まるで夢のような Ⅳ
「ぶへくしっ! ……うぅ」
「大丈夫~? 着いたら早く~着替えないと~」
「うん……」
ラッカ達と合流し、すぶ濡れナツキとハロはアジトへの帰路についていた。
トスカナがいればすぐに魔法で服を乾かしてくれただろう。あるいはリモネちゃんでもいいのだが……残念ながらどちらもここにはいない。水を吸って冷たく重くなったセーラーワンピースが体にべったり貼りつく気持ち悪さに耐えながら、ナツキは屋台通りを歩いていく。
「う~ん……」
隣を歩くルンの手には三本の液体入り試験管が握られている。おやっさんにナツキ達が頼まれた「水質調査」は、元々はルンがおやっさんに依頼していたタスクなのだそうだ。
ナツキ達が採取してきた二箇所と、合流して経緯を話しながら採取した一箇所。合計三箇所の水を光に透かしてじっと見比べていたルンだったが、やがて諦めたように肩を落とした。
「どこのお水も~綺麗だね~」
「全部表街の水路で採ったやつだからね。……でもルンさん、なんで水質調査なんてしてるの?」
「ん~、どこのお水が一番綺麗かなって~、知りたかったんだよ~」
「ルン、あんたまさか……これ以上高いミネラルウォーターに手出すつもりじゃないでしょうね」
「え~? ん~、場合によっては~」
「やめてくれ姉貴! もう水路の水なんか飲まねーって!」
そういえばネーヴェリーデに着いたときにレイニーが話してくれていた。ラッカが裏街の水路の水を直飲みして腹を壊して以降、ルンが表街から水を仕入れているんだったか。自前で水質調査までするとは……
「ルンさんも意外と過保護……へ、へ……へくしゅっ!」
「わっ、お姉ちゃんだいじょうぶ? ……そうだ! あのね、ハロがぎゅーってしてあっためてあげる!」
「ありがとハロ、でも今くっつかれると……」
前からひしっと抱きつかれ、服越しにじんわりと温かみが伝わってくる。冷えきった体にはとてもありがたく、ぶっちゃけしばらくこのままでいて欲しい……のだが、
「動けない……」
「えへへぇ、ぽかぽかだ」
通りの真ん中で抱き合う幼女二人のオブジェが完成してしまった。微笑ましいものを見るような周囲の視線が……まあいいか。
(っ、いや、よくない……フィンが来てる以上、もう裏街でも目立つ行為は極力控えないと……あれ、なんでだっけ……)
怪しまれないようにしなければ。そう考えたそばから、まあ仕方ないか、まあいいや、と投げやりで適当な思考が浮かび上がってくる。ハロの温もりに溶かされるように、心の芯が流れ出していく。そんな感覚。
それにさっきからずっと妙に頭が重い。先程の白昼夢のような感覚はなくなっているが、何かを思考すること自体が億劫になっている。まるで眠りに落ちる直前、考えていることが次々と曖昧な思考に上書きされて溶けていくときのような……
「ラッカあんた、なんとかしなさいよ。あんたが服着てくればナツキちゃん着替えさせられたんだから」
「いや姉貴とレイニーはともかく、俺が泳ぎに行くのに水着の上に服着てく必要ねーし……」
あの後すぐ、ラッカ達はナツキをプールの更衣室で着替えさせようとしてくれたのだ。しかし誰も余分な服は持っておらず、ラッカに至っては海パン一枚に上裸のまま裏街からやって来たらしく、着替える先がなかった。尻尾を隠しているハロの外套を貸してもらうわけにもいかず、服屋で服を買って帰ってくるまでの時間があればアジトに帰れる……ということで、ナツキはずぶ濡れのまま歩いている。
とりあえずラッカが責められるのは筋違いだ。顔を上げ、フォローしようと口を開き、
「ラッカお兄ちゃん、だっこして……?」
妙に重い頭は、そんな台詞を出力した。
