Lhagna/π - 黄昏の封光晶 Ⅰ
「わたし、ファーストキスだってまだなんですからっ! せんぱいのためにとってあるんですからぁっ!」
「お、落ち着きたまえトスカナ、何に怒っているのかよく分からないが、騒ぎを起こすのはまずい。あとキスならぼくと――」
「もう後の祭りですし、人工呼吸はノーカンですっ! ま、ま、魔王のこっ、こど……う、うぅ、ぅ……」
魔法で宿の一角を綺麗に吹き飛ばしたトスカナは、なにやらよく分からないことを叫んで泣きだしてしまった。この部屋が上階の角部屋で、隣はフィリアが取っていたので、無関係な人に被害は出ていないはずだが――宿の外の通りにはすでに野次馬が集まってきている。
「トスカナ、きみと魔王は生殖行為を経ていないのだから、当然の帰結として、子供ができることはないぞ。そもそもDNAが……」
「当たり前です、うるさいですっ! その口縫われたいんですか!?」
「おおぅ……いつになくバイオレンスだ」
トスカナが壊れてしまった直接的な原因は部屋に飛び込んできた兵士の発言であり、トスカナが怒るに至った論理はペフィロにはよく分からなかった。しかしその高性能AIは、諸々の状況、当事者達の反応の様子から、本当に根本的な原因が誰であるかを瞬時に弾き出した。
「おい、フィリア……いや」
そして、その正体が誰であるかは、信じがたくはあるが――演算するまでもなく明らかだった。
「魔王アルルゼール、なんとかしたまえ。二度もトスカナを泣かした罪は重いぞ」
「二度も!? 魔王様、一体何を――」
「余計なことを言うななのだー! 一回目は仲直りしたし、今回は我のせいじゃないのだ、……ないはずなのだ。多分……違うのだ?」
おろおろと涙目で狼狽える幼女に、兵士たちの冷たい視線が降り注ぐ。
「あ、あんまりなのだ……何でこうなるのだ……我はただ、ちょっと散歩に出ただけなのに……」
「仕事を放り出して3日も国外を逃げ回るのを散歩とは、ずいぶん大きく出ましたな、魔王様!?」
「だって無理なのだ! 今の我の頭じゃあんな難しい書類は処理できないのだー!」
「じゃあちゃんと勉強して、早く元のお姿に戻れる魔法を開発してくださいよ! 魔王なんでしょう!? というかあれは書類ではなく計算ドリルです! 昨日が期限の歴史の宿題は終わってるんでしょうね!?」
「ぅ……うっ……うわぁぁぁあああーん!!」
その日、アルルゼール魔煌国の城下町で悲痛な幼女の泣き声を耳にした国民は皆、一瞬だけ作業の手を止め、足を止め、思ったという。
――またか、と。
☆ ☆ ☆
「せ、せんぱいが……」
「魔王を幼女にした……?」
「呆れたのだ……。貴様ら、本当にナツキから何も聞いてないのだ?」
一時間後、魔王城・謁見の間。
ペフィロとトスカナは、巨大な玉座にちょこんと座って足をぷらぷらさせる幼女に呆れ顔で溜息をつかれていた。
「というか頭が高いのだ、今の我はかわいいフィリアちゃんではなく魔王なのだ。跪け愚民共、なのだ」
この幼女こそがかつて勇者パーティと死闘を繰り広げた魔王、アルルゼール=パステリアなのだ――と言われても、はいそうですかと頷ける人間はヴィスタリアにはまずいない。事実としてなんとか飲み込んだペフィロですら、いまだに何かの陰謀を疑っていた。
一方、魔王であることは早々に受け入れたトスカナは――大変不機嫌になっていた。
「えっちな魔王に下げる頭も着く膝もありませんっ! さっきはなんとなくスルーしちゃいましたが、わたしとペフィロちゃんの裸を見たこと、許してませんからね!?」「いや、ぼくはべつに」「ペフィロちゃんは黙っててください!」
「何を言っておるのだ……13と、700なのだろ? 足し合わせても我の……えーと、我の半分も生きておらん小娘に欲情するほど落ちぶれてはいな痛ぁっ!?」
「四則演算ができるようになったのはご立派ですが、そういうことではないのです、我が主よ」
魔王の側に控えていた側近らしき男が、神妙な顔で魔王の頭にチョップを落とした。ゴン、という割と容赦のない音が響いた。
「き、きしゃま……痛かったぞ……」
「防御力も下がってますね……体育の時間を早朝に一コマ増やしましょうか」
「やめるのだ! 我が悪かったのだ!」
騒がしい魔族二人を眺めながら、ペフィロはかつて対峙した魔王アルルゼールの姿を思い返す。
