ローレライの釣り針 Ⅵ
エアダクトに突入するのは、賭けではあった。そもそもダクトの途中にフィルターなどの仕切りがあれば衝突してしまうし、すぐ近くで折れ曲がっていても同様だ。
距離が稼げた分である程度の減速はできることに期待しつつ、衝撃に備えるべく気を練りながらダクトの口を通過した、次の瞬間――
「う、おっ、何だ!?」
フィンの驚きの声と共に急激に速度が落ち、飛行機が気流に捕まったかのごとくガタガタと揺れ始めた。しかしダクト内に向かい風は吹いていない。
「フィン、大丈夫!?」
「ヤバいヤバいっ、何だこれ、異能がおかしくなって――ココナ衝撃に備えろ、電磁浮遊解除ッ!」
そう叫ぶや否や、フッと突然停電したかのように、フィンが身にまとっていた寒々しい氷色の稲光が消え去った。と同時に、二人の体は重力に従って落ち始める。最初に地に着くのは当然、フィンに吊り下げられているナツキだ。
「へぶっ……ぐえっ」
「やべっ、すまんココナ!」
顔から金属のダクト壁面に衝突し、間髪入れずに背にフィンが落ちてくる。反射的にカエルのような呻き声が出たが、フィンの体重は軽く、ダメージはほぼなかった。
大慌てで謝るフィンに大丈夫だと伝えつつ、立ち上がって状況を確認する。エアダクトはナツキが立って手を挙げても上端に届かない程度には太い。進行方向を見てやや下り坂になっているが、歩くのに支障はない程度の傾斜だ。
材質は何かしらの金属。やや凹凸はあるが鉄錆のザラつきはあまり感じられない。アルミか何かでメッキしているのだろうが、海風が吹き込む塩害環境でよく腐食に耐えられているものだ。
真っ暗で何も見えないので、それ以上のことは分からない。まずは光源の確保をしたいところだが――
「フィン、異能で光源作れたりする?」
「お、おう、でき……いやダメだ、こういう狭い場所でやると空気が毒になっちまうってハカセが言ってた」
「毒? ……あ、オゾンか」
空気中の放電は酸素をオゾンに組み替えてしまう。紫外線を和らげてくれることで有益な印象のあるオゾンだが、光化学スモッグの主成分の一つでもある。人体には有毒だ。
エアダクトなのだから空気は流れているはず――なのだが、稼働していないダクトなのか、全く風を感じられない。
「何か燃やすのはもっと危険か……仕方ない、手探りで行こう」
「…………」
「フィン?」
「お……おう」
追っ手もエアダクトに登ってくるかもしれないし、急ぐに超したことはない、と足を踏み出したところで、
「ココナ……ま、待ってくれ……」
弱々しい声と共に、フィンが後ろからナツキの胴にしがみついてきた。
「ちょ、フィン!? ……まさか、どこか怪我してる!?」
「いや違くて、その……オレ、あんまこういうとこは慣れてねーっつーか」
「……もしかしてフィン、暗いの怖い?」
「っいやいやいやそんなわけねーし、全然平気だぜ? こちとら運用年数20年のベテランギフティアなんだからよ……!」
あからさまに早口になるじゃん、絶対怖いんでしょ、と茶化そうと口を開きかけ、思いとどまる。縋るようにナツキにしがみつくフィンの腕は少し震えていて、そこにそっと手のひらを重ねることで精度を上げた《気配》術で読み取れた彼女の感情は、簡単に茶化せる類の恐怖ではなかった。
「フィン……」
恐らくこれは――トラウマだ。
「……ボクが灯りを出すよ」
剣を抜き、気を通す。夜色半透明の刀身にスッと一条の茜の輝線が入り、周囲を暖かく照らした。
「っ……ココナお前、その剣……」
できればフィンには見せたくなかった、聖窩での戦いで使ったハロの剣。ナツキを捕まえろと命を受けているなら、当然武器の見た目くらいは知らされているだろう。しかしそれでも、恐怖に震えているフィンをそのままにするわけにはいかなかった。
騙された、と思っているだろうか。できれば今ここで戦いたくはないが――
「……めっちゃかっけー……」
「え?」
フィンはキラキラした目で刀身を見つめていた。
「なんだよその剣……なあどこで買ったんだ? っはー、すげぇ……」
「え……あ、えっと……専属の鍛冶師に特注、かな」
これはもしや――バレていない?