確かに、頭のどこかで抱かれていけば楽だし寒くないし一石二鳥だなとは思っていた。しかしそれを口に出して要求するのは年上の大人としての理性と見栄が許さない……はずだったのだが。
「え、あれ……そうじゃなくて……ごめん、なんか頭がくらくらしてて……」
「……任せろ!」
慌てて訂正しようとするナツキの言葉を待たず、一瞬で真剣な顔になったラッカがナツキとハロをまとめて抱えあげた。15歳くらいにしては厚い胸板に支えられ、これが男に抱かれる感覚か、がっしりしてて安心感あるな、と妙な感想が生まれる。
「わぁすごーい! ラッカお兄ちゃん、力もちだ!」
「まあ、な……いや、ちょ……おいおい」
ラッカの様子がおかしい。ハロとナツキを比べるように視線が動く。どうかしたのだろうか。
どうしたのラッカさん、と聞こうと口を開いて、
「ぁ、う……」
出てきたのはか細い呻き声のような音だけだった。
脳の指令に体がついてこない――いや、違う。
(まさか……)
ある可能性に思い当たり、水路に落ちたときに精神攻撃を警戒して張った魂の防護膜を解除する。気の循環路のレイヤーが肉体に近づき、途端に意識にもやがかかっていった。
やはり――ナツキの魂に、生体脳が追いついていない。脳の機能が普通なら意識を失ってしまうレベルに低下しているのだ。恐らくそれは、白昼夢を見ていたあのときから始まっていて――
(精神攻撃じゃ、ない……体のほう、が、おかしい……んだ)
それだけどうにか思考し、やがて全てが熱い霧に閉ざされ、何も考えられなくなっていく。それはまるで、子供の頃かかったインフルエンザで、高熱に魘されていたときのような……
「ナツキちゃん……ナツキちゃん!?」
「ナツキお姉ちゃん!?」
「ら……はろ……ご、め……」
☆ ☆ ☆
「おいおい……やべー、やべーって!」
腕の中で、ナツキが気を失った。まるでこれまで気力だけで体を動かしていたかのように、くたりと体から力が抜ける。途端に抱えづらくなり、接触面積を増やすように抱え直し――ジュウ、と音がしそうなくらいの体温と異様に速い脈拍が直接伝わってきて、ラッカは息を飲んだ。
「姉貴、ナツキちゃんすげー熱出してる! ……姉貴!? レイニーもいねーし、どこ行った!?」
「すんすん……ラッカお兄ちゃん、あそこ!」
ハロが指し示したのは、屋台通りの一角に出来た人だかりだ。何かショーでもやっているのか……と思いきや、様子がおかしい。あれは観客というよりむしろ、事故現場の野次馬のような雰囲気だ。
その一角で、レイニーが早く来いとでも言うように手招きしているのが見えた。よく見るとその隣にはリンバウとローグまでいる。
「クッソ、こんなときに何だってんだよ!」
急いで駆け寄り、人混みの隙間から中を覗き込む。ルンがしゃがみこんでいて、その脇に子供が倒れているようだ。暴力事件でもあったのか、と予想しながら子供の全身が見える位置まで移動し、
「……って、アイシャちゃん!? なん……腹、え、その腹どうなってんだ!?」
倒れていたのはアイシャだった。異常に大きく膨らんで青筋が浮かび、指でつついただけで破裂してしまいそうな腹部を抱え、ヒューヒューと細い息を繰り返している。目は虚ろでどこも見ておらず、ラッカにも気づいていないようだった。
「なぅー! なぁーぅ!」
「ダメ、ニーコちゃんダメだから! 今ここでは絶対ダメ!」
「おいルンどうだ、運べそうか」
「ん~、大丈夫そう~……? でもそ~っと運ばないと~、いつ破けてもおかしくない~……っていうか~、まだおなかの皮が裂けてないのが不思議~……」
「ちょっとルンそれ本当に運んで大丈夫なの!?」
「みんなー、担架借りてきたよ!」
