リリムとローレライ Ⅰ
――頭を撫でられている。
愛情のこもった優しい手だ。最後にこんな風に優しくされたのは、一体いつだっただろうか――と、リリムは記憶の海を漂う。
幼い頃、まだこの世界のことなど何も知らなかった頃、母親の腕の中で……何か悲しいことがあって泣いていたのを薄ぼんやりと覚えている。きっと今となってはとても些細な出来事だろう。喪失感のような感情が微かに残っているので、好きなおもちゃが壊れてしまったとか、きっとそんなところだ。
でも幼い自分にとってそれは一大事で、世界の終わりのように泣きじゃくったのだ。母親はそれに寄り添い、抱きしめ、ずっと頭を撫でてくれていた。
――リリム、大丈夫よ。
――ママもパパも、ずっとあなたと一緒にいるわ。
――あなたを置いていなくなったりしないんだから。
母親は小柄な人で、大柄な父親と並ぶと親子にしか見えなかった。リリムもかなり小柄なほうだが、15になる頃には母親の身長を追い越していたはずだ。
それでも、幼い頃の自分にとって母は偉大な存在だった。自分をあやす手をとても大きく感じたことを覚えている。
でも、今自分の頭に置かれている手は――小さい。
温かく柔らかい手ではあるが、比喩表現ではなく物理的に、母親のそれよりかなり小さい。まるでナツキやアイシャくらいの子供に撫でられているかのようだ。
「ん……」
「あら? 起きちゃったかしら」
薄く目を開けると、小さな山の向こうから、見知らぬ少女がこちらを覗き込んでいた。首元にはつるりとした金属の首輪――ラクリマだ。
内側に焦げ茶の層が入った柔らかそうな白髪が、腋のあたりまですとんと落ちている。チョコレートの木にふわふわさらさらの新雪が降り積もったような印象だ。後ろはハーフアップにしているようで、幼い顔立ちながら大人びた雰囲気を振りまいている。少女が優しく微笑むと、きめ細やかな雪の糸がふわりと舞った。
後ろ髪をまとめているのは、たくさんの純白の小さな羽飾り――それが本物であるということに気づいたのは、少女の背後で大きな翼が揺れているのが見えたときだった。
「パセル種……」
「うふふ、詳しいのね。でも気にしなくていいのよ。わたしはあなたを癒すためにいるの……あなたは今、天国にいるんだから」
「天国……あたし、死んだの……?」
「大丈夫、元気になったらちゃんと元の世界に戻れるわ。だからそれまで、わたしのお部屋でゆっくりしていってちょうだい」
思考がぼんやりしている。どうしてこんな場所にいるのか、このラクリマは誰なのか、ここに来る前は何をしていたのか……思い出そうとすると、全てがぼやけていく。まあ、いいか。
さら、さら、小さな指がリリムの髪を優しく梳いていく。心地いい感覚に目を細める。
自分はどうやら、大きなソファのような場所に寝かされていて、この少女に膝枕されているようだ。頬に当たる柔らかなフリース生地は、少女が身にまとっている緩やかなワンピースのもの。少女の顔の手前に見える小高い山は、そのワンピースを彼女の乳房が大きく押し出してできているものだ。……胸のあるラクリマはたまにいるが、ここまで大きい個体は非常に珍しい。
「あら、おっぱいが気になるのかしら。触ってみてもいいわよ?」
視線に気づかれてしまったようだ。少女は面白がるように微笑んで、自ら両胸を抱えて持ち上げて見せてきた。下着をつけていないのか、それは柔らかく形を変えてフリースワンピースにしわを作る。少女が首から提げている変な形のペンダントが山の上を転がり、反射光をキラキラと振り撒いた。
「いや……自分の体はもっと大事に……」
「うふふ、優しいのね。別に我慢しなくていいのよ?」
「まずあたしに女の子を襲う趣味はないよ……。……そのペンダント、共鳴石?」
「あら! 正解よ、私の宝物なの。もうほとんど実物は残っていないのに、物知りなのね」
少女はそっとペンダントに手のひらを添え、何かを懐かしむように目を伏せた。
共鳴石。別名、縁結びの石。二つに割ると、近づいたとき――正確には近すぎず遠すぎず両者がある一定の距離にいるときだけ心地よい音を発する不思議な石。その正体は、百年以上前に《塔》が洋上で何かの実験をしていたときに偶然発生した軽い聖片の結晶が、海を漂い海岸に漂着したものだ。リリムとて研究者の両親に写真を見せてもらったことがあるだけで、実物を見るのは初めてである。
「片割れは妹が持っているの。もう長いこと会っていないのだけれど……」
「妹……?」
「ええ、実はさっきちょっとだけ音が――って、いけない! 私の身の上話なんていいのよ、ここはあなたのための場所なんだから」
「あたしのための……場所」
「そうよ。今、私はあなただけのためにここにいるんだから……」
流れのままになんとなく会話しながら聞こえてくるのは、さらさらと水が流れる音、葉擦れの音。見上げた少女の向こう側には大きな樹の枝葉が揺れていて、その隙間からキラキラと光が降ってきている。フィルツホルンの地底層の川辺に木を植えれば、昼間は似たような感じになるかもしれないな、とぼんやり考える。
