ? ってやつをやりたいわ!」
「シア先輩の『夢』が一番難易度高そうですよね……いろんな意味で」
四人の自己紹介を受け、ラッカ達は一様に息を飲んだ。
この三ヶ月、ラッカ達は《水魚の婚礼》で依頼をこなす中で数多くのラクリマと関わり、おやっさんから忌印種やその特性を学んできた。だから知っている――力の強いウルス種はともかく、アリエス種、カヴィ種、プレスト種は戦闘向きではなく、手工業用ラクリマとしても秀でた能力はない。普通なら、感染個体は殺処分か、良くて安物の奴隷行きが関の山だ。
しかし不遇を背負って生まれたはずの彼女たちが今、「夢」を語り、とても楽しそうに笑っている。それはひどく眩しい光景に思えた。それは《水魚の婚礼》でナツキが語り、アイシャやニーコ、ハロ、リリムがその可能性を見せてくれた世界の一端であり、まさしく彼女達の残した足跡のひとつなのだ。
「すごいわね」
「ああ……自己紹介ありがとな! 俺達はハンターパーティ《モンキーズ》、俺がリーダーのラッカで――」
気圧されていたラッカ達も順に自己紹介を返し、お互いの近況報告をしていたところで、眼下の船が汽笛を鳴らす。
「む、そろそろ出航の時間だ。名残惜しいが……それではな、機会があればまた会おう」
「じゃ、兄貴によろしくね!」
「おう、そっちもナツキちゃんに会えたらよろしくな! レイニーが泣いてたって伝えといてくれ」
カイとヘーゼル、そして四人のラクリマ達が乗った船の出航を見送りながら、ラッカはふと空を見上げる。相も変わらず空は真っ赤に焼けていて、それは明日も明後日も変わりそうにない。
「ん……あれって」
その雲間を突き抜け、二つの小さな影が飛んでいくのが見えた。鳥のようにも人のようにも見えるその影は、キラキラと胸元で太陽の光を反射させながら、南へ――フリューナ大陸の方角へと飛び去って行った。
影が見えなくなっても、その軌跡は白く細い雲の帯となって残った。きっとすぐに風に散らされて消えてしまうだろう二条の軌跡が、太陽に照らされて茜色に輝いている――その光景が、何故だかラッカの目に焼き付いて離れなかった。
ネーヴェリーデ編おしまいです。
多忙のためまたしばらく間が空くと思いますが、気長にお待ちくださいませm(_ _)m