フィンのこれまで Ⅰ
天使の雫と天使の血、そしてその二体を連れているナツキ、リリムという人間の捜索、動向の監視と定時連絡ののち、無力化と回収。それがG3大隊の大隊長、フィン=テル=パセルの受けた指令だった。
「捜索……って、目星はついてんのかよ?」
「無論」
ピュピラ島の中心、聖窩上部の「蓋」の一室。作戦デスク上に水平に浮かび上がるホログラムの世界地図を挟んで、フィンは作戦指揮官たる聖騎士エルヴィートと向かい合っていた。
「ここだ、奴らは必ずこの街を訪れる。……いや、もう訪れているだろう」
「あん? 港か?」
エルヴィートが指し示したのは、ジーラ大陸の南端の一点だ。指の動きに合わせて地図の縮尺が変わり、詳細な地形が表示される。
半島と呼ぶには小さい、南向きの陸の出っ張り。その西側をえぐるように直径1キロメートルほどの円形の湾が形成され、鉤爪のような形になっている。
「港町ネーヴェリーデ。我らの手から逃れようとするならば海を渡るは必定。ゆえに奴らは必ずこの港を通る」
「……そうか? 海なら反対側もあるだろ」
フィンは地図の縮尺を戻し、ジーラ大陸の北端にある港マークを指し示した。この世界が南北方向にループしている、つまり世界地図の左右の端で繋がっていることくらいはフィンでも知っている。北端の港から海を渡るルートも存在するはずだ。
しかしエルヴィートは首を横に振った。
「彼奴らの最終目的地は十中八九カロノミクノだろう。確かに貴様の言うとおり、距離だけ見れば南北どちらの旅程を取っても変わらぬ。だが……」
エルヴィートはジーラ大陸の北方、他の陸地からは孤立した歪な円形の大陸を拡大して見せ、
「北から目指すならば、ペルギネ大陸を越えねばならぬ。無限の荒野と我ら《塔》の施設しか存在せぬ彼の地を逃げ道に選ぶほど、彼奴らも愚かではあるまい」
「ほーん、なるほどな。裏をかくのは危険すぎるのか……」
しかしそれなら当然彼らも待ち伏せや追っ手を警戒しているはずだ。ナツキとかいう人間まで回収対象なのがよく分からないが、他の標的は天の階が二体。そう簡単な任務にはならないだろう。
「理解したか? 現地到着後の行動指針は貴様の裁量に任せる。他に質問がないならば早急に作戦行動に――」
「あー待て、あるぜ質問。何でまたオレなんだよ? こないだ充電まだ終わってねーのに呼び出されてからなんか調子わりーんだけど。てっきり充電の続きしてこいって言われるんだと思ってたのによー」
いつものことながら、聖騎士達のラクリマ遣いは荒い。ラクリマの使命は人間に仕えて世界を救うことである、というのは分かってはいるが、こうも連日連夜働かされると文句の一つも言いたくなるというものだ。もっとも充電は充電で心休まるものではないのだが。
さて、エルヴィートの反応は罵倒か無視か。星涙の分際で口答えするな、といういつもの定型句が飛んでくるか。
ギフティア部隊に配属されてはや12年、最初はその高慢な理不尽さに憤りもしたが、もう慣れてしまった。感情を完全に奪われて道具のように扱われているドロップス達に比べれば、自分たちギフティア部隊は遥かに恵まれているのだ。
しかしフィンの予想に反し、エルヴィートは妙な反応を返した。
「……それについては、すまないとは思っている」
少し顔を伏せ、何やら複雑そうな表情でそんなことを言ったのだ。
「は? え、おっさん? なんだよ、おっさんもどっか調子わりーのか? いつもみたいに星涙の分際でなんたらって言えよ」
「……何だ貴様、罵倒されたいのか? そういう趣味なのか?」
「なわけあるか! ……おっさん、なんか人が変わっちまったみてーに元気ねーな。こないだの失敗でメルるんに人格まで入れ替えられちまったのか?」
フィンがフィルツホルンからピュピラ島まで緊急召還された原因となった大規模テロ。聖騎士エルヴィートはその日聖窩の防衛を任されており、結果としてそれは失敗に終わった。
機密度が高くフィンに詳細は知らされていないが、主犯がナツキという人間の小娘で、天使の雫と天使の血が盗まれたということは知っている。しかも、部隊内でまことしやかに囁かれている噂によれば、エルヴィートの管理下にあったはずの天使の剣がテロに加担していたらしい。
話を聞く限りでは確かにエルヴィートの大失態だ。しかし今でもエルヴィートは聖騎士長の座を下ろされていないし、メルクの胎内で精神を破壊されるような重い処罰は免れたのではと思っていたのだが。
