水牢 Ⅲ
それから、数十分。
「どうだった?」
「ダメだ、見つからねえ」
二人とも肌が乾いたところで、フィンは雫型の空間を調べ始めた。今も変わらず雫の頂点から水が流れ落ちてきているのに地底湖の水位が上昇していないということは、どこかに水が流れ出している場所があるということだ。それを探して外壁沿いを一周飛んで帰ってきたフィンは、肩を竦めて首を振った。
「となると、水中か……うーん」
「こ、ココナ、ささささみい」
「あ、ごめん」
風のない場所でも、空気を切って空を飛べば風に当たるのと同じだ。震えるフィンの体を抱きしめて温めながら、服が乾くまでは何度も繰り返せる手ではないな、と思う。
「う~……お前、体あったけぇな~。姉ちゃんみてえだ」
「そ、そう? フィンの体が冷えてるんだよ。ボクはここでずっと縮こまってたから……」
そう言いつつ、実は練気術で少し体温を上げていたりする。気の循環路から少し気を溢れさせると熱エネルギーが生まれるのだ。加減を誤れば筋肉や内臓を焼いてしまうし、同時に他の練気術を使えなくなってしまうデメリットもあるが、こういう時は便利な小技である。
ちなみに練気術の教科書には載っていない、ナツキオリジナルの技でもある。雪山でトスカナの湯たんぽがわりにされているペフィロを見て思いついたのだ。トスカナにも教えたかったが、練気術に熟達していなければ危険な技だとゴルグに止められてしまった。
「さて……どうしよっか。このままだとボク達、ここで死んじゃうわけだけど」
「平然と言うなよ……ま、とりあえずは腹ごしらえだな」
「へ?」
「腹が減ってちゃなんもできねえからな! ほら見とけ、もうそろそろだぞ」
「な、何が!?」
ナツキから体を離し、フィンは自分のおなかを指さした。程よく引き締まった腹筋が見える。その三秒後、――くきゅるるるる、と可愛い音が鳴った。
「な!」
「う、うん……見事なお腹の音だね」
「ははっ、んなとこ褒めても何も出ねえって」
恥ずかしげもなくけらけらと笑いながら、フィンは何やら得意げにお腹をぺちぺちと叩く。確かに起きてから何も食べずにここまで来ているので、ナツキもお腹は空いている。しかし……
「そうは言ってもボク、何も持ってきてないよ。フィンだって……」
「なんだよ、食いもんならそこに山ほどあんだろ?」
「え?」
クイッと親指で指さしたのは、背後の地底湖だ。それはつまり――
「……正気?」
☆ ☆ ☆
「やあ同胞、獲物の様子はどうだい?」
「《蝙蝠》……えぇ、いいところに来ましたねえ! ご覧なさい、奴らの無駄な足掻きを!」
暗く狭い部屋の壁に、ディスプレイの明かりが並んでいる。それらに映し出されているのは、ぼんやりと緑色に照らされた円形の地底湖の様子だ。
「ん……? 足場があるじゃないか。あれじゃうなぎは手も足も出ないよ」
「馬鹿ですねぇ、うなぎには手も足もありませんよぉ!」
「いや……、珍しくずいぶん上機嫌だね」
地底湖の中心からやや離れた位置に島のように存在する、小さな岩場。そこには裸の少女が二人立っている。
「あのうなぎに少しづつ体を食われながら溺れ死ぬところを観劇するんじゃなかったのかい?」
「えぇ、そのつもりですよぉ? ですがねぇ、単に湖に突き落とすだけでは芸がないというもの……えぇ、絶望とは希望あってこそ輝くのですから」
「ふぅん……なるほど、君はマルコヴナ氏の同類というわけか」
少女二人は何かを話し合っていたが、やがて片方が湖に向けて剣を構えた。もう片方は翼を広げて飛び上がり、湖の上空でホバリングする。
「あんなクズと一緒にしないでいただきたいですねぇ。というか……ペルニコフの一派と取引したということは、奴もここに来るんですかねぇ?」
「いや、彼は死んだよ。アントン氏とまとめて、天使の雫に返り討ちに遭ってね」
「ほほう? ペルニコフの奴、ずいぶんと危険な橋を渡ろうとしたようですねぇ。えぇ、渡れなかったようですが」
「その橋が危険どころじゃない、蜘蛛糸の綱渡りだって情報を、僕が教えなかったからね。本当ならペルニコフ氏も脱落しておいて欲しかったんだけど……彼は逃げ切ったよ。そのうち来るんじゃないかな」
少女が剣を勢いよく振り下ろすと、まるで見えない扇が叩きつけられたかのように水面が波打ち、水が上空へ跳ね上がった。その中に混じっている白いうなぎを、飛んでいる少女がすかさず回収しては岩場に投げる。
「それで……これは一体、何をしているんだい?」
「漁ですねぇ。えぇ、例のうなぎは食用のユキウナギの近縁種ですから。寄生虫リスクも少ないですし、締めれば食べられますよぉ」
