ローレライの釣り針 Ⅳ
その敵は、ナツキを追って《モンキーズ》の面々が飛び出した後しばらくして現れた。
「失礼する。お前らが天使の雫と天使の血だな……ん? もう一匹いるな」
出入口の立板を蹴り飛ばして遠慮なく踏み込んできた騎士風の男は、開口一番そんな台詞を吐き、ハロを見て軽く首を傾げた。
状況を理解する一瞬の静寂の後、アイシャは跳ね起きるように立ち上がる。周囲を確認。おやっさんは別用を片付けてくると言って《モンキーズ》と共に部屋から出てしまっており、今部屋にいるのはアイシャ、ニーコとハロだけだ。
つまり今戦えるのは、アイシャ一人だけ。
「に……にぅ」「おじさんだれ……?」
「……人違いなのです。一体なんのことなのですか」
ニーコとハロを後ろに庇い、アイシャは剣を構える。ナツキはアイシャを信じてこの場を託したのだ。何があろうと守り通してみせる!
「人に剣を向けるとは……ああ、そうか。天の階にはその権限があるんだったな」
「…………」
「ところでその膨れた腹は何だ? 天使の雫は《塔》の大天使の力そのものを振るえると聞くが……まさか腹の中に力を貯めているのか?」
「……これはただの食べすぎなのです」
そこだけ正直に答えながら、アイシャは騎士風の男の言動を観察する。
一般には知られていないはずの固有名詞を知っていることからして、この男が一般的な賊の類でないことは確かだ。最も考えられるのは《塔》の追っ手だが――
「お前があのエルヴィートを打ち破ったというのは本当か?」
「なんのことかさっぱりなのです。帰ってくださいです」
「まあ聞け」
騎士風の男は、剣を向けられていることも気にせずその場に腰を下ろし、胡座をかいた。
「まず勘違いされてそうなのを正しておくが、我々は《塔》の人間ではない。むしろ逆、《塔》に敵対する勢力に属している。お前達と同じだ」
「…………」
「名を《プルタネルフ自治区》という。フリューナ大陸最大の港町、プルタネルフを統治し、《塔》の人間の出入りを監視している組織だ。異常があればカロノミクノの本部に連絡して対処を行うわけだな」
「…………」
「ちなみに、お前達が頼っている《水魚の婚礼》とは兄弟関係にある組織だ。つまり我々は同志、剣を向け合うべき間柄ではない。今日はお前達を仲間に迎え入れるために来たのだ」
「……なのですか」
「分かってもらえたかな」
騎士がにこやかに投げかけてくる言葉に、悪意は感じられなかった。彼の意識はとても、とてもよく制御されていた。
「分かったのですよ」
「にぁ!?」「アイシャお姉ちゃん!?」
「おお、それは良かった――」
騎士が嬉しそうに立ち上がろうとしたその瞬間、足に気を通して地を蹴り急加速、上段から斬りかかる。――ギィン、と甲高い音を立て、剣士の篭手が刃を防いだ。――想定内だ。
「そうやって油断させたところで、後ろの二人が襲ってくる作戦なのです。最初から分かってたです」
防御姿勢で一瞬硬直した剣士の脇をすり抜け、何も無い空間に一閃、茜色の燐光が鋭い軌跡を描く。布を引き裂くような手応え。本体にはダメージを入れられなかったが目的は達成、とそのままバク宙して剣士の頭を飛び越え、ニーコとハロを守れる位置に着地する。
「姿は消せても、気配は消せてないのです」
「……ほう」「……見事ダ」
視界内、騎士の後ろの空間が綻ぶように歪み、二人の男が姿を現した。
何らかの聖片で透明化していたのだろうが、《気配》術にはずっと意識が引っかかっていたのだ。それも、全く隠しきれていない明確な敵対意識が。
さて……相手の隠れ蓑を剥ぎ取ったはいいものの、ここからが問題だ。
「に……ぁぅ……」「うぅ……」
「大丈夫なのですよ」
ニーコとハロを安心させるためにそう口に出すが、アイシャの頬には冷や汗が流れていた。
三対一。敵の戦力は未知数だが、練気術込みのアイシャの不意打ちを難なく受けたほどの男が先鋒であることから考えて、相当な手練だろう。対するこちらは戦えない二人を守りながら戦わざるを得ず、アイシャも人間相手の戦闘に慣れているとは言い難い。
騒ぎを聞きつけておやっさんや《水魚の婚礼》の構成員が助けに来てくれることを少し期待したが、《気配》術を広げて検知できる範囲に活動している意識はなかった。恐らくこの三人の闖入者に殺されたか、眠らされたか。
「さて……『狩り』の時間だ。存分に舞え、炎を熾せ」
「御意」
