ローレライの釣り針 Ⅰ
オォ……ン、と風笛が鳴いている。
もはや聞きすぎて気にならなくなった……とまでは言えないが、ネーヴェリーデに来たばかりの頃に比べれば慣れたものだ。
恐らく海風の向きの移り変わりに関係しているのだろう、風笛が聞こえる時間帯には偏りがある。とりわけ夕刻と早朝に多く、裏街の人々はおおよその時刻を風笛の頻度から判断することもあるらしい。とはいえ全く鳴らない日もあり、天然の目覚まし時計と言ってしまうと過言なのだが。
オォン、と再び風笛が鳴く。そろそろ朝か、と体を起こし、
「……ん?」
そこがいつも寝起きしていたアジトの部屋ではないことに気づき、ナツキは瞬時に《気配》術を展開して周辺警戒の体勢に入った。
部屋には学校の保健室のような匂いが漂っている。中にはナツキ以外誰もいないが、出入口に立てられた板を挟んで向こう側、こちらに向かってくる意識がある。これが誘拐犯などであれば待ち伏せして返り討ちにするところだが、感じ取った意識の形はナツキのよく知るものだった。
「……あ! ナツキさん起きたのです! 体の調子は大丈夫そうです?」
板を外して入ってきたのはアイシャだった。ナツキを見てほっとしたように目元が綻んでいる。ナツキも肩の力を抜いた。
「おはよ、アイシャ。うん、体に異常はないけど……えっと……え?」
何があったんだったか、と記憶を探ろうとしたナツキだったが、それより先に処理すべき情報が視界のど真ん中にあり、中断せざるを得なかった。
「アイシャ、そのおなかはいったい何が……いや、もうなんとなく想像はついてるけど」
「はぅ、これでも結構小さくなったですよ」
巨大な卵を丸ごと飲み込んだかのような形に大きく膨らんだ腹。これで「結構小さくなった」とは、一体元はどれほどの大きさだったのか。
これまで通り中身は食べ物だろうが、ここ最近の食事はアジトの一室にある食堂の配給食だ。大食い大会が開かれるという話は聞いていない。
「えっと……アイシャ、まさか食欲に任せて食堂のご飯全部食べちゃったとか……?」
「ちち違うのです! あの、実はわたしもよく覚えてないのです……」
「へ?」
自分で食べたのに覚えていないとはどういうことか、と訝しむナツキに、アイシャは少し考え込みながら、朧気な記憶を辿るように答えた。
「夢を……見てたです。いくら食べても無くならない、とっても美味しいオクタボの世界で……気がついたら、おなかが破けそうになってて、とっても痛くて、でも気持ちよくて……ふわふわして幸せで、ぼーっとして、眠くて……真っ暗になったです」
「う……うん?」
「あの、何を言ってるのか分からないと思うのですけど、わたしもよく分から……あっ!」
そこで突然言葉を止め、アイシャはナツキに駆け寄り腕を掴んだ。
「今はそんな話してる場合じゃなかったのです!」
「へっ? わ、ちょっと!?」
ドール、すなわち戦闘用に調整を受けているアイシャは実は細腕に見合わず結構な力持ちである。大人の男を引きずって運べるくらいの力があることは《子猫の陽だまり亭》でキールが泥酔してぶっ倒れたときに確認済だ。
そして今、ナツキはせいぜい20か30キロくらいしかない幼女ボディである。アイシャに容赦なく腕を引かれ、いとも簡単にベッドから転がり落ち、岩肌そのままの地面に顔からダイブしそうになり慌てて受身を取る。
「ちょちょ、どうしたのアイシャ!? 危ないって」
「はわ、ごめんなさいです、でも急がないとなのです!」
いつものアイシャなら、いかに急いでいようとこんなに荒っぽい起こし方はしない。困惑するナツキにアイシャが向けたのは、まるで何か重大な事件が起こり、仲間が危険にさらされているかのような切迫した表情だった。
そして恐らく、それは例えではなく――
「分かった、走りながら聞くよ。状況は?」
気持ちを引き締め駆け出したナツキに、アイシャは答える。
「リリムさんがローレライさんに食べられちゃったのです!」
「……へ?」
ナツキがアイシャに連れていかれた先は、ついこの間おやっさんとリリムが密航の価格交渉をしていた会議室だった。決して広くはないその部屋に、《モンキーズ》のうちラッカ、ルン、ローグと、ナツキ、アイシャ、にー子、ハロ、さらに加えておやっさんが揃っている。そしてリリムは――いない。