「マジかよ。いいなー人間、金貯めて好きな奴に好きなもん作ってもらえるんだもんな。まーオレらギフティアもアイオーンは異能に合わせて特注なんだけどよ、工廠の奴ら機能性しか考えてねーからダッセぇの。ロマンがねーんだよな」
「あ、あはは……うん、見た目は士気に関わるよね」
「そう、そうなんだよ! やっぱ隊長はかっこよくねーとダメだろ!?」
……どうやらセーフのようだ。《気配》術でも敵意は感じられない。
これだけまじまじと見られて気づかれないとなると、追っ手であるはずのフィンに剣の情報が渡っていないのだろうか。フィン自身が上司として口に出していたエルヴィートが最もハロの剣について熟知しているはずなのだが。
(ま、バレてないに越したことはないか)
フィンも元気になってくれた。終わりよければ全て良し、である。
深く考えるのをやめ、ナツキは歩きだした。今優先すべきは、この先に連れ去られたであろうリリムの救出だ。
エアダクトはずっと緩やかにカーブしながら下降方向に伸びていた。時折数十メートル先に人の意識を捉えるが、そちらへ向かうことはなくすぐに離れていく。人の通る道を避けて壁の中を進んでいるのだろうか。
「なげーな……どこに繋がってんだ、これ」
「ボクも分かんない……けど、ボクが探してる人がここを通ったはずなんだ。誘拐犯に攫われて……」
「ゆ、誘拐!?」
「うん、犯人はローレライって呼ばれてるんだけど――」
場を持たせがてら、ローレライについてざっくりフィンに説明していく。フィンは興味津々な様子で、時折「マジかよ……」「ひでーな……」と相槌を打ちながら眉をひそめた。正義感の強い子なんだな、と思う。
「……で、どうやって人目につかずに拠点まで運んでたのかが謎だったんだけど……もう分かったよ」
「この管を通ってたってか? でもよ、あんなたけー場所に入り口があんのに、どうやって……犯人は人間なんだろ?」
「何の準備もなしに飛べって言われたら無理だけど、相応の装備があれば翼がなくても人は飛べるよ。でも周りに気づかれないように静かにって条件だと難しいか……となると……、いや、なんでもない」
「オレみてーな飛行型ラクリマの奴隷を使ってる、か?」
フィンの前で明言するのが憚られて濁したのだが、フィンは視線で全てを理解して言葉を引き継いだ。その上で、「でもそれはねーな」と否定を返す。
「オレがさっきココナを持ち上げてずっと飛んでられたのは、異能とアイオーンがあったからだぜ。言ったろ、翼だけじゃ十秒くらいしかもたねーって」
「うーん、そっか……ていうかあの光、やっぱりアイオーンの力使ってたんだね。ごめんね、無理させて」
「心配すんなって、どうせあいつらから逃げんのに使いまくってたし……ま、そろそろ残量危ねーから節約はしねーとなんだけどな」
「っ……!」
残量。この文脈でその言葉が指すのはただ一つ、寿命残量のことだ。
「まだオレは……星に還るわけにはいかねーからな」
ぎゅっと胸元のペンダントを握りながら、フィンは何かの決心を自分に言い聞かせるように呟く。
「……あとどれくらい残ってるかって、分かるものなの?」
「ん? ああ、自分じゃ星に還る直前まで分かんねーけど、オペレーターなら首輪から見れるぜ。こないだ発電機にされる前に2年半って言われたから、今は多分……1年ちょいってとこか」
「え、ちょっ!? い……1年ちょいって……フィンッ!」
「うぉっ、な、なんだよいきなり」
エアダクト内にいることも忘れ、思わず叫んでしまう。ナツキの怒りが管内に反響し、フィンはビクッと肩を揺らした。
「……ごめん、フィンに怒っても仕方ないのは分かってる。でも……もっと自分を大事にしてよ。なんでそんな……余命1年ちょいって分かってて、平然と……」
「なんでって……あー、そういうことか。ココナお前、いろいろ知ってんだな」
フィンはバツが悪そうに頬を掻き、初めて見る真剣な顔でナツキを見つめた。
「そりゃオレだってツラくねーわけじゃねーよ。ココナの気持ちも分かるし、それが『あるべき形』じゃねーってことも分かってるぜ。自分を正当化はしねーよ」
「だったら何で……!」