「それは知って……まさか、『うなぎに体を食わせる』って、そういうことかい?」
「さて、どうでしょう。そんな終わり方ではいささか面白みに欠けますが……」
飛んでいた少女が、地に落ちてビチビチと跳ねるうなぎをつまみ上げ、頭から口にくわえる。剣を持っていた少女が慌てて止めようとするが、そのまま丸ごと飲み込んでしまった。うなぎの踊り食いとは、なかなかの嚥下力だ――と何も知らない人間なら感心するところだろう。
「エネルギー補給のつもりなんでしょうねぇ。えぇ、今日一日、愉しませてもらうとしましょうか……ふふふ」
「……。あんまり遊びすぎて逃げられないようにしなよ?」
「逃げられる? 何を言うかと思えば……あの水牢に出口はありませんよぉ? 海抜マイナス50メートル、壁や天井の破壊での脱出は不可能! 水の排出口は水底の一箇所、その先のシャッターはこちらで操作できるんですからねぇ! しかも――」
「分かった分かった。僕の方も万が一の備えはもう万全だからね、好きにするといいよ」
ディスプレイを凝視しながら、《祭司》はニチャアと愉悦の笑みを浮かべる。傍から見れば全裸の幼女を見て興奮している変態にしか見えないが、彼の感じている愉悦はもっと狂気に満ちたものだ。仕事でもなければ絶対に関わり合いになりたくない男だ、と《蝙蝠》は内心で唾を吐いたが――自分も負けず劣らず狂っている自覚のある彼は、何も言わずに肩を竦めた。
☆ ☆ ☆
「フィン、生は危ないって……あぁー!」
「んくっ……なんだよ、大げさだな」
水に落ちるときの減速に使ったのと同じ要領でナツキが風を起こし、水を巻き上げる。巻き込まれたうなぎをフィンが回収する。フィンの発案によるうなぎ漁は成功したが、捕ったうなぎを調理する術がないな、と思っていたナツキの前で、フィンは生きたうなぎを丸のまま飲み込んでしまった。
「踊り食いってやつだ。知らねーのか?」
「知ってるけど、うなぎって確か血に毒があるんだよ! それに寄生虫とかいるかも……」
「おっ見ろよココナ、腹ん中で跳ねてるぜ!」
「聞いてってば! あと外から見ても分かんないよ!」
というか踊り食いというのはかなり小さな魚が対象だったはずだ。全長30センチ以上はありそうなうなぎを飲み込むのは、もはや食事ではなく曲芸の類である。よくすんなり飲み込めたものだ。
「心配しなくて大丈夫だぜ、その辺の川に泳いでるヤツ何度も食ったことあっからよ。こりゃユキウナギっつってな、生で食えるうなぎなんだよ」
「えぇ、そんな都合のいい話ある……?」
「おう、ギフティアだって毒には勝てねーからな、戦いに出る前に食えるもんとその食い方はちゃんとハカセに習ってんだぜ」
「うーん……」
しかし、ここから脱出する方法が全く分からない以上、長期戦になることを考えると何か食べておいたほうがいいのは確かだ。カロリーと水分がなければ低体温症まっしぐらな寒さ、侮ってはならない。
踊り食いは気が引けるが、きちんと締めてフィンに電気で焼いてもらって食べてみるか、と覚悟を決めたそのとき、
「ほらよ」
「むぐっ!?」
フィンがぬめぬめした何かを口に突っ込んできた。
いやもう、それが何かは分かっていた。うなぎだ。生きたままの。
「んん~~っ!?」
「ははっ、オレらを食いに来ただけあってめっちゃイキがいいぜ、こいつら」
呑気なことを、と思うが、確かに活きのいいうなぎだ。陸に打ち上げられてかなり経っているはずなのに、ナツキの口にくわえられて湖に戻ったかのようにくねくねと動き出した。それはにゅるりと口の奥へと入っていき――
「ん、ぐっ、っ……」
――ごくんっ。
すぐに吐き出すつもりだったのに、なぜか飲み込んでしまっていた。
うなぎの長い体が食道を滑り落ち、胃袋に入り、ぐねぐねと動き回るのを感じる。
「うぇ……何で……食べちゃった……」
「な、問題ねえだろ?」
「でも今の……食べたっていうより……」
まるで、うなぎが自分から食べられに来た、ような。
「いや……考えすぎか。フィンが何度も食べたことあるなら……少なくとも寄生生物の類じゃないはず……」
「なにぶつぶつ言ってんだ? ……お、死んだな」
フィンがおなかをさすって呟き、そのすぐ後にナツキの体内でもうなぎが動かなくなったのが分かった。ラグナには小さな木の実に擬態して獲物の体内に入り、内側から食い殺すタイプの邪悪な肉食虫がいたので警戒してしまったが、その心配はなさそうだ。
後になって思えば、このときのナツキの直感は正しかったのだろう。
自ら敵の口に飛び込み、食べても安全な魚だと思わせる。それは彼ら――ユキウナギの近縁種であるアメウナギの、種としての生存戦略の一つであった。