まるで夢のような Ⅱ
ナツキがフィンと川流れをしていた頃、リンバウはローグと引きつった顔を見合わせていた。
「お……おい、金は持ってきてんだろうな」
「いやうん、多めに持ってきちゃいるけどね……」
小声で言葉を交わしながら、ローグがそっと開いた財布の中をリンバウも覗き込む。さすがに今日足りなくなることはないだろうが、このペースでいくと明日以降の余裕はない、それくらいの金額が入っていた。
「あ、アイシャちゃーん……?」
「ふぁいなのれす~?」
ローグが恐る恐る声をかけた先、「オクタボ」と幟が立てられた屋台の前に立っているアイシャが振り向く。その小さな口をリスのように大きく膨らませて、幸せそうな笑顔で。……いや、フードで隠れて目元は見えないのだが、彼女が今幸せのただ中にいると判断するにはそのほんわかした口調だけで充分だった。つい先程まで蛇に睨まれた鼠のように縮こまりながら歩いていたのに、あの警戒心はどこに消えてしまったのだろうか。
もぐもぐ、ごっくん、とアイシャの頬袋が元に戻る。
「はわぅ……このオクタボ、カリカリでふわふわで、とっても美味しいのです! 夢みたいな一日なのです……おじさん、もうひと舟くださいです!」
「あいよ! 嬢ちゃん、いい食いっぷりだなぁ!」
屋台の店主が笑顔でアイシャに応じ、船型の紙皿に大きなオクタボを六つ並べて出した。
いや、いい食いっぷりだな、だけで片付けないでほしい。目の前で起きている異常事態を止めてほしい。十個近く積み上がった空の紙船を見てせめて違和感を覚えてほしい。
「好きなだけ食べていいって言われてるです! ローグさんはとっても太っ腹でいい人なのです」
「へぇ、なんだあいつ、女なら子供でも見境ねぇのかぁ? なら遠慮はいらねえ、奴の財布を空にしてやれ! それがあの女たらしに奢られる奴の礼儀ってもんだ!」
「ふぇ、そ、そうなのです?」
「そうだ! 男に二言はねえ!」
「分かったのです!」
「ちょ待っ……」
顔なじみのオクタボ屋台の店主は当然、後ろから見守っているローグとリンバウにも気づいていて、手を伸ばしかけたローグを制するようにニヤリと笑みを向けてきた。男に二言はないよな、とでも言うように。
「あの店主、完全に面白がってんな」
「いやまあ、ね……言ったともさ。確かに。好きなだけ食べなって言ったともさ! アイシャちゃん細すぎるから心配で! 今日くらいお腹いっぱい食べなって! はあぁぁ……」
ローグが小声で叫びながら頭を抱える。気の毒だが、自業自得な部分も否めない。
しかし予定外の出費はリンバウ含め他のパーティメンバーにも影響する。本来の仕事以外にもいくつか稼ぎを見つけに行くか、と予定を思い返すリンバウの腕の中で、もぞもぞと温もりが動いた。
「なぅ、にーこも、おなかいーぱい……」
「おう、ニーコの嬢ちゃんもよく食ったな」
リンバウに抱かれながら屋台通りに来たニーコは、目につく珍しい食べ物全てに目を輝かせ、あれもこれもとねだってきた。綿菓子から始まり、水飴、焼きそば、イカ焼き、その他諸々。
今日はリンバウがニーコ、ローグがアイシャを便宜上「持ち物」として連れ歩いている。ニーコの出費はリンバウの財布から賄うことになっているので、ぼったくりな店は却下してきたのだが――ニーコのおねだりはなかなかに心に直撃するものがあり、気づけば相場の二倍くらいまでの店は許容してしまっていた。これではレイニーやルンのことを言えたものではない。
ニーコはその上でアイシャと同じオクタボを一舟平らげ、今はリンバウの腕の中でうとうとしている。食べたあとで眠くなってしまうのは人間もラクリマも同じらしい。
「なふぅー……にぅー……」
瞼は落ちてきているが、なかなか寝付かないのは息苦しさのせいだろう。最後はアイシャに張り合うようにかなり無理をして食べていたようだったし、今日の夕飯は食べられなさそうだ。
「……こっちが普通なんだよな」
ぽっこり膨れたニーコのおなかをさすってやりながら、リンバウはアイシャの後ろ姿を見る。
実はアイシャはこれまで、ニーコと同じものを同じだけ食べてきている。もちろん人間で言えば五歳児と八歳児なので、身長が頭ひとつ分くらい違う程度の体格差はある……のだが、どう考えても追加でオクタボを50個以上収められるほどの差ではない。
「いやマジで、あのほっそい体のどこにあんなに入るのさ……」
「ラクリマの身体構造は人間と同じ……つってたけどな、おやっさんは」
つい先程、出発前に二人はローブを着ていない状態のアイシャを見ている。スピード型のドール用装備は腰周りがむき出しなので、アイシャの腰の細さは一目見れば分かった。
くびれて細いのではなく、胸から股までほとんど起伏のない寸銅体型。体は人間の幼女と同じなのでそれはそうなのだが、ネーヴェリーデで見かけるラクリマ達と比べて肉付きはかなり薄く、うっすらあばらが浮いているほどだった。ウエストだけ測ればニーコといい勝負だろう。
困惑しながら二人が見守る中、アイシャは10分以上オクタボを食べ続けていたが、この世界には抗えぬ物理法則というものが存在する。やがて限界の時が訪れた。
「悪いな、もう種がねぇや! また今度来てくれな、大食いの嬢ちゃん」
「はわぅ……残念なのです」
そう、屋台に用意されていたオクタボの材料は有限だったのだ。
「いやそっち!?」
リンバウの心の叫びがローグの口からツッコミとなって飛び出した。
アイシャはそれには反応せず、しょんぼりした顔を上げると屋台の店主に熱く語り始めた。
