まるで夢のような Ⅰ
「返せよッッ!!」
その叫びがネーヴェリーデの空にこだましたとき、ちょうどナツキはハロと一緒にネーヴェリーデのハンターズギルドに向かっている途中だった。いつハロが目を覚ましたかよく覚えていないが、とにかく何かすることがあってギルドに来たのだ。……?
叫びが聞こえたということは非常事態だ。《気配》術で前方をスキャンし、一人が数人に囲まれている現場を捉えたときにはもうナツキは走り出していた。
「わ、ココナお姉ちゃん!?」
「誰かが襲われてる! 多分ラクリマだ、助けないと!」
「え、えっ!? でも……」
一人を囲んでいる数人のさらに周囲には大勢の人がいて、しかし彼らは何もしようとせず、感情の向き先は囲んでいる数人に集中している。
このスキャン結果は見覚えがある――まだアイシャがレンタドール社のドールだった頃、公衆の面前でオペレーターに頬をつねり上げられ罵倒されていた、あの時と同じだ。中心にいるのはラクリマに違いない。だから当然何をおいてもすぐに助けなければ。
……?
あれ……合ってるよな。
困ってる人がいたら助ける、当たり前だ。勇者である以前に人間としても。今の最優先事項が魔王軍との戦いであることは重々承知しているが、その途中で出会う人々を見殺しにしていい理由にはならない。
「お姉ちゃん、待ってっ、ハロ、くるしくて、はしれないよ」
「大丈夫、ハロは待ってて!」
何故か動きが遅くなっているハロを置いて、足に気を通して加速する。周囲の人間が驚いていた気がするが、大した問題ではない。すぐに現場にたどり着き、
「《気迫》ッ!」
翼の生えた少女を取り囲んでいる五人の男女に殺気の束を浴びせて気絶させつつ、投げ捨てられた光る物体を追う。少女の様子からして大事なもののはずだ。それは石橋の縁を越え、海へと落下していく。
ああ――好都合だ、ちょうど水に飛び込みたい気分だったのだ。
石橋から飛び降り、その物体に手を伸ばし――届かない。このままでは落ちたあと見失ってしまう。気を練って疑似質量を作り風を起こすのは間に合わないか。ああ、なら《転魂》術でも使って無茶すればいいか――と思いきや、ちょうど海風が吹いたのか、その物体はクイッとナツキの方へ進路を変えた。チャンスだ、と両手で包み込み、その一秒後、
――ザパァン!
衝撃と共に、体が冷たい水に沈む感覚。淡水だ、海ではない。どこかの水路に落ちたらしい。
少し遅れて同じように何かが落ちてきて、水流が乱れる。まずは水面に出なければと目を開き、粘膜を冷水の刺激に慣らし、光の方角へ向かう。
「…………!?」
――この辺りで、ナツキは目を覚ました。
ついさっきまで、まるで白昼夢を見ているかのように意識の一部が朦朧としていた。それが、肌と目を刺す冷感によって無理やり叩き起された。
(え……何で俺、こんなことしてるんだ?)
不可解な疑問が胸の中を渦巻いていた。
ハロと一緒にベンチで休憩していたことは覚えている。それで、そろそろ出発しようとハロを叩き起こした。ハロは何やら困惑顔でこちらを見て、……そりゃそうだ、無理やり起こすような場面ではなかった。何でそんなことをしたんだ? あとでちゃんと謝らないと。
(俺……いや、ボクは……なんか頭が重い……)
うたた寝してしまって何かしらの精神攻撃を受けたのだろうか。瞬時に自身の魂を軽く走査するが異常はなさそうだ――いや、今異常が解消したことで正気に戻ったのかもしれない。
(恨まれるようなことした覚えは……うん、結構あるな……)
まさか《塔》の攻撃を受けたか。何にせよ再び同じ手は食うまい、と対精神攻撃用の防壁を厚めに張り直し、魂を防護しておく。
(《遊魂》術に精神防壁……アイシャにも教えておかないとな)
気の循環路のレイヤーを肉体から少し離して、間に薄いバリアを張るイメージだ。敵に精神攻撃を仕掛けてくる相手がいるなら、練気術士としては持っておきたい技能である。幽体離脱に近い感覚が必要になるので難易度は高いが、アイシャならすぐに習得してしまいそうだ。
(とにかく、水面に……これ、あの子に渡さないと)
まずは目の前のこと、と水を蹴って浮かび上がり、同じように目の前の水面に顔を出したラクリマの少女にペンダントを手渡す。
「はいこれ、大事なものなんでしょ? 壊れてないといいけど……」
「あ、ああ……」
少女は呆然とペンダントを受け取り、とても眩しい光を見るようにナツキを見つめた。少女の後頭部に並んだ小さな羽が震え――空気中にパチパチと青白い稲妻が走った。
「っ……!?」
羽は忌印だろう。だが恐らく今の放電は……
(……まずいな)
ある情報を思い出し、作った笑顔の裏で冷や汗が吹き出す。
