ローレライの釣り針 Ⅲ
ナツキが全速力で向かった先、リリムが攫われたと思われる現場は、ごうごうと大量の水が流れる水路だった。リリムが店を出していたという大通りからアジトに戻る経路内に人気のないエリアは二つしかなく、そのいずれもが大きな水路を中心としている。
ざっくり言えば、この辺り一帯は大通りと水路が何本も交互に放射状に伸びていて、大通りから別の大通りに直線コースで移動しようとすると、水路を渡る必要があるのだ。リリムが二つ離れた大通りを最短コースで目指したとすると、途中で二回水路を渡っているはずである。
そして水路は大通りに比べると極端なまでに閑散としている。多くの人々は放射状に伸びている道が全て交わる大きな交差点を経由して他の大通りへ向かうのだ。
なぜ便利なショートカットになるはずの水路に人がいないのか? これは謎でも何でもなく、明確な理由がある。
「ナツキちゃーん、こっちこっち!」
「レイニーさん!」
水音の中に微かに自分を呼ぶ声が聞こえ、水路の対岸の通路にレイニーが立っているのを見つけて手を振る。リンバウの姿が見えないが、彼はもう一本向こうのエリアに先行しているのだろう。
中央区上部第一生活水路。先程見た裏街の地図には、今いる水路の名前がそう記載されていた。裏街のかなり広い範囲に水を分配供給する役割を担っているハブ水路らしい。ハブ水路はエリアごとにいくつかあり、水量の異常をアイシャ達が調査していたのもそのうちの一つである。
大きな謎が残ったまま調査をおやっさんに任せた水量異常の件、何かローレライに関係しているのでは……とも考えてしまうが、そもそもそれは別の水路の話。関連性は皆無だ、と根拠の無い予感を振り払う。
とその時、すぐ近くの天井から突き出しているパイプの端の蓋が開き、勢いよく水が噴出してきた。
「うわっ!? ……っと、あっぶな」
水はそのまま滝のように水路に落ち、ドドド……と大きな水音を響かせる。同時に老朽化したパイプのひび割れから横に飛んできた水が足元に勢いよく着弾し、ナツキは慌てて飛び退いた。
「ナツ――、――っちに――るか――、――って――!」
「えー!? 聞こえないよ!」
レイニーが水路の下流を指さして何かを叫んでいるが、水音のせいでよく聞き取れない。あちらこちらのパイプから水が流れ落ちる音、そこかしこに設置されたポンプらしき大きな機械が水を汲み上げる音――それらが洞窟内に反響して、まるで工事現場にいるようだ。
少し離れただけで会話が難しくなるほどの騒音と、予測不能な水鉄砲。交通の便の割に人通りが少ないのには理由がある、というのがこれだ。濡れながらでも一刻も早く目的地へ行かねばならないリリムのような例外を除き、普段の移動ルートにこの水路を組み込んでいる者はほとんどいないのだ。
「ナ――、――る? ――!」
「だめだこりゃ。……よい、しょっ!」
とにかく会話ができる状態を確保しようと、ナツキは通路の手すりに登り、水鉄砲の切れ目を見計らってそのまま対岸に跳んだ。
「よっ、と。ごめんレイニーさん、うるさくて聞こえなかった。あっちに何かあったの?」
「ちょっ……え!? いやその、あっちに橋があるから、渡ってきて……って……あれ?」
10メートルほどの幅を一足飛びに越えてきたナツキを見てレイニーは暫し口をパクパクさせていたが、やがて理解を諦めたか、あるいは今は時間を無駄にできないと判断したか、スッと真顔になった。
「えっと……、おはよ、ナツキちゃん。もう体調は……病み上がりには見えないし単刀直入に行くわ。状況は把握してる?」
「うん、一通り聞いたよ。何か手がかりあった?」
「ダメね、今のところ何もなし。というかここ、血痕とか足跡とかあっても水で流れちゃってるんじゃないかしら」
「うーん……確かに」
レイニーの言うとおり、恐らく先程のような放水でどこもかしこも定期的に洗われてしまっているだろう。