「たぶん、しばらくは無理なのです。でもきっとまたいつか来るです! 今度はナツ……お友達も一緒に来るですよ!」
「おお、そうか! ならダチ誘いに行く前に一度寄ってくれよ、種を補充しといてやっからな! でもって……おいローグ、お代!」
「……はは、分かってるよ」
魂の抜けたローグが財布を手に歩いていく。その間に店主は積み上げられた紙舟の数を数え、
「22舟! はっは、すげぇな嬢ちゃん! 一舟六個だから、しめて……ええと」
「132個なのです」
「だな! 132……え、132個?」
店主はふと我に返ったようにアイシャを見つめた。
「なのです。……間違ってるです?」
「いや、計算は合ってるけどよ……嬢ちゃんいくつだ?」
「えっと、8歳くらいなのです」
「そ……そうだよな」
「?」
つつ、と店主の視線がアイシャの口元から下に向かう。そこには全身を覆うぶかぶかのローブがあるだけだ。
どうやらこの店主、やっと違和感に気づいたらしい。どう考えても子供が食べられる量ではないと。
しかし、
「……まあいいか! 一個200リューズだから26400リューズな、毎度あり!」
難しいことは考えない性格らしく、店主はホクホク顔でローグから1リューズも負けずに金を巻き上げていった。
ちなみに表街の地元民向けの店では精々一つ50リューズ程度、屋台通りでも良心的な店なら100リューズ程度なので、この屋台はぼったくりである。本来なら候補から外すところだが、何かあったときの保険として顔なじみの店を選んだのだ。
店主曰く値段の差は「いい水を使っているから」らしく、それは嘘ではないようなのだが、オクタボの味にどれだけ寄与しているかは不明である。
☆ ☆ ☆
「…………」
「あ……あの、ローグさん、ごめんなさいなのです。わたし、オクタボがそんなに高いって知らなくて……その」
「はは……気にしないでアイシャちゃん、おなかいっぱい食べられたならそれが一番だからさ」
「あぅ、でも……」
最後、ローグに提示された総額を耳にしたアイシャはビクリと肩を震わせた。本当に全く相場を知らず、「財布を空に」というのは店主の冗談だと思っていたのだろう。ローグが代金を支払ってからずっと申し訳なさそうにおどおどしていた。
手持ちの金をほとんど失い、来週の報酬分配日まで一切遊べないことが確定したローグは、アイシャの前でかっこいいお兄さんとして見栄を張ることも忘れ、ほとんど放心状態になっていた。今は屋台通りの本道から外れ、無数にある小さな横穴の一つに設えられたベンチで休憩中だ。
「こいつの言うとおりだ、気にすんな。アイシャの嬢ちゃんに腹いっぱい食わせてやりたいって言い出したのもこいつ、好きなだけ食えっつったのもこいつなんだからよ」
「うぅ……じゃあわたし、何か恩返しするです! 恩返しは大事だってラムダさんも言ってたです。何か困ってることがあったら相談してほしいのです!」
アイシャは全く引き下がらない。その姿を見てリンバウが思うのは、おやっさんに聞いたラクリマの性質とアイシャの行動原理には大きな差があるということだ。
アイシャの自我の強さ、物事の考え方はあまりにも人間に近い。おやっさんによれば、感染個体であっても一度ドールとして調整を受けると自己の核心が不可逆に書き変わってしまい、首輪の戒めや人間からの命令が一切ない状態に置いても自我を取り戻すことはほぼできないそうだ。
しかし今のアイシャはニーコと同じ、生まれてすぐに感染して調整されずに人間と暮らしてきたラクリマと同等の自我を持っている。
(ナツキの嬢ちゃんの存在がそれだけ大きいってことか……)
腕の中、幸せそうに寝息を立てるニーコに視線を落とす。ナツキはニーコを取り戻すために聖窩に乗り込み、聖騎士や天使と戦って生還した。それほど大きな愛情を向けられれば調整など跳ね除けられるとか、そういう愛と気合と根性的な話なのだろうか。
(もしくはアレだな、もう一人の天使様って奴が何かしてやがるか)
ナツキ達の話によれば、アイシャの中には《塔》の天使とは別の天使が眠っているらしい。なんでもアイシャが摂取したエネルギーの一部を使って生きているという、言葉を選ばず言えば寄生虫のような存在らしいのだが……正直、知らないほうが幸せな部類の情報だ。《塔》の天使の他にも天使がいる、なんて情報を持っている一般人が口封じの対象にならないわけがない。
もっともその話をする前にナツキは一旦口を止め、厄介事に巻き込まれたくなければ聞かないほうがいいと忠告してくれた。リンバウ含め誰もその場を去らなかったので、完全に自業自得なのだが――
「ちょっアイシャちゃん! それは無茶、無茶すぎるでしょ!」
ニーコの寝顔を見ながらぼんやり考えを巡らせていたリンバウの耳に、ローグの大慌ての叫びが飛び込んできた。我に返って声の方を見ると、どこかに行こうとするアイシャの腕をローグが掴んで止めていた。
「平気なのです! こんなチャンス逃したらきっと後悔するですよ!」
「いやそういう問題じゃないってば!」
「おい何だ、どうした?」
「聞いてなかったのか、ほらアレだよ! アイシャちゃんがアレに挑戦するって」
アレ、とローグが指し示した先、一人の男が小さな移動型の屋台を転がして屋台通りに入っていく。そしてその屋台には、派手な色で宣伝文句が書き込まれた大きな幟が括り付けられていた。
『本日限定! 獲れたてオクテルパの巨大オクタボ、一人で完食したら賞金2万リューズ!』
――いや、それは……無理だろ。