アジトの外には出さないことになっていたニーコが普通に外に出ていることからして何かおかしいのに、それが些事に思えてくるほどの異常事態が起きていた。
混乱して言葉を失うラッカに、慌てた様子のレイニーが視線を向ける。
「ラッカ、ルンを手伝っ……え、ナツキちゃんどうしたの!?」
「やべー熱出してる! 例の『子供熱』かもしれねーからルンに診てもらわねーと、……だけどアイシャちゃんは何があったんだよ!?」
「そんな!? ……え、えーと……アイシャちゃんはなんかその、食べ過ぎ……?」
「食べ過ぎ!? 嘘だろ!?」
「ローグがそう言ったのよ! とにかく早くアジトに運ばないと……!」
「あ、ああ!」
何が何だか分からないが、ここは人の目につきすぎる。ラッカはナツキをレイニーに預け、ルンと共にアイシャを担架に乗せた。
その様子を屋台通りの端からこっそり窺う影が一つあった。
この街では《蝙蝠》の通り名で知られているその男は、ニヤリと笑みを浮かべて通信機を起動する。
「やあ《祭司》殿。狐と黒猫が同時に気を失ったけど、これは君の計画かい? 今ならサクッと殺せそ……うん? ……え、違うの? いや殺すなって、俺に君の性癖に付き合う義理は……あーはいはい、分かったって。……全く注文が多いな、《鐘》の連中はみんなこうなのかい?」
やれやれと溜息をつき、
「ま、俺は最終的に狐が死んでれば何でもいいけどさ。猿に拾われたから明朝には動き出すだろうから……オッケー、じゃあ予定通りに」
通信が切れ、再び繋がる。《蝙蝠》は一つ咳払いをした。
「ご機嫌麗しゅう、閣下。《蝙蝠》にございます。本日の『狩り』の方は……ふふ、ええ、仰るとおり、それが『五番』です。リタイアされますか?」
先程までとは打って変わって物腰やわらかで妖しげな雰囲気を身にまとい、《蝙蝠》はペラペラとまるで用意されていたかのように言葉を紡ぐ。
「……さすがでございます。では契約どおり、明日の『狩場』情報ですが――」
数度言葉を交わして通信を切り、三人目にコールを始める。
《蝙蝠》はどの派閥にも属していない、ネーヴェリーデを拠点に活動している情報屋だ。派閥的中立と言ってもフィルツホルンの《古本屋》とは違い、その時その時の気分と情勢によって客を選ぶし、金を積まれれば裏切ることもある。一方、口止め料をしっかり払えばそれ以上の金額を出されない限りは絶対に裏切らない、という信頼も勝ち取っている。話術に長け、様々な顔を使い分けて裏街の隅々まで根を張っている、やり手の情報屋なのだ。
――彼はここ数年、そういう設定で動いていた。
「――あ、もしもしフィンちゃん? 海向こうの貴族共に絡まれたって聞いたよ。災難だったね、怪我は無い? ……え? いやちょ、誰だよって……エルヴィートさんから俺のこと聞いてない? ネーヴェリーデに滞在してる間の君の監督官、俺らしいんだけど。……えーマジで聞いてないの? てか昨日顔出さなかったけど、どこに泊まったの? は……野宿? ホテル取ってあるのに!?」
三人目の通信相手は、《塔》のギフテイア、フィン=テル=パセルだ。連絡に行き違いがあったか、あるいはフィンが話を聞かずに飛び出したか……存在を認知されていなかったことに頭を抱えるフリをしながら、《蝙蝠》は優しげな声をかける。
「俺だよ、端末π。あー、直接話すのは初めてかな。内部IDの照合からやろっか?」
調整済のラクリマは基本的に、人間の言うことを疑わない。フィンのように長年生きているギフティアでも、一度味方と認識した相手を敵方のスパイだと疑うことはない。
端末であるという事実を確認させ、味方であると誤認させる。そうしてフィンの警戒を解き、すらすらと計画通りの情報を伝えながら、楽な仕事だ、とでも言うように《蝙蝠》は薄く笑った。