「フン、我は我だ。天使の胎も今は……否、とにかく、聖下は寛大にも我に名誉挽回の機会を下さった。なれば我はその期待に応えるのみ……だが」
ふとエルヴィートはフィンの腰に目をやった。
「その時の聖剣、抜いてみよ」
「は? いきなり何だよ……まあいいけど」
命令通り、腰に吊っている二本の短剣を鞘から抜く。自身の奥底にヒビが入る感覚と共に、刀身に寒々しい氷色の輝線が走った。
「手合わせでもすんのか? もうあんま残量ねーから、何かやるなら早くしてくれよな」
「……少し我慢せよ」
「は? おい、何を――んむっ、!?」
エルヴィートは黒い丸薬――ドール用Ⅰ型燃料を取り出したかと思うと、素早くそれをフィンの口に含ませた。「飲め」という命令通り飲み込むと、胃の中で殻が割れたのが分かった。
普段ギフティア部隊が栄養補給に使うのはⅡ型燃料であり、Ⅰ型ほど胃の容量を圧迫しない。いつもの一食分を優に超える量の液体が腹を満たし、ドロップス連中はこんなに腹がたぷたぷの状態で戦ってるのか、と思う。
「実験だ。そのまま一分、何があろうと時の聖剣を手放すな。これは厳重命令である」
「厳重命令!? お、おう……分かった」
アイオーンを握る、なんてことに首輪を通した厳重命令が下されたのは初めてだ。一日ずっと握っていろ、などと言われれば寿命残量的に逆らいたくもなるが、一分などCランク神獣との一戦程度。日常茶飯事である。
一体何を、と訝しみながらも剣を手放さぬようぎゅっと手に力を入れるフィンに、エルヴィートは聞き捨てならない言葉を続けた。
「案ずるな、その薬の効力は一分で切れる。後遺症もない」
「薬!? 燃料じゃ……んっ……!?」
「天使の胎の体液を調整してⅠ型燃料の殻に詰めたものだ」
天使の胎の体液。それはつまり、気を失うまで快楽漬けにされ、理性を蹂躙される「お仕置き」の薬だ。まだお仕置きを受けたことのないギフティアの中には「でも気持ちいいんでしょ?」などと軽く見る者もいるが、一度でも体験すれば二度とそんな言葉は吐けなくなる。かく言うフィンもその口だった。
「お、おい、何でだよ! オレが何したって……あっ、やめろ、いやだ、んんぅ……っ、悪かったって、ぁ、生意気言って、ぁっ、んふぅっ……」
「これは仕置きではない。抵抗するな、快楽に身を任せよ」
「は、ぁ……っ?」
どんどん身体が熱くなり、頭が痺れていく。意思に反して体が跳ね、足に力が入らず、ガクガクと震える。
そのまま床に崩れ落ち、ぱたりとうつ伏せに倒れ――
「ん、ぁひぁ、おっ――!?」
シャツと短パンの間で露出していた腹部が冷たい床に触れた瞬間、まるで腹から頭へ電流が流れたかのような強烈な快楽に襲われ、意識がバチバチと明滅した。もしかすると異能が暴走して本当に放電してしまっていたのかもしれない。
意識が飛びそうだ、しかし絶対に剣を手放してはならない。首輪に書き込まれた厳重命令が無意識に働きかけ、本能のように体が動き、双剣の柄をきつく握りしめる。
「ふむ……やはり、な」
冷静に何かを分析しているようなエルヴィートの声。何がやはりだよクソが、と言い返す余裕もない。
ただ、霞みぼやけた視界の端、握りしめたアイオーンの辺りで、あたたかな茜色の燐光が舞ったような気がした。
快楽の波は、エルヴィートの言葉通り一分ほどで嘘のように収まった。
「0……否、しかしこれでは使い物には……」
エルヴィートはしばらく難しい顔で何かを考えていたが、やがて嘆息しつつ「……結論は同じか」と呟いたかと思うと、仰向けで荒い息を整えているフィンの手を取って助け起こしてくれた。
「実験は終わりだ、事象を確認できた。協力に感謝する」
「クソっ……あのなあ、オレが魚みてーに跳ねてるの眺めて何が分かったんだよ! 知ってるぜ、おっさんみてーな人間のこと、ヘンタイロリコンエロガッパって言うんだ。キルっちが教えてくれた」
「……。ネーヴェリーデ行きをやめて、一日中実験の被検体に……」
「おっと、もう質問も文句もねーからソーキューに作戦行動に移るぜ! じゃーなおっさん!」
不穏な言葉をかき消すように叫び、フィンは翼を広げて窓から飛び立った。
去り際、フィンは振り返って渾身のあかんべーをエルヴィートに叩きつけた。フィンのパセル種としての優れた視力はエルヴィートの苦笑を捉えたが、彼が最後に呟いた言葉を聞き取ることはできなかった。
「……それは貴様の最終作戦だ。自ら選択し、悔いなきように生きよ、フィン=テル=パセル」