ラクリマの少女はナツキの心境などお構い無しに熱い視線を向け続けていたが、やがてその両目がじわりと潤みだした。
「その、なんだ……ありがとな、もうダメかと思ったぜ。これ、マジで大事でっ、ほんとに、っ、感謝しても、しきれな……ぐずっ、あークソッ、なんで泣いてんだオレ!」
乱暴に涙を拭ってにっと笑みを浮かべ、
「とにかくサンキュな! オレはフィン=テル=パセル、《塔》のG3大隊の大隊長……っつっても子供じゃ分かんねーか? あれだ、《塔》で神獣と戦ってる喋る人形な」
「ボクはココナ、人間だよ。《塔》で神獣と……ってことは、キミってギフティアってやつだよね? ボク初めて会ったよ!」
ナツキも微笑みを返す。何も知らないフリをしながら――そう、自律行動していて翼の生えた雷のギフティアという、どう考えても《塔》がよこした追っ手としか思えない少女の前で、善良で優しい一般通過幼女を全力で演じながら。ついさっき何故か人前で雑に使いまくった練気術のことは今すぐ忘れてくれと、必死に祈りながら。
☆ ☆ ☆
そして、現在。
フィンは目の前に指名手配犯がいるなどとは考えもしていない様子で、なんの警戒もせずナツキと雑談を盛り上げていた。先程受けた精神攻撃の術者というわけではないようで、今のところは怪しまれていない。
「ホントはよ、オレは部隊の奴らと一緒に神獣と殺り合いに行くのが仕事のはずなんだよ。リーダーとして部隊を指揮しねーといけねーのよ」
このまま水流に流されていけば数分で大きな石柱に辿り着くので、あえて水路から脱出はせず川流れを続けている。
暇つぶしの雑談の話題はお互いの呼び名から始まり、ナツキとハロの関係についてを経て、今はフィンの愚痴を聞くフェーズに入ったところだ。適当に相槌を打ちながら、機密がいろいろと混ざっていそうなフィンのお喋りを聞き流していく。
「なのにエルヴィートのおっさんと来たらよー、発電機代わりにされるわオレ一人で指名手配犯探しに駆り出されるわ、ほんっと何考えてんだって……あ、これ愚痴ってたことおっさんには秘密な、あんなんでも一応聖騎士だから」
「あ、あはは……大変だね」
にー子奪還作戦の途中で電力が戻ってしまったのは雷を操るギフティアを連れてこられたせい、というのは作戦後にヴィスコ達から聞かされていた。頭の羽が放電し始めたときからうすうすそんな気はしていたが、やはりフィンがそのギフティアらしい。
フィンを恨むのは筋違いだが、少し複雑な気分で乾いた笑いを返す。
「あー悪ぃ、つまんねー話になっちまった。ま、《塔》の話なんて全部つまんねーしな……そうだ、ココナの話も聞かせてくれよ! お前ちっこいけどハンターだろ?」
「え!? な……何でそう思ったの……?」
突然ナツキの正体の話に切り替わってしまいヒヤリとする。恐る恐る聞き返すと、フィンは得意げに語り始めた。
「そりゃだって、聖石兵装埋めてる人間の子供なんてハンターかオペレーターくらいだろ? さっきの動きを見た感じ、オペレーターならランクCかBってとこだ」
どうやら先程の練気術は聖石兵装による身体強化だと思われたようだ。あの状況でよくナツキの動きを追えたものだと思うが――パセル種は目がいい、だったか。
「でもってそんな強いオペレーターなら神獣と何度も殺り合ってる。ならオレが知らないわけがねーからな。どうだ、完璧な推理だろ」
「なるほどね。うん、一応ハンターだよ」
ハンターなのは嘘ではない。隠したほうが怪しまれてしまいそうなので肯定を返すと、フィンは得意げににしし、と笑った。
しかし「知らないわけがない」とはなかなか大それた表現だ。まさかCランク以上のオペレーター全員と知り合いなのか。結構な数がいるはずだが――という疑問をそのままぶつけてみると、フィンは「や、知り合いってのはちょっと違うな」と首を横に振った。
「話したことある奴なんかほとんどいねーしな。さっきのは単に、オレはB級以上の神獣との戦闘記録を毎日全部見てるってだけだぜ」
「……え?」
「だからBより上の連中は全員戦い方のクセとか分かるし、Bに挑んで生きて帰れたCの連中のことも大体知ってる……って感じだな! あー、だからCで満足しちまって上目指してねー奴らのことは知らねーや」
「ちょ、待って……戦闘記録を全部見てる!? 全部って……」
「おう、アイオーン経由で収集されてるやつは毎日全部見てるぜ! ……つっても大体はホロウベクタに狩られてっからな、アイオーンから《塔》に記録されんのはせいぜい一週間で合わせて百個くらいだけどよ」
フィンはそう言って肩をすくめるが、それでも充分手に余る多さだ。一つ五分としても八時間以上を費やしている計算になる。
