水牢 Ⅰ
水に呑まれ、全ての音がごうごうと激しいうねりに取って代わった。冷たさ以外に感じ取れるのは、明かり代わりの剣の柄を握る感触と、もう片方の腕で抱きとめるフィンの体温、そして咄嗟に塞いだ唇の柔らかさ。
突然のことに面食らいながらも、フィンの理解は速かった。絶対に離してなるものかとばかりにナツキの体にしがみつき、ぴったり噛み合わせた口と口の間で呼吸を交換する。この水圧下で一度でも口を離せば二度と同じ状態には戻せないと理解しているのだ。
もちろん肺の中にある酸素など大した量ではない。しかし今は一分でも長く意識を保ち続けることが重要だ。これがダクトであるならば必ず出口はあるはず。どこかに放り出されるタイミングで意識を失っていては助かる命も助からない。
吸って、吐いて、規則的なタイミングでフィンと文字通り息を合わせていく。簡単な芸当ではない。練気術で鼓動を抑え、あえて軽い《眠気》術でフィンの意識を鈍らせ、横隔膜の動きに介入、調整しているのだ。
なぜそんなことが可能なのかといえば……まあ、ラグナで経験があるからだ。思い出したくない出来事ナンバー3くらいの嫌な思い出なのだが。
徐々に苦しくなっていく。もってあと10秒か、という段階になってようやく、進行方向に光が見えた。出口だ!
――ザパァッ!
空中に放り出された感覚があった。すぐ目を見開き口を離し、《気配》術で索敵しつつ周囲状況を確認。
「ぷはっ……! これは……地底湖!?」
ダクトの出口は天井だった。そこから下向きに勢いよく射出された二人は、眼下の小さな地底湖目掛けて落ちていく。
それが地底湖だと分かるのは、壁や天井にびっしりと生えた苔のような植物が淡く発光して全体を照らしているからだ。外の光が差し込んでいるわけではない、つまり外に脱出できたわけではないことに少し落胆するが――今まず対処すべき問題は他にある。
「この速度はまずいっ……フィン、飛べる!?」
「無理だ折れちまう! ケツ引き締めろッ!」
水流に流されてきたこともあり、ダクトからの射出速度はかなりのものだった。そこに重力加速度がかかり、水に落ちるときのスピードは恐らく危険な域に入る。
水を液体だと侮ってはならない。特に今のように下半身から落ちる場合、むしろ液体だからこそ凶器となりうる。水面衝突時の水圧の逃げ道が肛門に集中し、腸が破けてしまうのだ。
フィンの端的な指示に込められた意味を、ナツキはラグナのワイバーン騎兵隊仕込みの知識から理解していたが、この速度では力を入れたところで焼け石に水だ。身体強化できるナツキはともかくフィンが危険、そう判断したナツキは剣を構えた。
「幽剣流虚の二、《扇》ッ……」
気の力が剣を通して活性化し、虚空に一瞬の擬似質量を描き出し――それを勢いよく振り下ろす!
「せぃ、やぁーっ!」
「のわっ!?」
生み出された風圧が水面を大きく押し下げ、反作用でナツキとフィンは急減速する。そのままゆっくりと着水し、押しのけられた水が戻ってくる大波に耐え――やがて世界は落ち着きを取り戻した。
「ふぃー、助かったぜ……ってお前すげーな!? どうやったら剣であんなことできんだよ?」
「あはは……秘密。それよりフィン、怪我はない?」
「ああ、なんとかな……、ん?」
ふとフィンが怪訝な声を上げ、水中を覗き込んだ。そして――サッと青ざめる。
「フィン?」
「や……ヤバい」
「え、何が……ひっ!?」
まるで亡霊でも見たかのような引きつった半笑いで固まるフィンを見て、ナツキは深く考えず同じように水中に目を落とした。
――白、白、白。真っ白なそれらは、こちらを見ていた。
ダクトを泳いでいた、白いうなぎのような魚。それが何百、何千と大群を成し、水中でぴたりと動きを止め、ナツキとフィンを見上げていた。それは警戒と様子見の眼差しであり、そして同時に――餌を見つけた喜びの眼差しでもあった。
「……っ」
一瞬の静寂。
うなぎの漁獲量が減っていると嘆いていた《水龍軒》の大将の姿と、鱧のように真っ白なうなぎ寿司をふと思い出し――次の瞬間、それらは一斉に動き出した。
「うおおおおぁぁあっ!? クソ来んな来んな気持ち悪ぃ!」
「フィンこっち! あそこに足場がある!」
さながら巨大イソギンチャクの触手のように襲いくるうなぎの群れ。体に絡みつこうとしてくるのをどうにかこうにか振り払いながら、ナツキとフィンは全速力で泳いだ。目標地点は地底湖の中央、小さな岩の出っ張りだ。相手は所詮魚、いかに大量にいようと陸に上がってしまえばこっちのものである。
息を切らしながら岩に這い上がり、足に絡みついていた数匹のうなぎを振りほどいて投げ捨て、遅れてやってきたフィンの手を掴んで引っ張り上げる。フィンの体を捉えていた多数のうなぎは、空気に晒され慌てて水中へ逃げていった。
「サンキュ、助かったぜ……」
「危機は去った……かな?」
「とりあえずは、な。でもよ……」
フィンが周囲を見渡し、眉を寄せる。
