脱出 Ⅴ
リリムに話を聞き、ローレライことミュウが飛んでいったというエアダクトにメルクの力を借りて侵入し、真っ直ぐ進むこと数十秒。ナツキの《気配》術は逆向きに近づいてくる何者かの反応を捉えた。迂回路も身を隠す場所もなく、仕方がないと剣を抜いたナツキ達の前に現れたのは――
「げっ、お前らこんなとこまで追ってきたのかよ! 何なんだよ!」
見覚えのある三人の男女だ。つい数時間前フィンとナツキを追いかけ回してくれた小柄な眼鏡男と幽霊のような女、そしてその親玉と思われる貴族風の男である。
「えーなにさ、この物騒なの。フィンちゃんの知り合い?」
「知らねえよ! ギルド掲示板見てたらいきなり襲ってきたんだ」
リリムは初対面だろう。フィンは警戒してさっと後ずさるが、彼らの様子からしてナツキ達を追って来たわけではなさそうである。必死の形相で時折後ろを振り向きながら息を切らしているその姿は、むしろ何かに追われて命からがら逃げてきたかのように見えた。
「ペルニコフ閣下、どうするでありますか!? 奴は確か目標の……」
「撤退が最優先だ! 大損だが天使の雫に殺されては元も子も――、っ!?」
男――ペルニコフは言葉と足を止めた。ナツキが抜いた紫紺の刀身が、音もなく男の喉元に突きつけられたからだ。
「何と……!?」
「きひゃひゃ……見えなかったぁ」
部下二人も歩みを止め、ナツキを注視する。眼鏡男は変な形の機械を構え、幽霊のような女は腰を低くして臨戦態勢を取った。
「どうも。今天使の雫って言ったね。みんなずいぶん傷だらけだけど、それはアイシャにやられた傷?」
「……だとしたら何だ」
「いやさ、アイシャは逃げ出した相手を追いかけ回してまで傷つけようとするような子じゃないんだよ。もし本当に追いかけてきてるなら――」
バチ、と血色の殺気が漏れ出し、ペルニコフ達が一歩後ずさる。
「――いったいキミ達は、どんなひどいことをボクの仲間にしてくれたのかな、って」
彼らがどんな経緯でアイシャと戦うことになったのかは分からないが、天使の雫なんて言葉を知っているからにはただの悪党ではない。明確な目的をもって危害を加えに来たのだろう。
「あー、ナツキちゃん怒らせちゃったねぇ。……まああたしも同感だけど、さ」
「へっ、なんだか知らねえが今は加勢するっきゃねぇ――」
「ッ……《イーター》起動! フィン=テル=パセル、一切の行動を禁ずる! 発声もだッ!」
「んなっテメェ卑怯……、……ッ!」
リリムが懐からメスを抜き取って構えたのを見て、敵も動き出す。ペルニコフが叫んだ瞬間に、今まさに電撃を放とうとしていたフィンの動きが止まった。舌打ちと共に紫色の雷のマナが不発のまま放出される。
「フィン大丈夫、ボクに任せて!」
「ふひ、ま、まずはお前ッ――」
「遅いよ」
変な形の機械のトリガーに指をかけた眼鏡男の懐まで瞬時に肉薄し、腕ごと胴体をひと薙ぎする。ハロが刻印した力によって実体を失った刀身は男の体を素通りし、代わりに気の循環路が切断される。
「な、にィ……がッ」
下半身と両腕を動かせなくなった男はその場に崩れ落ち、その拍子にトリガーが引かれた機械からは毒々しい色の液体が飛び散った――男の顔に向けて。
「ぎ、ゃ、ぁぁぁあああアァぁ!」
「きひゃひゃひゃバカねぇ、キモい豚顔がもっとひどくなってるぅ!」
ジュウゥ、と音を立てて男の顔の皮膚が焼け爛れていく。上半身だけ動かしてのたうち回る男を蹴飛ばしながら、幽霊女がぬらりと前へ出る。
「でも今、何したのかなぁ……気になるねぇぇ!」
「くっ、速い――!」
