Lhagna/τ - くまさんとはちみつ Ⅲ
「はっ……はっ……」
「トスカナ、大丈夫かね……?」
「はっ……はな、し、かけないで、ぅぷ、くだ、ひっ、はぁっ」
一時間後、トスカナはベッドの上で苦しんでいた。
魔王軍との戦い、そしてその後の一年間、こんなにも辛く苦しい戦いがあっただろうか。いや絶対にない。先の相手は魔王をはるかに凌ぐ強敵だった。
まず第一ラウンド、コカトリス・オムレツ。トラケラと同じくらい大きな魔鳥の大きな卵を丸ごと一つ使って作られた大きなオムレツは、ふわとろで実においしかった。しかしもうこの時点で、普段は少食なトスカナはおなかいっぱいを通り越して苦しさを覚える領域に入っていた。
第二ラウンド、レッドウルフのペッパーステーキ。量が少なくホッとしたのも束の間、生のまま出したのかと疑うほど赤いその肉は地獄のように辛く、水をたくさん飲んでしまったせいで苦しさは急激に増した。胃の膨らみでおなかの皮が張り詰めている、という初めての体験をした。
最終ラウンド、イッカククジラのデミグラスシチュー。正直もう水の一滴も入らないという気分だったが、焦げ茶色の海に浮かぶ柔らかい肉を一口齧った瞬間、全ての苦しみが消え失せた。今ならいくらでも何でも食べられる気がして、勢いのままにゴクゴクと全てを飲み干してしまった。
後から聞いた話だが、イッカククジラの肉には強い食欲増進作用のある成分が含まれているらしい。……食欲増進どころか息苦しさや痛みまで無視できてしまっていたので、恐らく麻酔作用もある危険物質だ。ここがヴィスタリアなら秒で規制されているだろう。
そして、勇者すげえ、と大盛り上がりの店から逃げるように抜け出し、気絶から回復したフィリアに連れられて近くの宿屋に転がり込み、今に至る。
「はぁっ……はぁっ……ぐ……ぐるじ……」
ローブを脱ぎ、いつの間にか腹部が大きく裂けていたワンピースも脱ぎ、下着だけになってようやく言葉を発せられる程度に呼吸が可能になった。その状態でベッドに仰向けに倒れ込み、早く消化されろと念じながらおなかをさする。
「っぁ……つ……ふーっ……ふーっ……」
イッカククジラの麻酔効果が切れたのか、息をするたびにおなかの皮が裂けそうにピリピリと痛む。自分に継続回復をかけながら可能な限りゆっくりと呼吸を続けていると、
「ふむ、今にも産まれそうじゃないか」
「赤ちゃんじゃ、ない、ですっ、はぁっ……」
「ぼくも横になっていいかね。どうにもおなかが重い」
すぐ隣にペフィロが同じように倒れ込んできた。首の留め具も外してカーテンを放り捨て、素っ裸で。いつもなら部屋の中でも最低限何か服を着ろと叱るところだが、今のトスカナにはそんな余裕も説得力もなかった。
「ふう……限界まで飲んだのは初めてだよ。いい経験になった」
ぺち、ぺち、と小さな手で風船のようなおなかを叩きながら、満足気にそんなことを呟く。
並んで仰向けになると如実に分かるが、トスカナより頭一つ分背が低いはずのペフィロのおなかは、今にも弾けてしまいそうなトスカナのそれより二回りは大きい。トスカナが「今にも産まれそう」なら、ペフィロの方はその腹に双子でも宿しているかのようだ。
「な……なん、で、そんな、はっ、よゆう、はぁっ、なんですかぁ……」
「うむ? ああ、ぼくは今、肺呼吸はほぼしていないぞ」
「……はい?」
「ぼくは肺呼吸が出来なくとも数週間程度なら貯蓄しておいたエネルギーで生きていられるという、それだけの話さ」
――ずるい。というか、やっぱり人間と同じだなんて大嘘じゃないか。
恨みがましい目を向けるトスカナのおなかを撫でながら、ペフィロは続ける。
「あとは単に、場数の問題だろう。トスカナ、きみは普段少食だから、胃袋の大きさがぼくより小さく、限界容量に差があるというわけだ。普段からもっと食べて胃を大きくしたまえ」
「そんなっ、とこ、はぁっ、鍛えたく、ないです」
「そうかね? 脂肪をつければ寒さにも耐性が――」
「絶対にっ! 嫌、で、すっ! えぷっ……」
思わず力んでしまい、食道をシチューが逆流しかけ、慌てて飲み込んで押し留める。
自分はフードファイターではないのだ。恋する乙女なのだ。大食いのスキルを上げるために暴飲暴食して太ってしまうなど言語道断。ナツキと再会したときに幻滅されてしまう!
