ローレライの釣り針 Ⅴ
「…………」「うぅ……アイシャお姉ちゃん……」
「お見事です、ペルニコフ閣下」「まさニ。鮮やかダ」
――目の前の敵に集中しすぎて、《気配》術の確認を怠っていた!
きっとナツキならこんなヘマはしない。己の未熟さを叩きつけられ泣きたくなる。が……後悔している暇は無い。
「二人を放すのですッ!」
「言葉に意味などない、取り戻したくば力ずくで来い」
無慈悲にそう言い放ち、ペルニコフと呼ばれた男はニーコを抱えたままハロを雑に地面に放り捨てた。
「あぐっ……」
「ハロちゃんっ!」
鈍い音を立てて小さな体が地面を跳ね、それを騎士風の男が無造作に拾い上げる。
「閣下、この個体は情報にありませんでしたな。我々の好きにしても?」
「構わん。……む、通信か」
ペルニコフは、あろうことかアイシャに背を向け、懐から取り出した通信機で誰かと会話を始めた。あまりにも隙だらけだが、今はハロを吊るし上げて酷薄な笑みを浮かべている騎士風の男を何とかしなければならない。
「ハロちゃんに何をするつもりなのですか!」
「いやなに、勝負は対等であるべきだろう?」
騎士は腰から短剣を抜き、なんの躊躇もなくハロの二の腕に突き立てた。
「いぎっ……ぁっ!?」「ハロちゃんっ!!」
「お前が大天使の力を発揮できるよう、有り得そうな条件を試してみようと思ったのだ。……仲間が傷つけられる、はハズレらしいな」
「ぁ、ぃっ……いだっ、ぃぃ……!」
肉を抉るように短剣が捻られ、傷口から血が吹き出す。ハロは歯を食いしばりながらぽろぽろと涙を零し、縋るようにアイシャを見つめた。
「っ……わたしは天使の雫で、確かに今は力を使えないですが、条件にハロちゃんは関係ないのですッ!! だから――」
「そうか? まあ一応次も試しておこう……目の前で仲間が殺される、ならばどうか」
「ひぐっ……」「っやめ――!」
短剣が腕から抜かれ、刃がハロの首元を向く。ニーコが気絶している今、ハロもアイシャも致命傷を受ければ数秒で星に還ってしまう。凶行を阻止しようとアイシャは地面を蹴る。
「行かせヌ」「――っ!」
アイシャの行動を完全に読んでいたのだろう、一瞬早く鉄仮面がモーニングスターを振り始めていた。アイシャとハロを結ぶ直線上をちょうど鉄球が薙いでいくコース。短剣の刃がハロの首元に迫る。鉄球を回避していては間に合わない。どうすれば――!
――その瞬間、腹が凹んだ。
(……え?)
世界がスローモーションに見える。それは、集中状態で体感時間が引き伸ばされるとかそういう次元ではない、明らかな主観時間の超加速だった。
体は1ミリたりとも動かせず、声も出せない。しかし全身の感覚とそれを処理する脳は高速回転していて、気の循環路を巡る気の流れも滞っていない。ゆえにアイシャはその瞬間、昨日無意識に食べすぎたらしいオクタボが詰まっていたおなかが、一瞬で空になったことを把握できた。
懐かしい感覚。ずっと待ち望んでいた、天使による消化だ。だが、これは――
(いつもと、違う)
消化されたエネルギーは、内なる天使に供給されるのが常だった。しかし今、そのエネルギーが全て、アイシャの気の循環路に注がれているのを感じる。
いや、それも違う。これは気の循環路ではない。覚えがある、別の――《塔》の天使との戦闘中、内なる天使が謎エネルギーを通して使っていた謎の回路だ。
『――つかえるのは、2びょうだけ』
(……!)