「世界を護るためにはそれしかねーんだ。なんだかんだ20年も生きてりゃ、覚悟だって決まってくる。……星に還っちまった奴らの分も、オレは背負ってる。……それじゃダメか?」
「っ……!」
いつ死んでもおかしくない環境に身を置き続け、大量の仲間の死を見届けてきた者の、戦場指揮官の覚悟というやつか。
確かにそれは、ラグナでも熟練の兵士達が時折口にしていた言葉だ。だがしかし、彼らはこうも言っていた。――それでも、死ぬのは怖い、と。
「……フィンの覚悟は分かったよ。でも約束して、無事に外に出られるまでアイオーンは使わないって。何かあったらボクがなんとかするから」
「お、おう? ……そりゃまあ、使わねーに越したことはねーけどよ、一年分もありゃそう簡単には……」
「だめ! もし本当にそのアイオーンが必要な状況になったら、起動する前にボクを呼んで。詳しく言えないけど……裏技を一つ知ってるから」
「はあ?」
「お願い」
これ以上、不必要に寿命を削らないでほしい。
フィンは訝しげだったが、ナツキが真剣な表情で見つめ続けると、根負けしたように「……分かったよ」と頷いてくれた。
「それよりココナ、アレ見ろよ」
「アレ?」
話題を変えながらフィンが指し示した先、進行方向にナツキも目を向け――剣の茜色の輝線が、正面の暗闇に反射して見えている。
「え……行き止まり!?」
「いや、こりゃあ……分かれ道だぜ。でも、変だ」
目を凝らしたフィンの言葉通り、それはT字路の突き当たりだった。
エアダクトに分岐があるのは別におかしいことではない。しかしそれは、確かに「変」だった。
「…………」
突き当たりに近づくにつれ、徐々に肌寒くなってくる。相変わらず風は吹いていない。これは水場の寒さだ。
「気をつけて、フィン。滑り落ちないように」
「おう……」
ピチャ、ピチャ……一歩足を進めるたびに水音が響く。金属の窪みに水が溜まっているのだ。ひとたび足を滑らせれば、傾斜に沿ってウォータースライダーのごとく滑り落ち続けてしまうだろう。
エアダクト内に水があるとすれば、どこかに穴が空いてしまっていると考えるのが自然だ。しかし今回の例は、そんな順当な理由で片付けられるような状態ではなかった。
「……川だぜ」
「やっぱり……」
突き当たりで合流したエアダクトには、右から左へ、傾斜に沿ってサラサラと水が流れていた。円状の断面の下15センチほどを満たす水流には、白く細長いうなぎのような魚が泳いでいた。
これはエアダクトではなく――隠された水路だ。
「ココナ……どうする? 途中に分かれ道なんかなかったよな?」
「……うん。先に進むしかない」
頷き合い、左右に走るエアダクト――もはやエアではないが――内に足を踏み入れる。流れている水に刺激臭やぬめりがないことを確認し、ザブザブと中心近くまで歩みを進め――
――ガシャン!
「「っ!?」」
大きな金属音に二人同時に振り返り、元のエアダクトとの接続口に太い鉄格子が下りているのを見た。
「ヤベーよ……罠だ!」
「引き返す! 鉄格子くらいなら剣で――」
――ガシャン!
再びの金属音。鉄格子が開いたわけではない。別の場所から聞こえた。
――ガシャン! ガシャン! ガシャシャシャシャ――
次々と、視界内外を問わず各所の鉄格子やシャッターが開閉する音が響く。それに警戒して足を止め――すぐにそれが判断ミスだと気づいた。
このエアダクトに足を踏み入れる直前、足元が濡れていた。湿っているというレベルではなく、ピチャピチャと足音がするくらいに。
しかし、近くに川があるからといって、その川よりも高い位置にある地面が濡れるのはおかしい。そんな当たり前のことに、今更気がついた。
そして、その矛盾を解決するには――簡単なことだ、その高さまで水を溜めればいい。
「……! まずい!」
「ココナ、後ろ!」
――ドドドドドド……
振り返らなくとも何が迫っているのかは分かっていた。振り返る代わりに、大きく息を吸い、立ち尽くすフィンに向けて跳んだ。
「ココ――んむっ!?」
フィンの体を抱きしめ、なにか言おうとした口を口で塞ぐ。
ゴオッと凄まじい風に煽られ、体勢を崩した次の瞬間――
――ドプン。
ダクトの断面積を全て覆う膨大な水流が、二つの小さな体を飲み込んだ。