Lhagna/τ - くまさんとはちみつ Ⅱ
「……!? えちょっ、ペフィロちゃん!?」
「なっ……きしゃま、まらそんにゃよりょくがぁ……!?」
「何やってるんですかっ、そんなことしたら、おなかが破裂――」
無理やり止めに入ろうとトスカナが立ち上がった、その瞬間。
――バツン、と何かが弾ける音がした。
まさか、と最悪の事態に目を閉じかけるトスカナ。
その目の前を、キラリと光る何かが飛んでいった。
「……え」
魔王軍との戦いで鍛えられたトスカナの動体視力は、まずそれが金属の部品であると理解した。そしてその形は、先程までずっとギチギチと軋みをあげていた、ペフィロの――カーテンの腰の留め具。
「……あっ」
気づいた。先程ペフィロが「弾けてしまう」と言っていたのは彼女自身の腹ではなく、その留め具だったのだ。
留め具が弾け飛んだ衝撃でカーテンは大きく広がり、首元の留め具だけを支えにマントのように棚引く。その下には当然――いや当然であってはならないはずなのだが――何も着ていない。
「わっ……わぁぁ――っ!?」
「ぷはっ! どうだ、追いついたぞ」
トスカナが顔を真っ赤にして叫ぶのと、ペフィロが四杯目を飲みきるのは同時だった。フィリアと同じくらいの大きさにまで張り詰めた腹をパンッと叩き、フィリアと同じように腰を反らせて見せつける――裸マント姿で。
「わーっ! わ――――っ! ぺ、ペフィロちゃん、隠して、隠してっ!」
うおおおおおっ、という歓声の中、トスカナは目を回しながら風のマナを生み出し、ペフィロの体にまとわりつかせた。見えてはいけない部分を眩い黄緑色の光が覆う。
それでも歓声が鳴り止まないあたり、観客たちはペフィロの裸体ではなく飲み比べが接戦になってきたことに湧いていたのだろうが、それでもダメなものはダメだった。
「む、なんだねトスカナ、眩しいぞ」
「呑気なこと言ってないで早くそれ巻き直してくださいっ!」
「む……? つい先程、もう無理して服を着続けなくても大丈夫だ、ときみが言ったんじゃあないか。自分の発言には責任を持ちたまえよ」
「そんなことっ、言って、ませんっ!!」
背後から飛びつき、カーテンの裾を持ってペフィロの体の前面へと回し――届かない。カチコチに張り詰め膨らんだおなかが邪魔なのだ。それが原因で留め具が弾けたのだから当然なのだが、パニック状態のトスカナはそんなことまで頭が回らなかった。
「んぷっ、ちょ、トスカナ、やめたまえ! く、苦しい……」
おなかを締め付けられたペフィロが苦悶の声を漏らし、トスカナは「はぁ――……」と深い深い怒りのこもった溜息をついて手を離した。
あれこれを隠す風のマナは維持したまま、元いた椅子に腰を下ろし、頬を膨らませてトスカナは叫んだ。
「……じゃあ早く決着をつけてくださいっ! もうっ、後でお説教ですからっ! ペフィロちゃんはほんとにもうっ!」
「う、うぅ……理不尽だ。しかしまあ……」
反対側、酔いが回って全身真っ赤になっているフィリアにキラリと挑戦的な視線を向け、
「早く決着を、というのはぼくも同意見だがね。店主、次を持ってきたまえ!」
「らにお~~ぅ!? てんしゅ、われもおかわりらのらぁ~!」
呼びつけられ、呆れ顔でやってきた熊店主からフィリアが酒樽を引ったくり、コップの縁ギリギリまで二人分の蜂蜜酒を注ぐ。
二人同時に飲み始め、そして――半分ほどが胃袋の海に呑まれたとき、今度はフィリアに異変が起きた。
「うぎっ……お、おにゃか……いたいのら……?」
不思議そうな表情で自分のおなかを見下ろすフィリア。鳩尾からほぼ垂直に前へと突き出している上腹部を撫でさする。一口飲んでは同じことを繰り返し、四口目でフッと何かを悟ったように笑い、
「ふー……っ……げ、限界……なのら……」
半分弱の蜂蜜酒がまだ残っているコップをテーブルに置き、目を回して椅子からふらりと――
「わわっ、フィリアちゃんっ!」
咄嗟に飛び込んだトスカナの腕の中へと崩れ落ちた。
ずし、と感じる重みは、魔鳥から助けたときに感じたものより遥かに重い。当然だ、何せ新生児一人分以上の重さの液体が腹に詰まっているのだから。
「ぺふぃろ……きしゃまの、かち……なのら……」
それだけ絞り出し、フィリアは気を失った。おなかに衝撃を与えないよう、そっと椅子に下ろす。
その瞬間、酒場は静まり返り――すぐに爆発した。
「う……うぉぉおおぉおああ!?」