豪奢な衣服の男の号令を受け、おぞましい鉄仮面の男が一歩前へ出る。騎士風の男は戦いの場を譲るように後ろへ下がった。
「…………」
鉄仮面の向こう側の表情は読めない。しかしその立ち居振る舞いは洗練されており隙がない。どう出てくるか、どんな小さな動きの音も聞き逃さないよう、アイシャは身構え耳を立てた。
しかし――それは屋外の対神獣戦では最適行動であったかもしれないが、ラクリマの性質を熟知している人間との屋内戦闘では、絶対にしてはいけない選択だった。
「ウォォオオオオッ!」
「っ……!」
鉄仮面の男は突然咆哮した。もともと敏感なフェリス種の聴覚を研ぎ澄ませていたアイシャにとって、それは頭を直接殴られるよりも手痛い攻撃だった。狭い洞窟内であったことも災いし、反響する大音量に晒されたアイシャは耳を倒して一秒近く硬直してしまった。
「しまっ……」「フンッ!」
わざわざ作った隙を見逃す道理はない。鉄仮面がどこからか取り出した鎖付きモーニングスターの剛速球が、アイシャの腹部に直撃した。
「ぇ、ぽっ……!?」
猛スピードの鉄の塊が持つ運動エネルギーは、気を通して強化されたアイシャの体にも重く伝わった。膨れたままの胃袋や他の内臓がいくつも破裂し、肋骨は小枝のように砕け、何本もの鉄の棘が腹から背中まで風穴を開けた。
アイオーンによる自動防御と身体強化により、アイシャが吹き飛ばされて背後のニーコ達に被害が出ることはなかった。しかし――一瞬遅れてやってきた激痛は、これまでに受けたどんな傷よりも凄惨なものだった。
「っぁ……ぁ、っ……ごぽぉっ……げぼっ……っ」
「に……っ」「アイシャお姉ちゃん!!」
「……こんナものカ? 拍子抜けダ」
声も出せずに蹲り、痙攣しながら大量の血を吐くアイシャを見て、ハロとニーコは青ざめ、鉄仮面の男は失望したように溜息をつく。腕をひと振り、ジャラリと硬質な音を立てて棘鉄球が手元へと戻っていった。
「にゃー! ふあふあしゃんっ!」
ニーコが必死に叫び、大量の黄緑色の燐光がアイシャに降り注ぐ。穴が塞がり、ぐちゃぐちゃの内臓が元に戻っていく。明らかに致命傷を受けたはずのアイシャの体は、数秒でまっさらな健康体となった。破裂した胃の内容物まで元に戻ったらしく、腹は膨れたままだった。
「ありがと、です、ニーコちゃん……」
傷が治っても、記憶は消えない。開幕の一撃で圧倒的な力量差を見せつけてきた男とその武器を睨みながら、アイシャは心が絶望に傾いていくのを感じていた。
「おい、致命傷は避けろ。天使の血の能力も無限ではないだろう」
「分かっテいル……これ程弱イとハ思いモしなかっタのダ」
剣を向けられていながら、二人の男はアイシャなど眼中にないかのように屈辱的な会話をしている。
悔しいが、アイシャが天使の雫などと呼ばれて追い回されているのは、偏にアイシャの内に宿る天使の存在によるものだ。彼女が眠りについてしまっている今、アイシャはただ少し練気術が使えるだけの感染ドールに過ぎない。
だがしかし――諦めるわけにはいかない。
(もう……攻撃方法は分かったのです)
今の攻防で、彼らは完全に油断している。しかもアイシャ達を殺すのを避けたがっていることも分かった。ならば勝機はあるはずだ。
鉄仮面がモーニングスターを構える。《気配》術で意識の方向を読み、鉄球が飛んでくる位置を予測する。まだナツキほど上手くは読めないが、鉄球は銃弾ほど速くない。大まかに把握、ハロ達に当たらないコースであることを確認し、視認してから確実に避ける。
「やぁっ……!?」
そのまま斬りかかろうとして、相手の意識の向き先がアイシャから少し後ろにズレていることに気づく。そこにあるのは今避けたはずの鉄球であり、鉄球と相手は鎖で繋がっている。そこまで理解したところで咄嗟に空中後方へ跳んだアイシャが元いた場所を、鎖に引かれた鉄球が猛スピードで鉄仮面男に向けて飛んでいった。
「フ、適応は早いナ。だガ――」
「っ……」
鉄仮面はやや楽しそうに、次々と鉄球を投げては引き戻す。ただそれだけの動作のはずなのに、鎖の操作と怪力によって複雑に軌道が変化する鉄球はアイシャの接近を許さない。ギリギリでかわそうとした瞬間に軌道がぶれ、直撃を避けても棘がアイシャの体を深々と抉っていく。下手にアイオーンで弾き返そうとすれば、鎖が蛇のようにうねって刀身を絡め取りにくる。
鎖付きモーニングスターというキワモノ武器を極限まで知り尽くし、自らの手足とした男。今戦っているのはそういう相手なのだ。
(でも――!)