「ねえ……最近、どう? 疲れちゃってないかしら?」
「……え?」
「これまでずーっと頑張ってきたんだもの。擦り切れちゃわないうちに、ちゃんと休まないとだめよ?」
その声は甘く、穏やかに、リリムの心に染み渡っていく。
「ここはね、そういう場所。嫌なこと、辛かったこと、全部忘れてゆっくりお眠りなさい。私があなたを護ってあげるから……」
「…………」
穏やかに微笑む少女の目を見ていると、何もかもがどうでも良くなっていく。なんて心地いい空間なのだろう。この子のそばで、温もりに包まれていたい。永遠にここで暮らしたい――
――そんな感情が、自分の外側から流れ込んでくる。
(……さて)
リリムは気づいていた。今、自分は正常な状態ではないと。
自分のものではない感情の濁流が、自分の心を押し流そうとしてくるのを感じる。今自分の抱いている感情が自分の感情ではない、という矛盾した状態。平たく言えば、洗脳。
理由は分からないが、今自分は洗脳されかけている。しかしそれを認識できるなら、まだ手遅れではない。精神に作用する能力を使ってくる神獣と戦ったことだってある。厄介な相手だったが、対策を見つけてしまえばあとは簡単だった。それと同じなら、今取るべき行動は――
「ん……」
「うふふ、甘えん坊さんね」
ふとももの上で頭を転がし、少女のおなかに顔をうずめる。柔らかいフリース生地の服の向こうから、甘いミルクのような香りがした。少女は特に驚きもせず、楽しそうに笑って頭を撫でてきた。
そう、洗脳されているフリだ。相手は別に心が読めるわけではないのだから、洗脳が成功したと思えばそれ以上の干渉はしてこないはず。
「いいのよ、もっと甘えてちょうだい。あなたにはその権利があるもの……」
少女はそう言って、リリムの背をぽんぽんと優しく叩きながら、柔らかな声で子守唄を歌い始めた。その時にはもう、リリムの心を外から上書きしようとする感情の濁流は収まっていた。徐々に思考が冴えてくる。
洗脳が薬物によるものなら、こんなにあっさり解けるわけがない。やはりこのラクリマの異能か、何かしらの聖片によるものだろう。
しかし――そうだとして、一体これが何を目的としたどういう状況なのかがさっぱり分からない。何かを聞き出そうとするでもなく、少女は綺麗な歌声で子守唄を歌い続けている。その様子に悪意は感じられなかった。
(子守唄……ってことは、寝ることを期待されてるはず……)
少女の動きを警戒しつつ、寝たふりを始める。しばらくすると少女は歌うのをやめ、そっとリリムの頭をふとももからソファに下ろした。
「やっぱり、疲れていたのね……。今だけでもゆっくり休んでちょうだいね、おやすみなさい」
優しく頭をひと撫でし、少女は軽い足音を立ててどこかへ歩いていく。リリムは薄目を開けてその姿を追う。……まるで無警戒な背中だ。今リリムがメスを投げれば簡単に殺せてしまうだろう。
少女が向かった先には、見慣れない聖片がいくつか並んでいた。その一つを手に取り、端についているつまみをひねると――ボッ、と聖片の上部から火が吹き出した。
(……!?)
火炎放射器か。まさかこちらが眠っているところにそれを? いやいや、殺すつもりなら気を失っている間に殺せたはずだ。
混乱するリリムだったが、聖片を操作した少女はというと……
「やん、もう! 聖片ってどうしてこう使いにくいのかしら! えーと、えーと……確かこれだったわね? ……ふぅ、小さくなったわ。もう、驚かせないでちょうだい!」
リリム以上にわたわたと慌てまくり、最後には聖片に向けてぷんすこ文句を言っていた。その姿は同じく聖片オンチだった母親の姿を彷彿とさせるもので、思わず顔が綻んだ。
よく見ると少女が操作していた聖片には物を載せるための金具がついていて、炎はその下部から噴出しているようだった。
ああ、とリリムは納得する。使ったことはないが、存在は知っている聖片だ。「カメラ」と同じく超高価な、貴族でもなければお目にかかることすらできない――その名を、「コンロ」と言う。
「ふんふ~ん……あっ、いけない! あの子の好きなもの、聞きそびれちゃったわね。うーん、また起こしちゃうのは悪いし……肉じゃがでいいかしら? いいわよね、いつもみんな喜んでくれるもの」
独り言を連発しながら、少女は棚から食材や包丁を取り出し、トントンと野菜を切り始めた。隣では何も載っていないコンロが小さな火を吹き出し続けている。まだ作動させなくてよかったのでは、と思うが、料理を始める前に薪に火をつけておくのと同じかもしれない。何か意味があるのだろう。
「……あら? もしかして、まだ火は出さなくてよかったのかしら?」
特に意味はないんかい。
ツッコミが口から飛び出すのを必死に堪えた。