「ふぃ、フィーちゃんが……飲み比べで負けたああぁぁああ!」
「嘘だろ……限界なんかあったのかよ……!」
「淫魔つっても未成熟な体だからな……だがそれにしても……」
「何だ!? 何なんだあいつ!? バケモンかよ!?」
戦慄の視線が一気にペフィロへと集まる。ペフィロは五杯目を全て飲みきり、フィリア以上に大きく歪に膨らんだおなかをぺちぺちと叩きながら、不敵に笑って見せた。
「ふふん、見たかね、これが勇者というものだよ」
「す、すげえ……これが勇者……」
「魔王様が負けるのも仕方ねえ……」
ざわざわと慄く彼らの視線の数割はトスカナを見ていた。……というか、トスカナの腹部を見ていた。
「な……何見てるんですかぁっ」
慌てて自分の体を抱きしめて隠す。ペフィロの人間離れした体質を勇者一般の能力だと思わないでいただきたいし、魔王との戦いに至っては全くもって何も関係がない。
そう突っ込もうとして、ふと、余裕そうに笑っているように見えるペフィロの頬にたらりと冷や汗が流れたことに気づいた。
「……ペフィロちゃん」
ペフィロはもう二年もずっと共に戦ってきた仲間である。注意深く見れば今彼女がどんな状態かくらいは分かる。
「ふぅ、む、なんだね」
「今、すっごく無理してますよね?」
「う……」
バレた、と露骨にバツの悪そうな顔になるペフィロ。
「もうっ! 無理しちゃダメって言ったじゃないですかぁ!」
トスカナは頬を膨らませ、ペフィロのおなかに手を触れ――その奥で土のマナがギュンギュン消費され続けているのを感じ取った。
「こ、これ……何してるんですか!?」
「う、うむ……破けないように補強を……」
「マナが尽きたら破けちゃうってことじゃないですかぁ!」
「そ、それは心配ないぞ、ふぅ、ぼくは自分で、マナを生成している、から……集中が途切れなければ、何も問題、ないのだよ」
「集中が途切れたら死んじゃうようなことしちゃだめですっ!」
まあもしここでペフィロのおなかが破裂してしまったとしても、トスカナならすぐ上級治癒魔法で修復できるのだが――周囲の環境マナを食い尽くしてしまうし、そもそも仲間の腹が裂けるところなど絶対に見たくない。
代わりにほんの少しの環境マナを風属性に活性化し、石のように固いペフィロのおなかに流し込んでいく。継続回復の魔法だ。
「もう! ほんとにもう! あとで二倍お説教ですから!」
「うぅ、……と、それはともかく、トスカナ」
「何ですか」
「見ての通り、ぼくとフィリアはもう、水の一滴足りとも、入らなくなってしまった」
「そうですね」
「だからトスカナ、あとは、任せたぞ……」
「……?」
何を言っているのだろうか。決着はついたのだから、もう何かを飲み食いする必要などないのに。
いや――何か、忘れているような。
「おい」
「ひゃいっ!?」
背後から突然響くバリトンボイス。飛び上がって振り向くと、強面の熊が立っていた。――その腕に、湯気を立てる三つの大皿を抱えて。
「コカトリス・オムレツ、レッドウルフのペッパーステーキ、イッカククジラのデミグラスシチュー。待たせたな」
「……えっ?」
ドン、ドン、ドン、とテーブルに料理が並べられていく。
そう言えば確かに、最初にこのテーブルに座ったときに、フィリアは「いつもの」を、ペフィロは何かのステーキを、トスカナは魚料理っぽいものを、注文した気がする。
鼻腔をくすぐるいい匂い。ここ一週間携帯食ばかりでまともな食事を入れていなかったトスカナの胃袋がきゅうっと鳴った。
しかし、いくらおなかが空いているとはいえ――
「あ、あのっ、ペフィロちゃんとフィリアちゃんの分はどうすれば……」
「あん? 玄関に書いといたろ、森の掟」
「え……」
ギギ、と首を回して玄関を見やり、そこに立てられた板に大きく書かれている文字を認識する。認識したくなかったが、メニューとは違って立板の文字はその道のプロが筆で書いたと思われる立派なもので、天使の翻訳システムはちゃんと訳して脳に届けてしまった。
――「食べ残しは、食い殺す」。
「あー心配すんな、別に注文した本人が食う必要はねェから」
「……えと」
泣きそうなトスカナに対し、隻眼の熊はその片目を細めてにっと笑った。案外愛嬌のある顔で笑うんだな、と脳が勝手に現実逃避を始めた。
「テメェも勇者ってやつなんだろ? 足りなきゃ言えよ、全部城に請求すっから好きなだけ食えよな!」
「……あはは……は、はい……いただきます……」
トスカナは覚悟を決めた。