2000を優に超える年月を生きているとされる、魔族の中の魔族。性別は男。身長は3メートル以上、顔は凶悪、ひと睨みされるだけで血色の稲妻が場に駆け巡る。常にどす黒いオーラをまとっており、何も対策しなければ物理攻撃も魔法も無効化される。あらゆる属性の魔法を使いこなし、ラグナの魔法技術では未解明の魔族特有の魔法はもちろん、他の魔族には使えない強大な固有魔法をも操る。
特に厄介なのが、枯死の魔法だ。彼の放つどす黒いエネルギービームにひとたび触れれば、あらゆる草木は枯れ果て、生物は干からび骨になり、無生物すら数秒で全てが砂に還る。
――今目の前で部下に叱られている幼女があの魔王だったなどとは到底思えない。しかし彼女、あるいは彼が嘘を言っているようにも見えなかった。
「ええい、話が進まんのだ! もともと勇者に礼儀なんか求めてないのだ、そこに突っ立ってろなのだ」
「……。まあ、いいです。それで、何がどうしたらせんぱいが魔王を女の子に変えちゃうようなことになるんですか」
「それは我が聞きたいのだ! 我はただ、ナツキの隙を狙って必殺の枯死魔法を放っただけなのだ!」
「せんぱいに……枯死魔法を?」
「ひっ」
ナツキに最悪の魔法を放ったという事実に怒りを抑えきれず、ゆらぁ、とトスカナが一歩前に出る。アルルゼールは玉座から転がり落ち、慌ててその裏に隠れて顔だけを出した。
「め、命中したはずだったのだ。なのに……魔法が真っ白になって跳ね返ってきたのだ!」
「真っ白に?」
「なのだ! それで、気がついたら……こんな体に……」
アルルゼールは自身の小さく平坦な体を見下ろし、しょんぼりと項垂れた。その様子はもはや勇者をして憐憫の情を抱かせるもので、トスカナも責めあぐねて微妙な表情になっている。
「……縮んでしまったきみを見て、ナツキは?」
「たっぷり一分くらいは沈黙して……剣を下ろしたのだ。正直、あれほど安堵したことはないのだ……。死の間際に立っている恐怖で体が震えるなんて、400年以上ぶりだったのだ……」
「ああ……」
実際にその場にいなくとも、アルルゼールの語るその状況は容易に想像がついた。ナツキは震え怯える幼女に剣を向けられるような人間ではないのだ。一分の沈黙は魔王の策略を疑っていたのだろう。そしてどうやら演技ではないと分かり、しょうがないな、と刃を収めたのだろう。
「こんな姿になって威厳も力も失った我では、貴様ら勇者に勝てるわけがないのだ。本当なら今は帝国にとっては格好の攻めどきで、現場指揮官が勝手に結んだ停戦なんてさっさと破棄して攻め入ってくるのが普通なのだ。そうならずに済んでいるのは……ナツキのおかげなのだ。奴は話のわかる男だったのだ」
「あっ、まさか、せんぱいが言ってた『男と男の約束』って……」
「我の幼女化を秘密にすること、なのだ。引き換えに我は、元の姿に戻れてもこちらから帝国に報復攻撃をしないことを誓わされたのだ。まさか貴様らにも秘密にしているとは思わなかったのだが……きっと我の尊厳を守ろうとしてくれたのだ」
戦いのあと魔王についてナツキは、「いい相手だった」「魔王軍に転生してればいい友達になれたかもな」「案外尊敬できるタイプの男だぜ、あれは」などと嘯いていた。戦闘の中で友情でも芽生えたのだろうか。
しかし今の魔王を見ている限り、ナツキの評はどうも……
「えと、今の魔王、尊厳なんてとっくになくないですか? 学院の一年次の生徒だって宿題くらいやってきますよ」
「なっ!?」
「ちょ、トスカナ、このぼくが配慮して言わずにいたことを……」
「いえもっと言ってやってください、今の魔王様は自堕落が過ぎます」
「き、貴様ら、言わせておけば……」
ここまで静かに控えていた側近にまで追撃され、アルルゼールはわなわなと震えだし、
「元はと言えば貴様らのせいなのだ! どうやって枯死魔法を反射して、我をこんな姿にしたのか……責任を取って洗いざらい白状するのだ! ナツキは知らなかったのだ、貴様らが何か知ってるはずなのだ!」
逆ギレである。
そう言われても、とトスカナとペフィロは顔を見合せた。
「えと……たしかペフィロちゃん、せんぱいに魔法反射結界張ってましたよね?」