というか今食べたものだって完全に想定外も想定外のカロリーであり、消化されれば当然――
「う……うぅ……っ」
早く消化して苦しみから解放されたいという思いと、消化するな、脂肪になるな、という思いがぶつかり合い、涙となって流れ出す。どうにかしてこのおなかの中身を消し去りたい。吐くか――いや、それは腕をかけて料理してくれた店主に失礼だ。
「うぅっ、ほしい……余分なエネルギーだけっ、勝手に奪ってくれる、心優しい使い魔が……欲しいです……っ」
「そんな都合のいい共生生物がいるかね。自力でなんとかしたまえ、ぼくのように」
「どうしろってっ、言うんですかぁっ……え?」
突然、バチバチゴポゴポシューッと生き物が発してはならない音が部屋に響いた。音の発生源はトスカナのすぐ隣、青い光と煙を上げてガタガタ振動しているペフィロだ。
「!? えっ、えぇっ!?」
「ごぽぽぽぽ、お、おおひふきたまえっ、わわわざとだっ」
酒を飲みすぎて壊れてしまったのではと青ざめるトスカナの目の前で、胸が赤熱し腹から放電し口から煙を吐き続けるペフィロが、落ち着けと言っている。
これが落ち着いていられるか――と回復魔法を発動しかけ、気づいた。ペフィロのおなかの膨らみがどんどん小さくなっていく。
「……!?」
一分程経過し、元の幼女らしいぽっこりおなかに戻ったところでペフィロの体の異常は収まった。指の腹で自分のおなかをふにふにと押し、抵抗なく沈むことを確認して一つ頷くと、
「燃焼と電気分解だよ。エネルギー効率的にはいささか勿体ないがね、いつまでもおなかが重いと動きづらい」
そんなことを言いながら、意味がわからず目を白黒させるトスカナのおなかをぽんぽんと軽く叩いた。
「きみのこれは酒が詰まっているわけじゃあないからね、同じことはできないだろうが……ふむ」
ふといいことを思いついたという顔になり、
「きみの胃の中にマジックワームでも召喚すればいいのではないかね」
「ひっ……!?」
「ほら、奴らは有機物をマナに変換でき――」
「絶対にっ、絶対に嫌、嫌、嫌ですっっ!!!」
マジックワーム。全長20センチ、直径2センチほどの芋虫っぽい魔法生物である。
かつて大規模な戦争が起きたとき、環境マナの枯渇した戦場で死体を食べてマナを放出する掃除屋として開発されたものだ、と学院で習った。生命に類する物質しか変換できず放出量も大したことはないので、教会が毎年行う「迎穹の儀」を代替できるような代物ではないが、今もその変換機構の研究は続いていると聞く。
確かにトスカナは召喚術も少しは使えるし、ペフィロの言うように胃の内容物だけを食べさせるのもきっと不可能ではない。不可能ではないが、しかし。
――体内にあの気持ち悪い虫を這い回らせるくらいなら、普通にダイエットをする!
ギンッ、と強い意志をこめて睨むと、ペフィロはやれやれと肩を竦めてベッドから下り、「フィリアの様子を見てくるよ」と言ってすたすたと部屋を出ていった。
「まったく、もう……」
とにかく休んで、息苦しくなくなったらお説教タイムだ。
…………。
「あっ!? ペフィロちゃん、服! 着てないっ!!」
トスカナが気づいて叫んだときにはもう、扉は閉じた後だった。
追いかけなければと体を起こそうとし、腹筋に力を入れ――胃が邪魔で体を曲げることができなかった。苦しさに耐えかね、枕に頭が落ちる。
「もうっ……お説教、追加、なんですからぁっ……」
☆ ☆ ☆
翌朝、トスカナは騒がしさに目を覚ました。
「ん……」
明るくなった窓の外から喧騒が漏れ聞こえてくる。内容までは聞き取れないが、単に人が溢れている雑踏の喧騒ではなく、何やら慌ただしさがある。
「起きたかね」「起きたのだ?」
ぼんやりした視界に、左右からぴょこっと幼い顔が二つ。露出の多いサキュバスっぽい服を着たフィリアと、相変わらず全裸のペフィロだ。ペフィロに至ってはいつも頭に載せている機械も外しているので、見た目は完全にただの幼女である。……まあ自分とて、杖とローブもなく髪留めもしていない現状ではただの女の子にしか見えないだろうが。
しかし……ペフィロはともかく、フィリアはなぜこちらの部屋に来ているのだろう。「われはえらいのれ、こしつなのら~」と別の部屋を取っていたはずでは……
「調子はどうだい」
そう問いながら、ペフィロの手がトスカナのおなかをさする。
「えと……」
自分でもさすってみる。息苦しさはなくなったが、満腹感は消えていない。肋骨の間がまだぽっこり膨らんで――いや、下腹部はさらに膨らんでいる!?