もう隙は見えた。鉄球を引き戻した後再びアイシャに狙いを定めているその間、鉄球も鎖もアイシャの視界の中、鉄仮面の後ろで弧を描いている。そこで一気に加速して懐に潜り込む――!
――シュカッ!
「あ、ぐっ……!?」
まさに足を踏み出そうとしたその瞬間、軽い音がして、太ももを何かが貫いた。足がもつれ、そこに鉄球が飛んで……こない。
「貴様……手出しヲするナ。これハ我ノ戦いダ」
鉄仮面は攻撃の手を止め、斜め後ろに立つ騎士風の男を睨んでいた。
「手出ししなければお前はもう死んでいたぞ」
「何ダと?」
騎士風の男は静かに、アイシャから全く視線を逸らさないまま、諭すように鉄仮面に告げる。
「このラクリマ、天使の雫らしい派手な力こそ見せてこないが……ただのラクリマにしては身体能力が高すぎる。心理分析力と適応力も妙に高い。お前の隙が見切られていたぞ」
「っ……」
鋭い観察眼だ。練気術のことは知らないのだろうが、アイシャが何らかの方法で身体強化をし、鉄仮面の意識の方向を見て攻撃を避けていることに気づいている。
そして騎士風の男は、10メートルは離れているであろう位置からアイシャに剣先を向けていた。
(違う……あれ、剣じゃないのです……!)
剣のように見えていた、あるいは実際に剣としても使えるのかもしれないその物体には、銃口と引鉄がついていた。
彼は、鉄仮面が隙を見せる瞬間に合わせ、それを埋めるように援護射撃を行ったのだ。
「共に挑むに値する敵だと思うが?」
「……フン、好きにしロ。貴様ハ貴様ノ、我ハ我ノ炎ヲ熾すまデ」
「ああ、利害の一致という奴だ。お前は強者との戦いを、私は――」
「希望ガ絶望ニ変わル様ヲ」
「その通り」
騎士風の男の頬が吊り上がり、シュカカカカッ、と剣が震える。その発射は《気配》術で読めていたので難なく避けることはできた、が――
「フンッ!」「っ……!」
避けた先に鉄球が飛んでくる。どうにかアイオーンで受けるが弾き飛ばされ、再び距離が開く。
「近づけない……っ!」
「ふふ、簡単には絶望してくれるなよ……味が落ちる!」
「フン……貴様モ大概、我らノ同類だナ」
鉄球、銃弾、引き戻し、銃弾――悔しいが、敵の連携精度はかなりのものだ。片方の隙を突こうとすればもう片方の攻撃を避けられない。当然それ以外のタイミングでも銃弾は飛んでくる。読まなければならない意識が単純に二倍になったことで思考負荷が上がり、被弾が増えていく。
「ふあふあしゃん!」
ニーコの力で傷はすぐに癒える。しかし――近づけない。あまりに武器のリーチと攻撃範囲、速度が違いすぎるのだ。ナツキのように剣技と練気術を高いレベルで融合できれば話は違うかもしれないが、今のアイシャでは力に振り回されて終わりだ。
「逃げルだけカ? 天使の雫ノ力、見せテみロ……!」
「あるいは、何か力を使う条件があるのでは? 私は力を発揮できない内に捕えてしまうべきだと思うが……」
「ム……それハつまらヌ。我ハ更なル強者を求めていル」
「まあ、お前はそう言うだろうな。だが確かに、能力が不明の状態で拘束するのは危険でもあるか……ふむ」
アイシャと攻防を繰り返しながら、鉄仮面と騎士は息も切らさずに言葉を交わしている。手加減され、遊ばれているのだ。悔しさに歯噛みしながらキッと睨みつけ――ふと、気づく。
ついさっきまで彼らの背後に立っていた豪奢な服の男が、いない。
「っどこに――」
「私を探しているのかね」
その声は変わらず鉄仮面と騎士の後ろから聞こえた。しかしそこには誰もいない――否、《気配》術はその場所に意識を捉えている。それも――三つの意識を。
「……そんな!?」
「光学迷彩など、一つ破られたとて、もう一つ起動すればいいだけのこと。《自治区》の技術を甘く見られては困るな」
空間が綻び、豪奢な服の男が姿を現す。……その両腕に、気を失ったニーコと弱々しくもがくハロを荷物のように抱えて。