脱出 Ⅱ
「何だ、アレは……神獣か? 地下とはいえ、裏街の全域に繋がる場所で封卵を使うとは……大胆なことをする」
「知りませんよぉ! えぇ、あんなものはワタシの計画に存在しない! まさか《蝙蝠》の仕込みですかねぇ……?」
その場にいる誰もが一枚のモニタを凝視していた。映っているのはナツキとフィンと、桃色に淡く発光するぶよぶよした何かだ。ナツキの体に大部分が隠され、全体像がよく分からないが、人型に見えなくもない。
それはナツキやフィンを襲わずに止まっているかのように見えたが、突然触手のような何かが伸び、フィンの体に上下から侵入し始めた。眼鏡男に口を抑えられながら、ミュウが声にならない叫びを上げる。
「予定とはやや異なりますが、えぇ、もともと腹の中から反逆者を処刑するのがあの水牢の役目ですからねぇ、まあいいでしょう……ん?」
《祭司》は気づいた。張り裂けそうなほど大きく膨らんでいたフィンの腹が、凹み始めていることに。
「あのピンク……胃袋のアメウナギを無理やり排出していますねぇ!?」
「ふーん……てことはぁ、アレもあいつらのお仲間ってこと? きひゃひゃひゃ、面白くなってきたじゃーん」
「何も面白くないですよぉ! えぇ、しかし多少延命したところで焼け石に水です、水位が上がれば数千数万のアメウナギが殺到しますからねぇ! ただ苦しみを先延ばしにしているに過ぎませんよぉ! あひゃひゃひゃひゃ!」
「……そうも言っていられなくなってきたようだが?」
「はい?」
哄笑していた《祭司》は、ペルニコフに言われモニタに視線を戻し、固まった。
「……は?」
「これは一体……何でありますか」
桃色の物体がナツキとフィンを覆い隠すように飲み込み、饅頭のような形に巨大化していく。やがて岩場の元の陸地部分と同じくらいの大きさまで膨らむと、その巨体に似つかわしくない素早さでしゅるりと水に落ちた。
岩場には何も残されていない。ナツキもフィンも、桃色の巨大饅頭と共に湖の中だ。
「水中カメラに切り替えますよぉ! えぇ、こいつら、まさか……!」
モニタの表示が切り替わる。淡い黄緑色の光で満たされた水中、無数のアメウナギが泳ぎ回る中心に、桃色饅頭が沈んでいる――いや、もはやそれは饅頭ではなく、無数の触手に包まれたイソギンチャクのような形状になっていた。
触手が一斉に四方八方に伸びたかと思うと、中程で千切れ、本体から分離した切れ端がひとりでに動き出す。獲物だと思ったアメウナギが襲いかかるが、逆に取り込まれ、一瞬で溶け去ってしまった。
大量の触手の切れ端は、アメウナギなど気にもとめずに湖底に散らばり、統率の取れた動きで何かを探すように動きだした。
「フン、排出口を探しているようだな。それで、こちらで操作できるシャッターとやらはあの神獣モドキも防げるのだろうな?」
「な、なっ……えぇ、そのはず……」
自信なさげな《祭司》を見てペルニコフは一つ溜息をつき、くるりと身を翻す。
「帰還する。最大の目的である洗脳のギフティアは入手した、もうここに用は無い……全くつまらぬ余興であった」
「はぁい」
「了解であります」
「ま、待ちなさい! ここまで来たら一蓮托生――」
この非常事態に貴重な戦力を逃してなるものかと、《祭司》が手を伸ばしたそのとき――ビィィイッ、と耳障りな警報が鳴り響き、モニタの一枚が赤い警告文字列を表示した。内容は――「侵入者あり」。
「何ですかこんな時にッ! 場所は裏口……あひゃひゃひゃ! ペルニコフ、出番ですよぉ! 帰還したくば道中の敵を殺してから行くんですよぉ!」
「面倒な……まあいい、侵入者の数と武装は」
「知りませんよぉ! 今は全カメラを水牢に配置しているんですからねぇ! 奴らが死ぬまでの一部始終を記録してマニア共に高値で売りつける計画だったんですよぉ!」
「知らん! いちいち使えん奴だ……もういい、貴様ら戦闘準備だ。全力でかかれ」
「はぁい! やぁっと戦えるんだねぇ……きひゃひゃひゃひゃ!」
「了解であります! ……閣下、こいつはどうするでありますか?」
ミュウを乱暴に担ぎ上げ、眼鏡男が問う。ペルニコフは少し考え、
「……動けなくして置いていけ。《イーター》で無理やり戦わせることは可能だろうが、相手が同業だと逆に危険だ。迅速に片付けて回収に戻る」
「御意に!」
眼鏡男は担いでいたミュウの体をくるりと裏返し、流れるように両膝を本来曲がるはずのない方向へ折った。
「かひゅっ――いっ、ぎ……いぁあぁああぁっ!! ひ、いだ、痛いっ……!」
「耳元で叫ぶなであります」
ぽい、と雑に放り捨てられ、ミュウは床に転がり痙攣し始めた。ぎゅっと目をつぶり、細い息を繰り返しながら必死に痛みに耐えている。
「貴様……非戦闘用のラクリマは脆いぞ。回復薬の余りはあるが、戻ってくるまで保つのだろうな」
