ビンカン
「ハロちゃんっ!!」
ペルニコフの気配が完全に去ったのを確認し、アイシャは背後のハロに駆け寄った。
「アイシャ、お姉ちゃん……うぅ……っ」
「すぐ止血するのです!」
どくどくと腕から真っ赤な血を溢れさせながらも、ハロは立ち上がっており、さらに気絶したニーコを背後に庇っていた。アイシャの顔を見て安心したのか、ふらりと倒れそうになるのを慌てて抱きとめる。
不甲斐ない、と歯を食いしばる。二人を守るのは自分の役目だったはずだ。それなのに……
「ごめんなさい……ごめんなさいです、ハロちゃん、ニーコちゃん……」
「えへ、へ……ちがうよ、アイシャお姉ちゃんは、わるくな、いよ……」
「でも……っ!」
部屋の隅に置いてあったフーデッドローブを引き裂き、ハロの二の腕を縛って止血する。
「ぁ、ぐ……お姉ちゃ、いだ、ぃっ、ひぅ……」
傷の近くを強く締め付けられる痛みにハロが辛そうに喘ぎ、涙をこぼす。それがまたアイシャの心を抉る。ハロは戦闘用に調整され訓練を受けたドールとは違い、痛みに対する耐性は人間の子供と同程度――ほぼ0なのだ。
「……っ」
ニーコを起こして異能を使ってもらうべきだ。確かナツキが、気絶している人を叩き起こす練気術があると言っていた。しかし……文字通り魂を強く叩いて無理やり起こすようなものなので、身体に負担もかかるし、制御を誤ると逆に昏睡させてしまう難しい術だとも言っていた。
(わたしにできるです? こんな、未熟なわたしに……)
……できない。天使の力を借りて、それでも届かなかったところを謎の力に助けられて、虎の威を借り続けてどうにかその場を乗り切っただけの自分に、ナツキが難しいと言うほどの術を使えるとは思えない。
ならどうする? ニーコが自然に起きるか、ナツキが戻ってくるのを待つ? こんな簡単な止血をしただけの状態で、ハロの身体はそれまでもつのか? ……分からない。非戦闘用ラクリマがどれだけの傷を受けたらどのくらいで星に還るかなんて考えたこともない。
「うぅ……っ!?」
その瞬間、アイシャの《気配》術が複数の意識を捉えた。少し遅れてドタドタと大きな足音。まさか新たな敵か、こんな時に!
「……アイシャお姉ちゃん……」
「はい……分かってるです」
アイオーンを手に取り、立ち上がる。膝がかくんと折れそうになった。もう自分の身体も限界らしい。鉄仮面との戦いで無茶な動きをし続けたせいか、はたまた天使の力の反動か――それでも戦わなければ、と刃を部屋の入口に向け、
「みんな、無事……うっ!?」
「おい……おい、こりゃあ……嬢ちゃん達は!?」
「あそこだ! 安心しろ、俺たちだ!」
「……! ハロちゃん怪我してる! ローグ、救急箱!」
「取ってくる!」
駆け込んできた《モンキーズ》の5人の姿を見て、アイシャを支えていた根性の糸はついに切れた。アイオーンを取り落とし、足の力が抜け、
「アイシャちゃん!」「おい、しっかり――」
駆け寄ってくるルンとラッカの声を最後に、意識を手放した。
☆ ☆ ☆
「――で、エアダクトの縁にメスが刺さってんのは俺も確認した。間違いねえ、リリムの嬢ちゃんの得物だ」
「そうか……内部の調査は」
「レイニーが先行偵察に行ってる。あんたの部下を数人と、いくつか備品を借りさせてもらったが、構わねえよな?」
「もちろんだ。だがエアダクトか……見取り図があるはずだ、探してくらぁ」
「ちょ待ておやっさん、安静にしてろって! 《自治区》の連中に襲われたんだろ? あのおやっさんを気絶させるなんて……」
「相手もずいぶん手練だね、用心しないと……。あ、見取り図は僕が取ってくるよ。資料室?」
「ああ……助かる。だが資料室じゃねぇな、たしか俺様の部屋の――」
次に目を覚ましたとき、最初に聞こえてきたのは少し遠くの喧騒だった。よく知った声が焦燥感をもって飛び交っている。
そうだ、寝ている場合じゃない。早く起きて、ハロとニーコを守らなければ――
(いや……きっとそんな必要ないのです)
そうだ、《モンキーズ》が戻ってきたのだから、ナツキだって戻ってきているはずだ。リリムは見つかったのだろうか。騒がしいし、まだ見つかっていなくて会議中なのかもしれないが、ナツキがいるならきっと大丈夫だ。自分の出る幕なんてないだろう。まだ目を開ける必要はない。
……なぜ自分は、目覚めることを拒んでいるのだろう。
ああ、そうか。考えるまでもない、怖いのだ。二人を守りきれなかったことで失望され、叱責の目を向けられることが。何より、二人やナツキに合わせる顔がなかった。今はまだ、このやわらかい温もりの中にいたかった。
……やわらかい温もり?