リリムの正確なメス投げをするするとかわし、ナツキの足元まで水のように滑り込んでくる。相当に戦闘慣れしていることが伺える、熟達した体術だ。
「きひ、つーかまえたぁ!」
「っナツキちゃん!」
幽霊女がナツキの体を羽交い締めにする。少し力を入れるだけで手足も背骨も折ってしまえる体勢だ。こうなってはどうすることもできないだろう――もしナツキがただの剣術に長けた幼女だったならば。
当然、ナツキは避けられなかったのではない。避けなかったのだ。
「油断するな! 《蝙蝠》によればそいつは――」
「あぎゃぁぁあ、あ、がぁっ……! か、は、ひ……ぃっ!?」
「何か奇怪な術を、使う……と……クソッ!」
ペルニコフの忠告は遅すぎた。むき出しの手足からナツキの《乱気》術を注入された幽霊女は地に倒れ、泡を吹いて痙攣し始める。剣を首に落として全身を動けなくしてから、足で踏んで適当に調律してやる。
ここまで一連の流れを見たリリムは呆れたように苦笑した。
「あー……うん、こりゃあたしらの出番ないねぇ」
「う、ウッソだろ……こんな強ぇ人間、聖騎士くれぇしか……あ、そういやエルヴィートのおっさんはこいつに負けたんだった……」
フィンが戦慄に息を飲む。実際にはナツキとアイシャとアイシャに取り憑いた天使、それからスーニャの牽制による能力の封じ込めによってなんとか互角に戦えるようになり、最後もエルヴィートが退いたことで戦闘が終了したのだが――それをフィンやペルニコフに教えるメリットはないので黙っておく。
「き、貴様……本当に子供、いや、人間なのか……?」
「8歳の人間の女の子だよ。それで、おじさんもボクと戦うの? 子分二人よりはまだまともに戦えそうだけど」
「ふん……戦わないと言えば見逃すと?」
「大人しく捕まってくれるなら命は取らな……あ、ごめんやっぱ無理かも」
突然掌を返したナツキをペルニコフが訝しんだその瞬間、
――バチィッ!
先程ナツキが発したものより大きな血色の稲妻が、ペルニコフの背後から飛んできた。ペルニコフは肩を跳ねさせて後方を振り返り、青ざめ――る暇もなく地面に縫い付けられるように倒れ伏した。
「がッ――」
「やっと、追いついたです」
聞きなれた声と共に、エアダクトの反対側から何者かが歩いてくる。まだ姿は見えないが、《気配》術で誰なのかは分かっている――アイシャだ。
「早く吐くのです。さっさとナツキさんとリリムさんの居場所を教えれば、無駄に苦しませずに殺してやるのです」
「や、やめッ……言う、というかそこに居るだろう!」
「何を言って……え?」
ペルニコフを注視し続けていたアイシャの目がちらりとこちらを捉え、戻り、すぐさま顔ごとこちらを向いた。教科書に載せられそうなほど見事な二度見であった。
「や、アイシャ」
「ナツキさん! 無事だったです!? リリムさんも……!」
「がふっ――」
ぱっと顔を輝かせ、アイシャが駆け寄ってくる。その片手間にペルニコフの後頭部に衝撃が加わり、彼は白目を剥いて沈黙した。
「ボクもリリムさんも無事……だけどアイシャ血だらけじゃん! っていうかその力ってまさか……あ、にー子とハロは!?」
「これは返り血なのです! ハロちゃんもニーコちゃんも無事なのです! 聞きたいことはいろいろあると思うですが、積み込みまであと10分しかないのですよ! 走るです!」
アイシャは重要な伝達事項をまとめて一気に叫び、返事を待たずに身を翻して走り出した。それで正解だ。ずいぶん頼もしくなったものだ、とリリムと視線を交わし、後を追って駆け出した。
「……は? え、ちょ……待て! ナツキこの野郎、逃がすかぁ!」
ワンテンポ遅れて、背後から雷鳴が轟いた。