「大丈夫よぉ閣下、調整前の子を一時間かけて全身バキバキに一本ずつ折っていったことあるけどぉ、首の骨折るまではかわいい叫び声を上げ続けてくれたものぉ! きひゃひゃひゃひゃ!」
「そうか、ならいい。行くぞ」
それ以上はミュウを一瞥もせず部屋を出ていく三人を見て、その狂人っぷりに《祭司》は冷や汗を流す。自分とて同類の自覚はあるが、あれは裏社会ですら野放しにしてはいけない類の化け物だ。しかもプルタネルフ自治区の権力によって表の世界ですら無法を働けてしまう。《祭司》は羨望混じりの恐怖を抱き、床で痛みに喘ぐミュウを一瞥し――モニタに映る桃色饅頭の監視に戻った。
《祭司》は非常事態に焦っていた。普段の彼ならきっとすぐに気づき、ペルニコフ達を呼び戻しただろう。しかし彼はそれに気づかなかった。
ペルニコフは一度敗北を喫したことで、素性の知れない相手との戦闘に慎重になっていた。普段の彼ならきっと多角的な視点で物事を考え、性急な判断を改めただろう。しかし彼は目先の安全を優先してしまった。
「……やれやれ、結局は僕に仕事が回ってくるのか」
部屋に仕掛けた監視カメラで全てを見ていた《蝙蝠》は、どこか達観した表情で肩を竦めた。
☆ ☆ ☆
数分前――
「すんすん……こっちだよ!」
「いいぞ、流石はペロワ種だッ!」
「にぁー、はろ、しゅごい!」
「えへへぇ」
ハロに先導され、アイシャはニーコとおやっさんと共に細く複雑な道を駆けていた。右、左、突き当りをさらに左――そう、ハロがナツキと共に来て、ローレライの被害者を見つけたという庭園迷路だ。
ちなみにニーコはおやっさんの腕の中である。この場にいない《モンキーズ》の面々は今、子供熱やその他諸々について判明した新事実を裏街の各所へ広めて回っているところだ。
「わぁ……大きな木なのです!」
「でしょ! ハロ、ナツキお姉ちゃんと一緒にここまで来たんだよ!」
庭園のシンボルマークだという大樹のある広場を東側へ抜け、やがてハロは一本の細い水路にたどり着いた。
「えーっと……あった! このお水、あのキノコのお姉ちゃんと同じ匂いがいちばんつよいよ!」
被害者の女性に遭遇したとき、ハロはその匂いに違和感を覚えたそうだ。それはつい最近注意深く嗅いだ匂いであり、嗅ぎ間違えるはずはなかった。
「甘い匂い、なのです?」
「そう! お魚さんにつんつんされたところのお水と同じ!」
「でかしたッ……待て、まさかお前、その水路に入ったのかッ!?」
「う、うん。くすぐったくてへんな感じになったから、すぐ出たけど……」
「出て正解だぜ、もしそのまま中にいたら……食われてたぜ」
迷路を貫いて伸びる細い水路を太陽を背に遡りながら、おやっさんはその白く長細い魚――「アメウナギ」と呼ばれる危険な生物について語った。その語り口はまるで怪談のそれで、話が進むにつれハロの顔が青くなっていく。
「あ、アイシャお姉ちゃん……ハロのこと助けてくれて、ありがとう……。ハロ、もう勝手にお水に飛び込まないようにするね……」
「そ、それはいい心がけなのです……けど、もう、親方さん! ハロちゃんがお水恐怖症になっちゃうですよ」
「お、おう……すまん。しかしありゃ十年以上前の指定害獣だぜ。でもってもう何年も前に駆除完了したって《塔》の発表があったはずだ……クソッ、聞いてた話よりよっぽど酷ぇ事態になってるぜ、姫さんよ……」
「悪い人がこっそり育ててたのですよ。きっと……こういうところで」
アイシャの言葉と同時に、一行は行き止まりに突き当たる。――奥に真っ黒な闇を抱えた、源流へと続く大きな放水路を侵入者から守る、重そうな鉄柵に。
ハロが首輪を4回擦ると、茜色の光が鉄柵の向こうへとまっすぐ伸びる。
「この奥、か」
「うん! えっとねー……そこ、たぶんスイッチだよ」
「よし、俺様が押そう」
周辺の匂いを嗅いだハロが、鉄柵の脇の岩壁の一箇所を指差す。近づいて見るとうっすらと四角い切れ目の入ったそこを、おやっさんが慎重に押し込んだ。
果たして――カチリ、ガシャン、と放水口の奥で機械的な音が響き、鉄柵が地面に吸い込まれていく。ハロは目を輝かせてその様子を眺めていた。
「わぁ、開いた!」
「さて、これで向こうにも気づかれただろうな。……突入するか? 様子見に出てきたところを待ち伏せて叩くって手もあるぜ」
「突入するです。もう約束の時間まで30分くらいしかないのです。一刻も早くナツキさんとリリムさんを助けにいくのです!」
「なぅー!」「おー!」
おやっさんの問いにアイシャは即答し、ニーコとハロが雄叫びを上げる。
「ハハハッ、チビ共は威勢があっていいな! よォし、行くかッ!」
おやっさんが豪快に笑い、まさに放水路の内部へとアイシャが一歩目を踏み出そうとした、その時だった。
「待って」
その場にいる誰のものでもない声が、どこからともなく、全員の鼓膜を震わせた。