眉を寄せて唸るナツキに対し、レイニーは「それにね」と追い打ちをかけてきた。
「実を言うと、そもそも犯人と戦った痕跡から探すのは難しいって話もあって……ローレライに攫われた人達みんな、攫われるときに全く抵抗してないんだって」
「抵抗してない? そんなわけ……まさか、攫われる前から洗脳されてたってこと!?」
「理由は分からないわ……でもルンが言うには、抵抗する人を拘束して気絶させたり薬で眠らせたりしたら、必ず体に痕跡が残るはずなんだって。なのにリリースされた人達の体は無傷で、健康そのものだった……」
まるで怪談を語るかのようにレイニーは声をひそめた。
「それは……犯人がわざと怪我を治してるんじゃない? 痕跡から誘拐の手口がバレちゃわないように」
「それも考えたわ。でもたった数日で、お医者さんが見ても分からないくらいまっさらに治すのは回復薬なしじゃ無理なんだって」
「うーん……確かに。お金目当ての犯行なのに、偽装のために高い薬を使うんじゃ割に合わないね」
これまでカイがホイホイ飲ませてくれたので勘違いしてしまいそうになるが、回復薬はこの世界では聖片、すなわち人智を超えた魔法の薬であり、本来なら一本で数十万から数百万リューズはする代物なのだ。同等の魔法を気軽に使えるにー子はまさに規格外の存在であり、ゆえに「天使の血」などと呼ばれて特別扱いされているわけである。
「もちろん、差し引きでプラスになるならナツキちゃんの説も有り得るかも、って話は一度親方さんとしたのよ。でも回復薬が一度に流通する量は《塔》に調整されててかなり少ないから、無理があるんじゃないかって結論になったわ」
「う……そっか、もう三ヶ月も調査してるんだもんね、その辺はきっちり調べてるか」
きっと今一般的な視点でパッと思いつくようなことは全て、彼らが通ってきた轍の上にあるのだろう。
ならば立場を逆転させて考えてみよう。もし自分がこの場所で人を攫うなら、どこに連れていくだろうか。
「リリムさんを無力化できたとして……」
裏街のどこかにある拠点がゴールだとする。
水路を出て大通りに出る? 人間を一人大きなキャリーケースか何かに入れて、誘拐だとバレないように運ぶ――それ自体は難しくはないだろう。しかし何度も様々な場所で似たような手口を使えば嫌でも目立ってしまうし、多くの人の目に触れるのはそれだけでリスキーだ。数ヶ月もバレずに続けられる手ではないし、人が入るほど大きな荷物を運んでいる人の目撃情報はないとローグは言っていた。この方針は有り得ない。
となるとやはり、人通りの少ない水路や裏通りを使って運搬ないし誘導することになる。それなら目的地はかなり絞れ――
「……ん? いや、おかしい」
ローグが見せてくれた地図を思い出し、ナツキは首を傾げる。
地図が正確なら、そんなことは不可能だ。今いる水路を含むエリアはいわば大通りによって切り分けられたピザの一枚であり、大通りに出ずに他のエリアに行くことはできないのだ。人目につかない場所で襲うことはできても、人目につかずにどこかへ運び出すことはできない。
「なら、地図にない隠し通路……」
地図上では不可能でも、秘密の抜け道がある可能性はある。
しかし周囲を見渡す限り、大通りに繋がる出入口以外で水路を出られそうなドアやマンホールの類はない。別の水路へと水が流れ出す出口はあるが、重そうな鉄格子が水以外の侵入を阻んでいる。
「実はまだこのエリアのどこかにいる……? ……いや、ないか」
キャッチとリリースの場所に相関はなく、裏街の北端で行方不明になった者が南端で発見された事例もある、というラッカの言葉を思い出し首を振る。
――考えろ、考えろ。いくら超常現象を装っていても、金目当ての犯行である以上は犯人はこの世で生活している人間だ。どこかに見落としがあるはずだ!