ごくごく小さな、極限まで出力を絞った声が、必要最低限の情報をアイシャの魂に届け、消えた。
それで充分だった。何をどうすればいいのかは、理論をすっ飛ばして魂の記憶に体験として刻み込まれていた。
(2秒……)
アイシャの身体に謎の力――天使の言葉を借りれば「W波」が浸透する。世界がスローモーションに見えるのは変わらないまま、肉体が行動の自由を取り戻した。
ほとんど停止した世界で、自分だけが動いている。主観的な2秒はすでに過ぎ去っている。つまり2秒とは、元の世界の2秒を指す。主観時間は少なく見積って100倍はあるだろう。
そして理解する。聖窩で繰り広げられていた天使同士の戦いは、停止しているとき以外常に双方がこの加速状態になっていたのだと。どうりで誰に戦いの様子を聞いても「何も見えなかった」としか返ってこないわけだ。
(人間相手には……長すぎるのです)
宙に浮いている鉄球の下をくぐり抜け、短剣を奪う。そのままハロに手を伸ばしかけ、思いとどまる。今のアイシャは全ての行動が音速を軽く超えているのだ、ハロを無理やり動かせば彼女の体がもたないかもしれない。
(なら――)
ハロを吊るしている騎士の左手首の内側を短剣で切り裂き、右の二の腕に短剣を突き立て、肉を抉る。そのまま短剣の刃を中程で折り、持ち手がついているほうの刃を騎士の右目に突き立てる。
即死させずに苦しませるという、普段のアイシャならたとえ敵であっても躊躇してしまったであろう行為が、今はなぜかすんなりできた。ハロと同じ苦しみを十分長く味わってから死んでもらわなければ、とごく自然に考えた。
(解除)
世界が元に戻る。
「ぎっ――」「何ダと――」「ぇ……」
空中に投げ出されたハロを受け止め、吹き出してくる騎士の血を避け、何も無い空間を薙ぎ払った鉄球を飛び越えて距離をとる。
「ぃいぎゃぁぁあああああッ!? 腕、目ぇ、が、ぁぁあッ!?」
「ッ、何事か――」
「あい、しゃ……お姉ちゃん……」
「ハロちゃん……あとでたくさん謝るです」
「天使の雫……今、何ヲ」
(起動)
世界が再び停滞する。再起動が可能なことはなんとなく「理解」していた。しかし時間倍率が先程の半分ほどまで下がっていることに気づき、三度目は厳しいだろうと予測を立てる。恐らくタイムリミットの「2秒」を消費すればするほど本来の時間倍率に近づいていくのだ。
残るミッションは三つ。鉄仮面の排除、ペルニコフの排除、ニーコの救出だ。
「しぃぃ~~~~……タァァ~~~……」
何をした、と長い時間をかけて訝しむ鉄仮面の懐に潜り込み、「W発現波」を乗せた拳を腹に叩き込む。未知の力が鉄仮面の体組織を崩壊させ始めるのを感じ取り、結果を見ずにペルニコフへ肉薄する。ちょうど誰かとの通話を終えて振り向いたところだった彼の腕からニーコを奪い取り、ハロの位置まで跳躍してニーコを下ろし、再びペルニコフへ斬りかかる。視界の端で鉄仮面の男の腹部が弾け飛ぶのがおよそ5倍スロー程度。もうタイムリミットが近い。
「きぃさぁまぁ……ッ……」
憎悪に満ちているようで、どこか愉悦に満ちた声。この男は今まさに殺されかねない状況を愉しんでいるのだ。彼は娯楽のために「狩り」をしに来ている。そうと分かれば遠慮は無用だった。
「やぁ――っ!」
もう攻撃に使える「W波」は残っていない。時間の感覚が完全に元に戻る直前、アイシャの気と気合を込めたアイオーンが一閃、ペルニコフの右肩に届いた。その刃はそのまま、彼の体を斜めに両断する――はずだった。
――バヂィッ!
「……え」「フッ」
肩当てを切り裂き、男の肌に刀身が触れたその瞬間、紫色の火花が弾けた。……覚えのある色だ。
(アイオーン無効化の加護なのです……!?)