光る苔にぼんやり照らされた、縦方向に細長いしずく型の空間だ。頂点には先程落ちてきたダクトの出口があり、今も大量の水が滝のように注ぎ込んでいる。ナツキ達のいる高さは直径50メートルほどの円形で、端から端まで水が張っており、足場は今二人がいるこの小さな岩場だけだ。
そして――ここから視認できる範囲に、この空間から外へ繋がる口は見当たらない。
「さっきのアレが罠なら……罠にかかったオレ達を逃がすわけがねえ、か」
「なんなら生かしておく必要もないんだろうね。ダクトを抜けるまでに気を失ってたら、ボク達二人ともうなぎの餌だったよ」
「ふざけやがって……!」
罠を張ったのはリリムを攫ったローレライだろう。ターゲットは無傷でリリースするが、正体を暴こうとする者には容赦しないというわけだ。
「どうにかして脱出しねえ、と……出口を探し、へ、ふぇ、へくしゅっ!」
大きなくしゃみが空間に反響する。日の差さない洞窟内、気温はかなり低い。その条件だけ見れば裏街の他のエリアと同じだが、明らかにここは他と比べて寒い。人が生活しているエリアでは何らかの暖房システムが働いていたのだろう。
しかも水に落ちたことで、濡れた服を通して体の熱が奪われ続けている。このままでは二人とも低体温症で衰弱死まっしぐらだ。
「フィン、ダメだ……まず体制を整えよう。服を乾かさないと」
「クソッ……そうだな……」
フィンは頷き、すぐに服を脱ぎ始めた。散々アイシャやにー子と一緒に風呂に入っていたせいか、あるいは幼女化の影響か、もうその程度では何とも思わなくなっている自分がいる。
しかしフィンの精神年齢は20歳だという。アイシャと比べてもかなり高いが……
「フィン、いつも人前で気軽に服脱いでたりしない? 大丈夫?」
「は!? んなわけねえだろ!? ギフティア行動原則でダメって言われてることするわけねえよ」
「あー……あるんだ、ギフティア行動原則」
「おう。……あ、今は周りにオスの人間はいねえし、それに星に還らねえようにすることの方が優先だから、何も問題ねえぜ!」
首から提げているペンダント以外の全てを脱ぎ去り、腰に手をあてて平たい胸を張り、背の翼を大きく広げ、フィンは堂々とそう答えた。……20年生きてきてこれでは、アイシャやハロに羞恥心を芽生えさせるのは絶望的かもしれない。
「てかココナも早く脱げよ、さみいよ」
「え、あ、うん……?」
別にこちらが脱いでもフィンの体は温まらないはずだが、と訝しみつつナツキもセーラーワンピースを脱いでいく。昨日ずぶ濡れになったのが乾いたばかりだったというのに、また元通りだ。
服を干せるような竿などないので、岩場の出っ張りに広げて被せる。メルクが封印されているロケットペンダントを外して引っ掛け、体に張り付く下着のシャツをバンザイ脱ぎでキャストオフ。冷たい空気が湿った肌を撫で、鳥肌が立った。
「…………」
「あの……フィン? なんでずっと見てるの……?」
「あ? いや、人間の子供の体って見たことなくてよ……本当にオレ達と変わんねえんだなって。何で神サマは全然別のモノを同じ見た目で作ったんだろうな。紛らわしくねえか?」
そう言って首を傾げるフィンは、純粋に疑問に思っているようだった。
全然別のモノなんかじゃないよ、と答えようと口を開きながら、最後に残った靴下を脱ぎ終わり、
「よし! 早くあったまろうぜ」
「え」
いつの間にか目の前に来ていたフィンに真正面から抱きしめられた。
細く凹凸の少ない体。アイシャほど骨ばってはおらず、にー子やハロほどぷにぷにではない、引き締まった健康的な柔らかさ――
「いやちょっ、フィン!? 何してるの!?」
「あ? 何ってそりゃ、このままじゃ凍えちまうだろ? ココナももっとくっつけって。なんだっけな、共鳴石がどうのこうので熱が逃げにくくなるってハカセが」
「表面積ね、じゃなくて、その……やっぱり、恥ずかしいとか思わないの? 他人と裸で体を密着させるのって、一般的には結構……その、倫理的な問題が……」
「ふーん……人間の価値観ってやつか? 変なとこにこだわるんだな。オレは別に恥ずかしくはねえけど……やめたほうがいいか?」
「いや……大丈夫。命の方が大事」
フィンの言うとおり、空気に触れる表面積を減らすのは凍死対策として有効だ。今は非常時、モラルだの何だのに振り回されるべきではない。
ナツキはフィンの背中に腕を回し、強く抱きしめ返した。足を絡ませ、腹を密着させ、胸を押し付け――るのを何か固いものに阻まれた。
「あ、いけね」
フィンが首から提げているペンダントが挟まっていた。慌ててフィンがそれを持ち上げるのを見ながら、もしどちらかが巨乳なら谷間に収納できたかもな、などと考えたりした。
「そのペンダント、えっと……聞いていいのか分からないけど……誰かの形見とか?」
「ああいや、そういうのじゃ……」
フィンは一度否定しかけたが、暫し何かを逡巡するように黙り、
「いや……もう、形見になっちまってるのかもな」
一言、寂しそうにそう呟いた。
誰の、とは聞けなかった。