「う、うむ……しかしぼくの結界はただ反射するだけで、魔法の性質は変わらないはずだぞ。枯死魔法を反射したところで魔王には効かないはずだ。きみこそあれこれ支援魔法をかけてやったんだろう?」
「はい、でも……わたしがせんぱいにかけた魔法は継続回復、敏捷強化、重力無視、氷結外装、炎熱外装、あと耐性系をいくつか……普段使ってないものはかけてないはずです。ゴルグさんは《活気》術で、エクセルは……」
「彼は剣を刻印しているように見えたぞ。彼の得意分野からして、光属性と雷属性の恒久付与だろう」
「うーん……関係なさそうですね」
「ま、待て! ちょっと待つのだ!」
首を捻る二人に対し、アルルゼールは何やら慌てたように玉座の影から飛び出してきた。
「貴様ら……そんなに多くの種類のマナを、一度にナツキの身体に通したのだ……?」
「え? えと、そうですけど……」
「いや、エクセルノースが触れたのは剣だぞ」
「同じことなのだ! 奴は自身の魂を剣に通していたのだ……」
わなわなと震え、信じ難いものと対峙しているかのようにトスカナとペフィロを見上げる。
「貴様ら……習わなかったのだ? ヒトの身体は本来、他人が活性化したLx……マナを受け入れられるようにはできていないのだ。戦闘訓練を積んで、仲間の魂の波長を充分に理解してようやく、身体への負担を支援効果が上回るのだ!」
「ふむ? ……ああ、似たようなことは転生してすぐに座学で聞いた覚えがあるな」
「そうですね、精霊魔法での支援はお互いに信頼しあってないと失敗する……とか。思えば最初何日かは大変でしたね……」
トスカナが挙げた例の他にも、いくつも重ねてかけようとすると失敗しやすいとか、相手が魔法を使っているときに別のマナの支援魔法をかけると互いに干渉してしまい危険だとか、仲間に対して魔法を使うときの注意事項は多い。
事実、勇者パーティ結成当初、帝国騎士団の指導下で連携を学んでいる間は何度も失敗をした。パーティ構成上もっとも支援を受けることになるのは前衛のナツキとゴルグで、戦闘経験豊富なゴルグはともかくナツキは散々な目に遭っていた。その度にトスカナは平謝りし、ナツキはふらふらになりながらも「気にすんな、俺がまだまだ弱っちいだけだ」と笑っていた。ペフィロも色々とやらかした記憶はあるが――あの頃は感情がかなり希薄だったせいか、あまり印象的な思い出はない。
しかしそんな怪我だらけの日々も長くは続かなかった。前世では戦ったことすらないと言っていたナツキは、すぐに剣術と練気術の基礎をマスターし、トスカナやペフィロの支援魔法を何重にでも受けられるようになった。騎士団員やゴルグはその成長の速さに驚いていたものだ。
「最初何日か!? まさか数日でその域に達したのだ!?」
「ふむ、まあナツキなら当然……」
「ですね、せんぱいですし……」
今のアルルゼールのように、ペフィロ達も最初こそその成長の速さに驚きはした。しかし魔王城を目指して旅を続ける中でも彼は凄まじい速度で戦闘技術を身につけていったので、今やもうその程度は当たり前に感じてしまうのだ。
ナイフだろうが弓だろうが、はたまたブーメランを突然手渡されたとしても、基本的な使い方さえ分かれば彼はすぐにその技術をマスターしてしまう。彼が普段剣を使っていたのは、単にたまたま練気術と相性のいい聖剣レベルの剣を手に入れたからに過ぎない。
もっともそんなナツキでも魔力回路がない以上は精霊魔法は一切使えないので、成長速度を羨むエクセルにはいつも「でもお前指からレーザービーム出せるじゃん」と不満げに返していたが。
「まさか……おい貴様ら、あの戦いでナツキにかけた魔法とその順序、できる限り詳しく教えるのだ! 元の姿に戻る鍵はきっとそこに……」
「え、嫌ですけど」「ずっと幼女のままでいたまえ」
「ぐっ……」
元の姿に戻れるかもしれない、などと言われて素直に答えるわけがなかった。世界平和のためにも魔王はずっと幼女であるべきだ。
「な……ならば取引なのだ! 貴様ら、我と話があってここまで来たのだろ? 我が貴様らの話を聞いてやる代わりに、貴様らも情報を――」
「ほう? これを見てもまだそんな強気でいられるかね?」
「何……、……は? っはあぁ!?」
ペフィロが懐から取り出したものを見て、アルルゼールは今日一番の驚愕の叫びを上げた。