まるで夢のような Ⅲ
「たくさん食べられて、しかもお金がもらえるのです! お得なのです」
「食べきれなかったら逆に2万払えって書いてあ……いやそこじゃなくて、アイシャちゃんが大食いなのは身をもって理解したけど、ついさっきあれだけ食べてまだ入るわけないって! おなかの中にブラックホールでも飼ってるの!?」
「ちょっと前まではいたです」
「ちょっと前まではいたの!? ブラックホールが!?」
ローグが必死にアイシャを説得しているが、立て板に水のようだ。
「で……でも今はいないんだよね?」
「なのです……。でも、まだまだ入るですよ?」
「いやそんなまさか……」
「嘘じゃないのです」
アイシャは平然とローブ越しにぽんぽんとおなかを叩き、「見てみるです?」とローブの前の留め具を外して広げて見せた。
「んなっ……!?」
「こりゃあ……すげえな」
出発前と同じように、胸の下から骨盤のあたりまで、アイシャの肌が露わになる。しかしその様相は記憶とは大きく異なっていた。
端的に言えば、腹が膨れていた。しかしそれはそんな簡単な言葉で済ませていい状態ではなかった。あばらから上や手足は元のまま棒のように細いのに、その輪郭は鳩尾から急に前へせり出し、下腹部にかけて大きな曲線を描いている。まるでこの幼さで子供を身篭ってしまったかのようだ。
それもそのはず、オクタボ一つが50ミリリットル程度としても、132個も食べれば合計は6.6リットルだ。新生児が5キログラムくらいで生まれてくることを考えると、赤ん坊の比重の軽さを加味しても、臨月の妊婦と同じかそれ以上の体積の内容物が詰まっていることになる――なんて計算はその場の誰もしていなかったし、する必要もなく一目瞭然だった。
「え、ちょ……え?」
ローグは困惑しながらしゃがみこみ、恐る恐るアイシャのおなかに触れる。アイシャはくすぐったそうに目を細めた。
「ふふ、見ての通り、まだまだ余裕なのですよ」
「……いや!? 見ての通りも何もおなかパンパンだよアイシャちゃん!?」
「少なくとも、これで余裕ってこたねえだろ……」
「ふぇ?」
何を言っているのかよく分からない、と言うようにアイシャは首を傾げた。そのまま自分のおなかに視線を落とし、両手で撫でさする。
さす、さす……
「…………」
そこで数秒間、アイシャの動きが不自然に止まった。
それは二律背反に陥ったり命令の前提条件が崩れたりした際にドールが放心状態になる「スパイク」現象にとてもよく似ていたが、この時のリンバウとローグにその知識はなく、ただ単に突然何かを考え出してしまったように見えていた。
「アイシャちゃん?」
「おい、どうした?」
「……ふぇ!? あ、平気なのです! ちょっとぼーっとしてただけなのです」
二人に声をかけられたアイシャはすぐに復活した。今のは一体、と顔を見合わせる二人をよそに、再びローブをまとって体を隠し、
「じゃあ、オクタボと賞金をもらってくるです!」
「え!? ちょ待っ……アイシャちゃん!?」
「嘘だろ!? って速ぇ!」
二人の制止も振り切って、一人で駆けだしていってしまった。まるで戦闘中のような全力ダッシュだ。
「そのオクタボ、わたしが全部もらうのです!」
件の屋台の前で急停止するや否や、リンバウ達の到着も待たず、大声で屋台主にそう宣言する。屋台主はぎょっとして一言二言アイシャと言葉を交わしたが、やがて肩をすくめ、大きな釜のようなものから丸い物体を取り出した。
こんがり美味しそうに焼けたオクタボ。遠くからでも分かる香ばしくいい匂い。それはリンバウでも普通に食べてみたいと思える出来だった――アイシャの頭と同じくらいのサイズでさえなければ。
その威容を目にした人々が野次馬となって集まってくる。リンバウとローグが追いつくころにはもうアイシャは十人くらいに囲まれていて、屋台主は意気揚々とルールの説明を始めたところだった。
こうなってはもう止められない。割って入ってアイシャを回収でもしようものなら大ブーイング必至、それどころか挑戦失敗と見なされ追加で2万リューズを払う羽目になりかねない。
「はは……こりゃもう覚悟を決めるしかないね」
「……足りねえ分は立て替えてやるよ」
「助かるよ」
もはやローグの目に光はなかった。覚悟とはすなわち、来週のパーティ内報酬分配で自分の取り分がゼロになり、しばらくは組織の配給だけで食いつなぐ羽目になる覚悟である。
どうしてこんなことに、と肩を落とす友人に憐憫を感じつつ、リンバウはふと眉を寄せた。
(……何かおかしい。違和感がある。何だ?)