「ナツキちゃん……」
必死に思考を巡らせるナツキを見てレイニーが心配そうに呟いた、そのときだった。
「っ! レイニーさん、隠れて伏せて!」
「へっ!? りょ、了解!」
広範囲を探っていた《気配》術が、猛スピードで水路の下流からこちらに向かってくる意識を捉えた。その数、三――おそらくナツキ達には気づいていないが、うち後方の二人は明らかな悪意を撒き散らしていた。
「誰かが追われてる……すごいスピードでこっちに来る!」
「なになになに、何なのよ!? ローレライ様ご登場ってわけ!?」
「いや、これは……」
およそ通常の人間に出せる速度ではない。レイニーと一往復言葉を交わす間に、その影は視認できる距離まで迫っていた。次の瞬きが終わる頃には、三人の顔が識別できるようになっていた。
それらが誰かを理解した刹那、ナツキは思った。一難去ってまた一難どころの騒ぎではない、これは「踏んだり蹴ったり」と言うのだと。
「うおおぉおぉお来るな来るな気持ち悪い! 何なんだよお前ら、何なんだよッ!?」
先頭をバチバチと氷色の稲光を放ちながら矢のように飛んでくるのは、つい昨日ナツキが助けたギフティアの少女、フィン。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒッ! たぁっぷり可愛がってから殺してあげる!」
「デュフフ……その前に身体検査の続きが必要でありますよぉォッ!」
彼女を追いかけているのは、そのときにナツキが気絶させた変質者五人のうち、幽霊のような女と小柄な男。両足にパワードスーツのようなものを装着し、盛大に水飛沫を上げながら猛スピードで水面を駆け、フィンに肉薄している。
また助けるべきか、否か。人道と身バレの危険とリリムの件が天秤に乗り、どちらかに傾く前にすでにフィンはナツキの目の前まで迫っていた。
「ん!? ココナ!?」
雷の矢のように高速移動していても、フィンはナツキを見逃さなかった。パセル種は目がいい、というのは動体視力も込みらしい。
「フィ――」
「逃げっぞ! あいつらやべーよ!」
ナツキが声を発するより早く、そう叫んだフィンがナツキの頭上を飛び去――らなかった。
「は……ちょちょちょっ、フィン!?」
ナツキとフィンの位置座標が重なったその刹那、フィンは下に両腕を伸ばし、ナツキの胴体を抱え上げた。……速度は全く落とさないまま。
急激なGに耐えながら、慌ててフィンを見上げる。翼は動いておらず、寒々しい氷色の燐光を稲妻と共に後方に噴射しながら弾丸のように飛ぶフィン。その表情にいつもの余裕はなかった。
「何してるのさ!?」
「逃げてんだって! あいつら本気だぜ、オレのレールガンモードのこと知ってて対策してきやがった!」
「じゃなくて! ボクは気にしないで逃げていいから下ろしてー!」
「バカ言うな、あんな奴らの前にダチ残してけっかよ!」
後ろを振り返ると、レイニーの姿はもうはるか遠く、ゴマ粒のようになってしまっていた。代わりに目の前の手の届きそうな位置に、おぞましい笑みを浮かべた変質者が二人、ナツキをギョロリと見つめている。
「ひっ……近寄らないで!」
ざわりと背筋が凍り、反射的に殺気の束を飛ばして牽制すると、少しの間引き離せたものの、またすぐにスピードを上げて追いついてきた。
なら最大出力まで溜めて《気迫》術を、と気を練り始めたところで、ふと大変なことに気づく。
「……待ってフィン! このまま進むと壁にぶつかる!」
「は!? この川の上流に向かえば地上に出れんだろ!?」
「出れないよ!」
地図を思い出し、ナツキは叫んだ。このエリアは水路と大通りが交互に、扇形の放射状に並んでおり、扇の中心に向かって集約するように水が流れている。では上流側の端はというと、
「これ川じゃなくて人工水路! この先行き止まり、壁にぶつかって二人とも死んじゃうよ!」