「うぅ……ハロのせいだ……ハロがあんな……」
「にぁ、ちぁうの、はろ、わぅくない! わぅいの、ろーえやい!」
「ぐずっ……ううう、でもでも、ニーコちゃぁん……」
「なーぅ! にゃかないの!」
ハロが肩を落として泣いているのを、にー子が必死に慰めている。にー子の成長を感じる珍しい光景……だが、今はそれどころではなさそうだ。
「すまねえッ……。船が来るまでお前らの安全は保証するって約束だったのに、とんでもねえ面倒に巻き込んじまった。よりによって積み込みの日にッ……アジトまできっちり送ってりゃこんなことには……ッ」
ナツキが到着するや否や、おやっさんはそう言って頭を下げた。
「謝罪は問題が解決してからでいいよ。まだよく分かってないから現状を把握させて。リリムさんの状況は? 生きてる?」
「おう、命に危険はねえが、このままだと頭ん中がぶっ壊れちまうかもしれねぇ。タイムリミットは大体三日、助けに行く必要がある……が、場所が分からねえ」
「っ……その元凶が、『ローレライ』ってやつなんだね?」
「状況から見てその線が濃い」
肯定され、ナツキは《モンキーズ》の面々に顔を向ける。先程アイシャも口にしていた「ローレライ」なる事象、それは彼らがこの三ヶ月ずっと調査を続けている対象のはずだ。
ナツキの説明を求める視線を受けたラッカがひとつ頷き、テーブルにいくつもの紙束を広げていく。そしてナツキに視線を合わせ、いつになく真面目な口調で語り始めた。
「えっとな、ローレライってのは、この街で起きてる連続誘拐事件のコードネームなんだ。まだ事件として表沙汰にはなってねーけど、週に数人くらいのペースでどんどんやられてる。表街にまで被害が出てる」
「連続誘拐事件!? ……って、そんなペースで表沙汰にならないなんてことある?」
「表向きには神隠しってことになってんのと、犯行現場がほとんど裏街だしな。裏街じゃ誘拐とか行方不明とか日常茶飯事だから、大して話題にならねーんだと」
「なるほど……ん、待って、それだと同一犯かどうか分からなくない?」
誘拐が日常茶飯事な環境で誘拐事件が連続して起こるのは当たり前だ。疑問を呈したナツキに、ラッカはその質問は想定済みだとでも言うように一冊の紙束を渡してきた。
「まず、ローレライに誘拐された奴はしばらくすると戻ってくる。三日から一週間ってとこだ。でもって、犯人がローレライかどうかは話しかけてみりゃ分かる」
「話しかけてみれば……?」
妙な言い回しだ。被害者に聞いてみれば分かる、ということだろうかと考えるが、続く言葉でその疑問は氷解した。
「おう、つーかナツキちゃんももう経験してるはずだぜ。その顔、見覚えあるだろ」
「え……っ!?」
紙束の一番上、バストアップの人物写真が添えられたプロファイルシートのようなものを確認し、ナツキは息を飲んだ。確かにその人物には見覚えがあり、話しかけることで明確な「異常」を感じられたのも記憶に新しい。
「迷路で変なキノコ食べちゃった人……!」
「話はハロちゃんに聞いたぜ。そいつは変なキノコなんか食べちゃいねー、ローレライに攫われて帰ってきたんだ」
――デリア=ルーシュ、24歳女性。フリューナ大陸・プルタネルフ出身、平民。幼馴染の友人、ヴィーシャ=ストロノフと共に観光目的で訪れ、夕刻にエリアF6付近でキャッチされたと見られる。二日後昼にエリアF3でリリースされているのをストロノフらが発見、病院に搬送。症状はタイプB、完治の見込みなし。
そんな説明と共に貼られている顔写真は、昨日ナツキとハロが迷路庭園の大きな木の下で話しかけた、錯乱状態の女性の顔そのものだった。
つまり――庭園の観光客が揃って口にしていた「神隠し」とは、このローレライ事件のことだったのだ。
紙束をめくっていくと、同じフォーマットの顔写真と状況説明が大量に現れる。これは被害者リストだ。性別はまちまち、子供はほとんどいないが老人はそこそこいるようだ。……これだけでは標的に選ばれる基準が見えてこない。