そもそも戦闘記録の分析など一人の兵士が片手間にできることでないだろうに――と思うが、そういえばフィンは先程「大隊長」を名乗っていた。
「オレが指揮ひとつ間違えただけでギフティアが十体以上星に還っちまうんだ。やれることはやっとかねーと」
「フィン……」
ちょうど回想を補足するように続けたフィンは真剣な目をしていて、その地位も覚悟も伊達ではないことが伝わってきた。ナツキと同じくらい小さな見た目からは想像もつかないが、この少女は立派に一人前の戦場指揮官なのだ。
「フィンの部隊のみんなは幸せだね、いいリーダーに恵まれて」
「んなっ……、何だよいきなり!?」
「思ったことを言っただけだよ。フィンはすごくいい指揮官だと思う」
「ちょおい、やめろってバカ、恥ずいだろ!」
あまり褒められ慣れていないのか、フィンは顔を赤くして視線を彷徨わせ始めた。パチパチと小刻みに後頭部の羽が放電を繰り返している――どうやらアイシャやにー子の猫耳みたく、感情が無意識に反映されているようだ。
「……あ! お、おい、見ろよ、もうそろそろあの柱だぜ!」
「え? あ、ほんとだ」
話題を無理やり打ち切ってフィンが指し示した先、中層の穴に水が流れ込む大きな石柱の上から、ハロが手を振っているのが見える。その隣には何故か水着姿のラッカとレイニー、ルンもいた。
ハロ達のいる場所に行くには石柱を登らなければならないが、内部に水が流れ込んだ先に登れる構造はあるのだろうか――と柱を観察し始めたところで、
「よーし、オレの出番だな!」
「え? ……え、ちょっ!?」
「暴れんなよー、っと!」
後ろから脇の下に腕を入れられ、そのまま胸の周りをホールドされ、次の瞬間には――空中に浮いていた。
バサ、バサ、と大きな羽ばたきがすぐ近くの空気を叩き、気流が生まれているのが分かる。フィンが翼を広げて飛んでいるのだ。
「ちょっとフィン、大丈夫!? その翼って他の人抱えて飛べるの!?」
「へへっ、当然だろ! ……10秒くらいもつぜ」
「短っ! ってか手震えてるじゃん、無理しなくていいよ!」
「うっせ、そんだけありゃ充分だ! 見た感じあのおっぱいでっけー姉ちゃんお前の知り合いだよな?」
「え!? ルンさんのこと!? まあうん知り合い……ぎゃあああああ!?」
ナツキが答え終える前に、フィンはナツキをぽいっと投げ捨てた。
「わり、思ったより重かった!」
「はあぁん!?」
女の子になんてことを言うんだ、と場違いな文句が口から飛び出かけるのを抑え、着地のほうに意識を向ける。落ちる先はハロの少し向こう、こちらを指差して慌てるラッカ達の中心にぼんやり立つ、やたら肌色面積が多く柔らかそうな――え、紐水着?
「うおああちょおおぉぉぁあルンさん避けて避けて避けて!」
慣性制御で抑えられる速度を超えている。このままでは身体強化済のナツキはともかくルンが怪我をしてしまう、明らかに胸の弾力でどうにかなる距離ではない、と叫ぶが間に合わない。それどころかルンは覚悟を決めた表情で両腕を広げてこちらに向けた。
「無理無理無理だから早まらないでっ……え?」
ルンの胸に重力加速度を乗せたロケット頭突きが直撃するまさに直前、ルンの目がキラリと光ったような気がした。
ナツキの動体視力をもってしても追い切れない速度でルンの両手がするりと動き、飛び込んでくるナツキの脇の下に滑り込む。そのまま体を横にずらしつつナツキの胴体を保持、体を回しながら後方へ高速ステップを踏んでいく。
「ほ、よっ、それ~っ」
「わ、わ、わぁぁあああ!?」
ぐるぐるぐるぐる、世界が回る。遠心力に足を引っ張られながら、回る世界の中心でステップに合わせてぷるんぷるん暴れる二つのボールに目がいく。やっぱり紐だこれ! 公共の場でなんてもん着てんだこの人!
ルンは器用にナツキの衝突速度を角速度に逃がしながらぐるぐると回り続け、やがて回転が遅くなっていき――むにゅっ。
「ふぅ~、大丈夫~? ナツ……ココナちゃん~」
「ん、んーっ、んーっ!!」
「ちょ、ルン、今まさに大丈夫じゃなくなってるわよ」
「はえ~?」
顔を抱きしめられ、口と鼻が完全に山と山の間に埋まり、息ができない。しかしはちゃめちゃに柔らかい、何だこれ。布越しじゃないとこんな感じなのか。そういえば《モンキーズ》の面々が《陽だまり亭》から旅立つときも似たようなことがあったな。懐かしいな。……あの頃はまだ、性欲あったよなぁ。
「んぷはっ! ちょっとフィン――」
巨大マシュマロの谷から顔だけ脱出し、首を捻って空を見上げる。
「――あれ?」
危ないことをするな、と文句を言おうと思っていた相手は、いつの間にかどこかに姿を消してしまっていた。