「嘘つけ、だってπの奴がそう言って……あ!?」
言い合っている間に、その行き止まりが見えてきた。結果はナツキの主張が正しく、このままでは猛スピードで岩壁に突っ込んでしまう。
衝突まで残り五秒もない。身体強化できるナツキはともかく、フィンには身を守る術がない。体に接触していることで直接感じ取れるフィンの感情が、瞬時に絶望に染まるのが分かった。
「くっ……」
身体強化のための気をフィンにも半分分け与えれば、二人とも大怪我する程度で命は助かるかもしれない。しかし今、背後にはフィンを殺そうとしている輩が迫っている。こいつら、まさかこれが狙いでこの水路にフィンを追い込んだのか――
視界がゆっくり後ろへ流れていく。加速する思考。正攻法ではどうしようもない、《転魂》術でどうにかするのは可能ではあるがコストが高い。優先度的には潜在敵でもあるフィンを見捨てるべきだ。だが――
(……ダチ、か)
つい数秒前のフィンの言葉が、冷徹な判断にブレーキをかけた。
今もフィンは、ナツキを後方に投げ飛ばそうとしている。自分が反作用で加速してしまうことも厭わず、友達のナツキを生かそうとしてくれているのだ。そんな子を見捨てて自分だけ助かればいいとはどうしても思えなかった。
可能な限り寿命を節約して《転魂》術を使う。そう決断しかけた、その時だった。
――キラリ、
前方で何かが光った。
それは、金属の反射光のように見えた。
それは、前方の天井付近でこちらに真っ暗な大口を開ける、エアダクトの縁にあった。
そのメスは、エアダクトの奥から手前へ投げられたであろう角度で刺さっていた。
「っ! フィン、あの中に!」
「なっ……信じるぜ!」
残り三秒で飛ばした指示に、フィンは面食らいつつも完璧に応えた。翼を大きく広げて可能な限り減速しつつ、上昇方向に角度を微調整、ナツキをぶら下げたままエアダクトに飛び込んだ。
☆ ☆ ☆
水上を走ってフィンを追っていた二人はその場に急停止し、唖然と頭上の黒い穴を見上げた。
「はぁ? 嘘でしょ、行き止まりなんじゃなかったのぉ?」
「これは……追いかけるでありますか? よじ登ればなんとか……」
「無理無理、中で上に折れてたりしたらジェットパックなしじゃ絶対無理よぉ……」
「でありますねぇ……」
顔を見合わせ、やや逡巡しつつ男が通信機を取り出す。
「……ペルニコフ閣下、ご報告するであります。その……」
『エアダクトに逃げ込まれたか?』
まるでこちらの様子を見ていたかのように先んじて問われ、男は目を白黒させつつ「……その通りであります」と肯定した。
『フン、賭けは奴の勝ちか。まあいい……せいぜい鑑賞させてもらうとしよう』
「は……というと?」
『想定内だ、それ以上追う必要はない。貴様らは目標を逃がしたのではない、罠へと追い込んだのだ』
「罠、でありますか」
『《蝙蝠》が張った罠だ。かかる前に我々が捕らえられればそのまま獲得できたが、そうでなければ――運試しだ。運良く標的が星に還らなければ、標的を《蝙蝠》から買い取る優先権が得られる』
「なるほど……力及ばず、大変申し訳――」
『良い、貴様らの実力不足ではない。私はこの情報を故意に伏せ、単調な狩りに遊びを加えたのだ。先の見えぬ状況こそ一興よ』
謝罪を遮り、ペルニコフはクツクツと控えめな笑い声を漏らす。どうやら叱責は免れそうだ、と二人は安堵の視線を交わした。
「承知であります。では、我々はそちらへ加勢に……」
『否、不要だ。過剰な力で組み伏せては美しい狩りとは言えん』
「は……さすが閣下、順調でありますか」
残り二人の近衛と共に別の「狩り」に興じているはずのペルニコフは、まるで子供の遊びに本気で勝ちに行こうとする大人を窘めるかのような様子で、しかしやや退屈そうに状況を口にした。
『血は確保、雫も……もはや時間の問題であろう。貴様らは先に合流地点へ向かえ』
通信機越しに何かの破砕音が聞こえ、通信は切れた。