少し考えて気づく。どうしてこんなことに、などと思うほどに、本来あるべき事の推移から展開がズレているのだ。
アイシャは先程のオクタボの屋台に辿り着くまで、終始周囲を過剰に警戒しながら歩いてきた。勝手に歩きだそうとするニーコを全力で止め、人目に付くことの危険性を真面目に説いた。いつになく真剣なアイシャに何かを感じたのか、ニーコもそれからは大人しくしていた。様々な屋台を巡ったが、アイシャは常に人間の子供に擬態しながら、ニーコをフォローすることに努めていた。
それがオクタボを食べ始めてから、アイシャは人が変わったかのように真逆の行動を取り始めた。大声で店主と会話し、周囲の警戒もやめ、妙なことを言いだしたかと思えば、守るべきニーコを置いてオクタボ屋台へ駆け出した。ニーコの守り手としてリンバウを信頼してくれた、というような様子ではなかった。一体何が――
――トンッ、
「あん?」
突然背中に何か軽いものがぶつかり、リンバウが振り返ると、そこには大きな荷物を抱えた狐耳のラクリマが立っていた。輸送中、と書かれた腕章を身につけている。そこかしこで見かける荷運び用ラクリマだ。
「大変申し訳……ありません、原因不明の……めまいにより……移動経路の選……択が……うまく……」
声は弱々しく、足取りもふらふらとおぼつかず、今にも抱えている箱を取り落としそうになっている。
「おいおい、大丈夫か? 一旦荷物置いて休めよ、汗だくじゃねえか」
「これ……送り元の住所、表街の下層だね。こんなとこまで休まず運んできたの?」
「いえ……先ほど……休憩した、ばか……り……うぅ……」
「おおっと!?」
かくんと膝をつき、腕から貨物箱が滑り落ちる。すんでのところでローグがキャッチしたが、重さに耐えきれずすぐ地面に下ろした。
「ごめんな……さい……」
「あー気にすんな。……ローグ、どう見る」
「寿命って感じじゃないし……脱水症かな、水筒があるのに減ってない。飲まなかったの?」
「あう……」
少女が腰に着けているポーチには水のなみなみ入ったガラス瓶が刺さっている。水分補給を怠ったのだろうか。
「水は……あまり飲みたくなくて……」
「ああ? んなこと言ってる場合かよ、ほら口開けろ」
「…………うぅ」
飲みたくない、とはまた普通のラクリマらしくない言葉だ。命令口調で飲むように促しても躊躇っているあたり、おそらくは軽度の感染個体だろうが、ただ水を飲むだけのことをどうして拒むのだろうか。
一応匂いと味を確かめてみるも、ただの水だ。瓶は裏街の水道を管理している組織が販売している濾過水のものなので、このラクリマを運用している運送業者がまとめて購入して従業員に配っているのだろう。キャップが事前に開けられた形跡もなく、特に不審な部分はない。
そう伝えても少女はしばらく迷っていたが、やがて観念したかのように小さく口を開けた。
「んく……んくっ……」
喉は乾いていたのだろう、リンバウが瓶を口に差し込むと、すごい勢いでまるまる一本を飲み干してしまった。
「なんだよ、いい飲みっぷりじゃねえか」
「……人間さん、私にはこの荷物をお客様のもとまで無事に届ける責務があります」
「お、おう? 何だ急に」
少女は真剣な瞳でリンバウとローグを見上げたかと思うと、ぺこりと頭を下げ、
「お二人をいい人間さんと見込んでお願いします。どうか私が目覚めるまで、この荷物が悪い人に奪われないよう見張っていただきたいのです。当社規定に基づき、非常事態時の輸送補助として追って充分な報酬をお支払い致します。これはラクリマ行動原則第一章三節、自己保存原則による緊急要請です」
そんな「お願い」をした。
リンバウとローグは顔を見合わせる。自己保存原則による緊急要請というのは、主人が十分な対価を支払うことと引き換えに、自分の命を助けてくれとラクリマが人間に要求できる仕組みのことだ。もちろん主人である人間の事前承諾がなければ使えない権利であり、なかなかお目にかかれるものではない。
「えーっと……僕達はしばらくここにいるから、見張ってるのは別にいいんだけど」
ちらりとアイシャの様子を伺いながらローグが答える。
「それが君の自己保存にどう繋がるの? 目覚めるまでってのはどういう……」
「私はもうすぐ長時間の機能停止状態になります。先日私の同僚も同じ状況に陥り、配達物を奪われ、責任を取って翌日処分されました。このままでは私も同じように――――、…………」