……一晩かけて、胃から腸へと食べたものの一部が移動しただけ。今まさに、トスカナの体に余分なあれこれが吸収されようとしている。
「うぅ……最悪です……最悪ですっ……」
「ふむ、最悪ではないぞ。聞きたまえ、なんとさらに悪い知らせがある」
「ふぇ……?」
泣きそうなトスカナに対し、ペフィロは容赦なく追撃を加えてきた。
「フィリアが教えにきてくれたのだがね、外の雰囲気が殺伐としてきている。さっき窓から魔王軍の幹部連中がちらっと見えた。戦う準備をしておいたほうがよさそうだぞ」
「っ……!?」
寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。言われてみればここは元敵地、停戦したとはいえ自分達は帝国の兵器みたいなもので、魔煌国入国に際し許可も得ていない。昨日の騒ぎで勇者が国内にいることが広まり、軍が動き出したということか。
「全然頭が回ってませんでした……!」
「ぼくも少々楽観視し過ぎていたようだ。フィリア、きみは巻き込まれないようどこかに隠れて――」
「う……うむ、実はそのことなのだが――」
どこかバツが悪そうにフィリアが口を開いた、その時だった。
バキィン! と部屋の窓が窓枠ごと破壊され、空から黒々とした大きな鳥――魔鳥トラケラが飛び込んでくる。と同時に部屋のドアも蹴破られ、魔王軍の制服を着た魔族の兵士が三人、ドカドカと押し入ってきた。
「動かないでくださいッ!」
兵士の一人が叫び、剣を構える。魔王を打ち倒した勇者を二人も前にして、なんと勇猛果敢なことか。
しかしこちらに敵対意志はない。どうにか穏便に――とトスカナが考えをめぐらせていると、残りの兵士二人が奇妙な行動を取った。トスカナとペフィロを見て悲しげに目を伏せたかと思うと、纏っていた軍服の外套を脱ぎ、
「怖かっただろう、もう大丈夫だ。……間に合わず、すまなかった」
「え、あ、あの……」
「わ、きみたち、何をするっ」
目を伏せたまま、そっとトスカナとペフィロの体を隠すように被せた。
それでやっと自分が下着だけだったことを思い出し、トスカナは赤面する。ペフィロは服を着せられたことに憤慨していたが、兵士は「大丈夫だ、私達は何もしない」と優しげな笑みを見せた。
彼らの紳士的な心遣いは有難いが……何か、とても大きな勘違いが発生しているような気がする。
その一連の様子を見ていた、剣を構えた勇猛な兵士。彼はギリッと歯を食いしばると、怒気を孕んだ声で叫んだ。
「仕事を放り出して城を抜け出した挙句、このように幼い子供たちを性的に弄びッ! しまいには妊娠させてしまっていたなど、なんたる、なんたる卑劣ッ! そのようなお体になってしまい、多少の放蕩は仕方がないと見逃しておりましたが……今回ばかりは見損ないましたぞ、魔王様ッ!!」
その視線の向かう先は、全身冷や汗まみれでたじろいでいる、フィリア。
「ち、違うのだ、我は……その」
「まあ……薄々そんな気はしていたがね」
ペフィロの納得顔を見て、トスカナも何となく状況を察する。そして察したからには、色々と言いたいことが、聞きたいことが、怒りたいことがあった。
だがしかし、まず第一に訂正しなければならないのは――
「……じゃないです」
「む?」
「妊娠じゃ、ないです」
「いやしかし、その腹は明らかに……何ッ!?」
周囲の環境マナが一斉に震え、黄緑色と薄水色に光り始める。
風・氷属性複合攻撃魔法、《フリージア》。トスカナの怒りに従い、無数の氷の精霊達はその身を刃に変え、風の精霊達は一点へと凝集。トスカナの顔が真っ赤に茹で上がり、
「これは、ただのっ! ――食べすぎですっ!!!!」
無杖・無詠唱。純然たる殺戮のイメージのみによって解放され、吹き荒れた凶器の嵐が、宿屋の一角を綺麗に吹き飛ばした。