しまった、と思うももう遅い。エルヴィートを斬ろうとしたときと全く同じ現象が起きた。アイオーンが物理法則を無視してあらぬ方向へ跳ね飛ばされ、紫色の稲妻に縛られる。釣られてアイシャの体も浮き上がり、無防備に空中を舞う。
「我ら《自治区》、ひいては《パーティ》が《塔》に抗う組織だというのは、嘘ではない。ゆえに――」
ペルニコフが懐から無骨な拳銃を取り出し、アイシャに狙いを定め、
「敵の武器の対策方法程度、熟知している」
発射された超音速の鉛玉が、寸分違わずアイシャの胸の中央へと吸い込まれていく。
もう天使の力は尽きた。身体強化では銃弾は防げない。ニーコは気絶している。これはもう……どうしようもない。
(これで終わり……なのですか)
終わりならせめて、目は閉じずにいよう。最期まで敵を睨み続けていよう。そう決意して視線をペルニコフに向け、……そんなことができる時間が残っていることに違和感を覚える。
――時間が、再び止まっていた。
「何ッ!?」
「あぐっ……」
否、止まっているのは時間ではなかった。銃弾だけが空中に縫い止められているのだ。ペルニコフは驚愕に目を見開き、アイシャは胸を貫かれることなく地面に転がった。
銃弾はしばらく何かに抗うように震えていたが、やがて全てのエネルギーを失ったようにポトリと地に落ちた。
続けてさらに三発の弾丸が発射され、全て同じように空中で静止するのを見て、ペルニコフは銃を下ろした。
「天使の雫の力か……フン」
ペルニコフは厄介そうに眉をひそめるが、今の現象が天使の雫としての力ではないことは確かだ。しかし今ここに、銃弾を完全防御できるような力の使い手は存在しない。《気配》術にもニーコとハロの他に味方らしき反応はない。
なんだかよく分からないが、これはチャンスだ。
「……無駄なのですよ。もうあなたの攻撃はわたしに届かないのです」
謎の防壁がアイシャの力だと思われているのであれば好都合だ。さっさと諦めて帰ってくれれば御の字だ、とアイシャはハッタリをかましていく。
しかし――ペルニコフは諦めるどころか、余裕の笑みを浮かべた。
「フ、攻撃手段を封じただけで勝った気になられては困るな。貴様とて先程我が部下達を一瞬で屠った力はもう使えない様子……そのなまくらの剣一本で何が出来る?」
「……。それはあなたも同じなのです。罠にはめて不意打ちしなきゃわたしに一撃も入れられない程度のお粗末な実力で、よくもそんな大口が叩けるのですよ」
「ほう、流石は天使の雫、人間に暴言を吐くか。だが……所詮は首輪を嵌められたラクリマに過ぎないということを思い出させてやろう!」
ペルニコフは芝居がかった動きで片手を上げ、アイシャの首輪に手のひらを向ける。
「アイシャ=エク=フェリス、我が管理権限をもって厳重命令を更新する。『抵抗するな、私に服従せよ』!」
「っ……!?」
厳重命令だって!? そんな……
…………。
……いや? それは主たるオペレーターや、リモネちゃんのようなドール最高管理責任者にしか扱えないもののはずだ。何の関係もない、《塔》の人間ですらないこの男に何を言われようと痛くも痒くもない。
「……えっと?」
「ぬ? ……重ねて命ず、『武器を捨て平伏せよ』!」
「あの、何を言ってるです? 時間稼ぎなのですか? わたしにご主人様はいないのです。あなたの命令なんて聞かないのです」
「なっ……!?」
怪訝な顔でアイシャが問いかけると、ペルニコフは驚愕に目を見開いて一歩後ずさった。
「なぜ……なぜ効かぬ!? 有り得ない! 《イーター》は……起動している。ならば何だ、その首輪は飾りだとでも言うのかッ!」
「ふぇ? ……あ、はいです」
「……は!?」
首輪に指を添え、キュッと擦る。ハロが作ってくれた首輪レプリカの機能のひとつ「ぴかぴかライト」が起動し、眩い光を放ち始めた。
「見てのとおり、飾りなのですよ? ほら」
「……!?」
光る首輪を二つに割って外してみせると、ペルニコフはあんぐり口を開けて固まってしまった。アイオーン無効化結界さえなければ、今斬りかかれば勝てそうな固まりっぷりだった。
なんだか知らないが、実質的に何もしていないのにハッタリが強化された気がする。今なら……いける!
「それで……もう茶番は終わりでいいのです?」
「……え」
「もう我慢の限界なのです。今ここで死ぬか、すぐ立ち去って二度と顔を見せないか……選ばせてやるです」
ペルニコフに手のひらをゆらりと向け、《気迫》術。可能な限りの殺気を練り上げ、手のひらの一点に集中させる。一人でこっそり練習していたのだが、まだまだ出力はナツキのそれには遠く及ばないし、ナツキのように上手く発射方向のコントロールもできない。
しかし今はそれで充分だ。指向性を持たせず、暴れ回ろうとする攻撃的な気の力を無理やり一点に押し込め、一気に解放すると――バリィッ、と血色の稲妻が弾け、一瞬だけ部屋を真っ赤に染めた。
「ッ……!」
「アイオーンに頼らない攻撃手段がないと思ったら大間違いなのです。……次は心臓に当てるですよ」
相手がナツキなら眉ひとつ動かさなかっただろう虚仮威しだ。しかしここまで充分な実力を見せつけてきたことで、虚仮威しは充分な脅しに化ける。……それが自分の実力ではないとしても。
睨みつけ、「ハロちゃんの前で、これ以上人を殺すところは見せたくないのですが……?」と《念話》術で脳内に囁きかけてやると、飛び上がりそうな勢いでペルニコフの肩が跳ねた。そして――
「……割に合わん!」
冷や汗を流しながらそんな捨て台詞を残し、無駄に光学迷彩を起動して脱兎のごとく逃げていった。