「え、ちょっと!?」
流暢に喋っていた少女の目が突然虚ろになり、目の前のローグから焦点が外れた。そのまま動きを止め、物言わぬ石像のようになってしまう。ローグが話しかけても肩を揺すっても目を覚まさず、しかし膝立ちの状態を崩すこともなく、機能を停止した機械のように沈黙してしまった。
この状態を、二人は知っている。実際に見るのは初めてだが、つい先ほど食堂で《水魚の婚礼》の面々から聞いていた。
「リンバウ、これってまさか」
「噂の『動作不良』ラクリマ、か。原因不明って話だったが……」
二人の視線は空になった瓶に向く。明らかにこれが原因だ。飲んでしまえばこうなることを分かっていたから、彼女は水分補給を避けてここまで来たのだろう。
しかしこの水自体は広く流通している。裏街に住む人々にとって決して安くはない値段だが、裏街で生活排水に汚染されていない飲用水の中では最も廉価なものだ。ちょっと周囲を見渡してみただけで、同じものを腰に提げている人間やラクリマが散見される。
他に不自然に動きを止めているラクリマはいなさそうだ。具合が悪そうな人間は――昼間から仕事もせず屋台通りを闊歩しているような人間はもともと酔っぱらいのろくでなしばかりなのでなんとも言えないが、いつも通りの景色に見える。
(いや……違うな。ちょいと前まではこんなんじゃなかった……よな?)
ふと違和感を覚え、リンバウは《モンキーズ》がネーヴェリーデに着いたばかりの頃の様子を思い返す。右も左も分からなかった頃の記憶なので曖昧だが、さすがにこれは……
「なあローグ、最近妙に……酔っぱらいが多くねえか?」
「ん? んー……いつも通りじゃない? 先週もこんな感じだったし」
「いや、俺達がこの街に来たときと比べて、だ」
「この街に、来たとき……」
ローグは黙りこみ、真剣な顔で何かを考え出した。視線が千鳥足の酔っぱらいに向き、一心不乱にオクタボを頬張り続けるアイシャに向き、動かなくなってしまったラクリマに向き――止まる。
「まさか……いや、さすがにそれは……」
「ん、何か気づいたのか?」
「いや……まだ妄想の類……だけど」
ローグは何かを恐れているように視線だけで周囲を見回し、
「リンバウ、ルンって確かもう手空いてるんだよね」
「ん? ああ、『子供熱』の件は一段落したっつってたな」
「なら……今晩集合したときに話そう。リリムちゃん達にも聞いてもらった方がいいね。あと……もしかすると『ローレライ』ともどこかで繋がる話かもしれない」
「!?」
ローレライ、それは《モンキーズ》が今「本業」として請け負っている仕事のコードネームであり、その調査対象になっている怪異の呼称でもある。
「聞き耳立てられちゃマズい類の話か」
「そういうこと。……嫌な予感がするんだよね。もしかすると僕達は今――災害の真っ只中にいるのかもしれない」
大げさな、と普段なら笑い飛ばしていただろう。しかしリンバウはその言葉を生唾と共に飲み込んだ。最近、どうにも不可解なこと、想定外のことが起こりすぎている気がするのだ。
三ヶ月前にこの港町に来た頃はもっと平和だったはずだ。イレギュラーな事態と言えば「ローレライ」などというオカルトじみた噂だけ。その噂の出処を突き止めて解決するだけで高額報酬が手に入るという、楽な仕事だったはずなのだ。
だというのに、想定の三倍以上の調査期間を経てなお噂の尻尾を掴めずにいるどころか、次々と別の問題が発生して便利屋のごとくたらい回しにされている。
謎の怪異、ローレライ。
子供にだけ感染する謎の病。
裏街の水路の水量異常。
溢れかえる酔っぱらい。
謎の動作不良ラクリマ。
加えて、組織内での予算の中抜きやら、表街の自然水路の漁獲量の低迷やら、……細かい不安要素まで挙げればキリがない。
「災害……アイシャの嬢ちゃんがああなっちまったのも、か?」
「僕の仮説が正しければ……おそらく」
アイシャは一心不乱に巨大なオクタボを食べ続けているが、先程より大分ペースはゆっくりになっている。ギブアップは近そうだ。
「なら、被害はお前の財布だけに抑えたいもんだな」
リンバウは冗談めかして笑い、ローグは大きく溜息をついた。
この後アイシャがオクタボを全て食べきってしまう可能性など、彼らは一片足りとも考えていなかった。