「攫われた奴は皆、何日か後に全然関係ねー場所で見つかるんだ。表街じゃ大体はエリアF――迷路の庭で消えて庭のどこかに出てくるんだけどよ、裏街じゃ北の端で消えた奴が南の端で見つかったりする」
「えぇ、何でそんな……場所に法則性はあるの?」
「それが全くねーから困ってるんだよな。ただ共通点はあって、どいつもこいつも魂が抜かれたみてーになって見つかるんだ。そいつもナツキちゃんが話しかけるまでボーっとしてただろ?」
「うん……完全に放心してたね」
極度の放心状態にある人間は《気配》術で一切の感情を読み取れない。彼女はまさにその状態だった。
「でも話しかけたらすぐ意識は戻ったし、なんかえっと……不自然なほどすっごく幸せそうだったけど」
「それもみんな一緒だぜ。ふわっと魂が浮き上がるみてーに連れてかれた先は、夢みてーに幸せな世界だった……ってな。なんか危ねークスリでも飲まされたんじゃねーかって姉貴が医者の人たちと調べてたけど……」
ラッカに視線を振られ、ルンは手をひらひら振って溜息をついた。
「そんな痕跡はないんだよね~。というかみんなお酒飲みすぎてて~いろんな検査結果がぐちゃぐちゃになっちゃって~……。一応そっちの線でずっと調査してるけど~、望み薄だと思う~」
「うーん……犯人の目的は何なの? 恨みつらみならわざわざ解放しないで殺しちゃうよね。……まさか本当に超常現象だなんて言わないよね?」
「ああ、それは金だな」
「え、お金?」
人為的な犯行だろうとは思っていたが、そこまで即物的な話になるのは予想外で、思わず聞き返してしまう。
「おう、攫われた連中みんな財布は空、身につけてた値打ちもんも全部なくなってんだよ。ただ本人に聞いてもそんなことはどうでもいいだの正当な対価だのって、誰も問題にしてねーんだよな」
「そういえばデリアさんも、買ったばかりの壺を対価にしたとか言ってたね……。なんだろ、通報や報復を避けるために洗脳されてる、とか?」
「ローグも同じこと言ってたぜ。しかもよ、しばらくすると生活できるレベルには回復するんだよな。それこそ仕事にだって行けちまうくらいにな……」
「自然回復するんだ? ……え、いいことだよね?」
時間が経てば回復するのであれば、最悪リリムの救出が間に合わなくとも取り返しはつく。船は次の便を待てばいいのだ。そう思ったが、ラッカはあまり嬉しそうには見えなかった。
首を傾げるナツキに、ルンが補足を入れる。
「回復してるように見えるだけ、なんだよ~。患者さんみんな~、頭のどこかでずっと~『あの世界に行かなきゃ』って考えてて~、そのせいでいろんなことの判断が~、できなくなっちゃうの~」
「っ……後遺症が残るってこと!?」
「どっちかというと~、中毒症状かな~。そうなっちゃった人達、ほっとくとまた自分からローレライに攫われに行っちゃうから~、……嫌な言い方だけど~、病院に閉じ込めさせてもらってるんだよ~」
「治す方法は……分かってないんだね」
目を伏せるルンを見て、リリムが解放されるのを待つ選択肢はナツキの脳内から消え去った。にー子の回復魔法で治せる可能性もあるが、それに賭けるにはこの世界は未知が多すぎる。
そしてルンが説明をしてくれたことで、被害者プロフィールの見慣れない言葉選び――攫われた、解放された、ではなく「キャッチ」「リリース」というワードが使われていた意味をようやく悟る。
「キャッチアンドリリース……」
被害者という魚を釣り上げ、有り金という報酬を得る。釣り針にかかりやすくなるような洗脳を施して再び海に戻し、金を蓄えた魚を再び釣る。それを繰り返せば、獲物を減らすことなく延々と搾取し続けられるというわけだ。
しかしそんな具体的な洗脳を被害者全員に、長期にわたって施せるものだろうか。まるでラグナの魔族、とりわけサキュバスの類が得意としていた魅了能力のようだが、《塔》が魔法を管理しているこの世界では――
(いや、何にせよ今大事なのは、その被害者一覧にリリムさんが加えられようとしてるってことだ)
謎は残るが、解決すべき問題は明白だ。アイシャの言うとおり、これは一刻の猶予もないと考えていいだろう。