「ニーコちゃん、どう?」
「にぅ……もうはいらない……」
「そっかー。でも起きないね、アイシャお姉ちゃん」
言葉に合わせて、両頬に熱い吐息を感じる。両腕が何かやわらかいものにホールドされて動かせない……どうやらニーコとハロにしがみつかれているようだ。
ニーコが目を覚ましたならハロの怪我も治っているだろう。今はきっと治癒の異能を使ってアイシャを目覚めさせようとしてくれているのだ。自分の不甲斐なさのせいでこれ以上心配をかけるわけにはいかない、そろそろ……
「あっそうだ、いいこと思いついた!」
「なぅ?」
「あのね、ムースお姉ちゃんが一発で飛びおきるヒデンのワザがあってね……」
――はむっ。
「はにゃぅんっ……!?」
忌印の方の耳を甘噛みされ、思わず身体が跳ねた。
「にぁ! あいしゃおきた!」
「ふごいれひょ! ほーやってもぐもぐひへるほ……」
「あっ、んっ、やめ、んにゃぁ、ぁあっ……お、起きた、起きたですっ、だからっ、はぅんっ……」
片耳を根元までくわえられてもぐもぐされ、抵抗しようにも両腕をホールドされていて動けず、アイシャは涙ながらに懇願した。しかしその様子を面白がったハロはしばらく解放してくれず、何も分かっていなさそうなニーコも首を傾げて耳をぴこぴこさせているだけで――
「ふにゃぁぁぁぁあぁあぁ……っ……」
やがて声に気づいてルンが駆けつけてくれるまで、無邪気な耳責めは続いたのだった。
「うっ……ぐすっ、うぅぅっ……ハロちゃん、ひどいのです……っ」
「ご、ごめんなさい……あのね、ムースお姉ちゃんとなんか、声がちがって……おもしろかったから……」
「ん~、たぶんそのムースちゃんは~フェリス種じゃないよね~?」
「う、うん……ウルス種だよ」
ルンは嗚咽を上げるアイシャの頭を優しく撫でながら、ハロを諭してくれた。話題に上がっているムースは、チューデント工房で最初にカイに紹介されたクマ耳のラクリマで、ハロのことを先輩と慕っていた剣マニアの子だ。
「フェリス種のラクリマはね~、忌印の耳が敏感だから~」
「ビンカンってなに……?」
「ん、んん~……えっと~、ペロワ種だと確か~……ハロちゃん、おなか見せてみて~?」
「おなか? わかった!」
ハロはオーバーオールの肩紐を外し、中のシャツを捲り上げた。そこに躊躇はなかった。しかし、
「撫でてもいい~?」
「えっ? う、うーん……」
ルンのその質問には渋面を返した。しばらく考え、
「……ルンお姉ちゃんはだめ。カイお兄ちゃんとナツキお姉ちゃんはいいけど……アイシャお姉ちゃんとニーコちゃんは……うぅ、ちょ、ちょっとだけなら……いいよ。でもね、おへそはさわっちゃだめ……」
いつになくもじもじとしながら、俯きがちにそんな答えを返した。ただおなかを撫でられることの何が問題なのか、とアイシャは首を捻る。
「ね、そうなるでしょ~? アーちゃんの耳も、大体似たような感じなんだよ~」
「え……そうなの!?」
「あ、あの……はいです? あんまり触られたくない部分ではある……のです……わっ!?」
アイシャが答えるや否や、ハロはその場に仰向けにひっくり返った。おなかを丸出しにして決死の表情で曰く、
「ごめんなさい! アイシャお姉ちゃんはハロのおなかいっぱいなでていいよ!」
「ふぇっ!? えっ!?」
「で、でもっ……やさしくなでてね……? おねがい……」
捲り上げたシャツの裾をぎゅっと握りしめ、ハロは少し涙ぐんだ目でアイシャを見つめた。その瞬間、なぜかきゅっと喉が詰まるような感覚に襲われた。
「は、わぅ……えっと……じゃあちょっとだけ……」
つるんとした肌に手を伸ばす。なぜだか自分の心臓の鼓動が速くなっている。なにかいけないことをしているような気がする。これが耳を散々もぐもぐされた仕返しになると言うのなら、ハロも先程のアイシャと同じようになってしまうのだろうか。……少し見てみたい気もする。指先を伸ばし、やわらかそうな肌に触れるか触れないかのところで、ハロがぎゅっと目をつむるのが見え、トクンとひとつ鼓動が跳ね――
「はっ……! ちょ、ストップストップ~! 不純、不純な関係はだめだよ~!」
我に返ったルンが真っ赤になって止めに入り、アイシャはハロのおなかを撫でられずに終わった。
今の変な気持ちは何だったんだろう、という疑問が脳内で渦を巻き、目を覚ます直前に悶々と考えていた暗い蟠りはどこかに引っ込んでしまっていた。いや、引っ込めてはいけない、ちゃんと対処しないといけない気持ちだったはずだが――
「そ、そうだ~、アーちゃん達も、動けそうならこっち来てね~。リリムとナーちゃんの救出作戦を~、立てなきゃいけないから~」
そのルンの台詞で、今度こそ全てが引っ込んでしまった。