銀色の風
「ラッカ~、こっちだよ~」
「お、姉貴いた……ってうおっ、なんて格好してんだバカ!」
「えぇ~? 何って~、水着だけど~?」
表街の最上層、水路を利用した観光客向けの流れるプールに、真っ赤になったラッカの叫びが響いた。
「いや水着ってそれ……は、恥ずかしくねーのかよ!?」
「え~、変かなぁ~?」
ルンは首をかしげ、その「水着」をつまんで引っ張る。大きなメロンが二つ、たぷんと揺れた。
「そんなん、ひ、ひ、紐じゃねーか! 一仕事終わったからってはっちゃけ過ぎだろ!」
ラッカの指摘通り、ルンが身につけているのはいわゆる紐水着であった。首から吊られた細い線が、豊満な胸の先端をひっかけて、双丘の影でそれぞれ前後に分かれ、股下で再び合流する。色は黒だ。
ルンの身長は150センチほどで、時折子供と間違われてしまうほど小柄である。そんな見た目に不釣り合いに大きな胸と過激な水着が人々の注目を集めているが、ルンは全く気にしていない様子だ。
「やだなぁ、水着だよ~。さっきレイニーと一緒に~、そこの水着屋さんで新しく買ったんだから~」
にこにこ笑いながらラッカに向けて歩みを進めるたび、たぷん、どたぷん、と胸が波打つ。
「ちょ、待っ……まさかレイニーまでそんな破廉恥な……」
「なわけあるかっ!」
「ぐほっ!?」
突如横から回し蹴りを食らい、綺麗に吹っ飛んだラッカは水しぶきを上げてプールに落ちた。
「ぶはっ! 何しやがるレイニー!」
「あたしの体でエッチな想像した罰よ」
「してねーよ! てかお前のサイズじゃあんな紐みたいなのすぐ外れごぼぼばぽぽッ……!?」
「殺すわよ」
ラッカの頭を水中に押し込むレイニーは、シンプルな青いビキニを身につけていた。ルンと比較すると控えめだが形の整った胸と、引き締まった健康的な肢体。プールサイドの男たちの視線をルンとは別の意味で集めていたが、ラッカが蹴り飛ばされ水責めを食らうに至り、ナンパをかけようとしていた者達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
ついでにルンに声をかけようとしていた男達も散っていったのを確認し、レイニーはフンと鼻を鳴らした。
「ルン、あんたねえ……そんな際どいの買ってたの?」
「ん~? えっとねぇ~、特別な一品! って書いてあったから~、自分へのご褒美に~?」
「特別っていうか特殊……え、ご褒美? なんかあったの?」
「いや~、今週はと~っても忙しくて~、休む暇もなかったから~」
「ああ……例の『子供熱』ね。それはほんとにお疲れ様」
ルンは薬剤師であり、実は医師免許も持っていたりする。そのスキルを活かし、彼女は本業である「ローレライ探し」とは別に裏街の医療系タスクも請け負っている。表街の医者にかかれない貧困層に医療を提供するのも《水魚の婚礼》の活動の一つらしいのだが、最近謎の病が子供を中心に流行しており、手が足りないということでルンが手伝っているのだ。
大人は全く発症せず、症状は熱のみ。ゆえに誰が言い出したか『子供熱』。寝ているだけでは一向に快復せず、かといって悪化するでもなく、ただただ熱にうなされ体力を奪われ続ける――と、おやっさんとルン経由でレイニーが聞いたのはそんな話だった。
「ねえルン、それってちゃんとリスクに見合った報酬は出てるのよね? 原因不明の奇病の対応なんて……子供にしかかからないってのも正直信じられないし、さすがに心配よ」
「大丈夫だよ~、症状がそのまま命にかかわる病気じゃないしね~。それに報酬はちゃんと~適正価格で患者さんの保護者の人達からもらってるから~」
「え、親方さんからじゃなくて?」
活動自体はボランティアなのかと思っていた、とレイニーは驚く。裏街に溢れる孤児に医療費の支払い能力がある者などほとんどいないだろう。
「もともとは~ボランティアのつもりだったみたいだけど~……なんかね~、裏街の中でもお金持ちな人のお子さんほど~子供熱にかかりやすいんだって~。孤児の子たちの発症例もね~ほとんどないんだよ~」
「えぇ、普通逆じゃないの? 贅沢な暮らしが原因ってこと……? でもお金持ちって言ったって裏街から出られないくらいの小金持ちでしょうし……」
「謎なんだよね~。けど、診療所に運んできて私が看病したら~、みんな数日で治っちゃって~。原因は分からないけど~もう私がいなくても問題ないかなって~、今日はみんなと遊ぶことにしたよ~」
「あはは、さすがルンね」
フィルツホルンにいた頃、ルンはよくリリムの診療所で助手をしていた。リリムは《前線》の従軍経験や裏社会とのコネがあるので、彼女の下で働くと《塔》の情報統制を無視した知識がたくさん手に入るらしい。
今回もその知識が役に立ったのだろうとレイニーは賞賛を贈ったが、ルンは「それほどでもないけど~」と返しつつもどこか不可解な様子で首を傾げた。
「ほんと、大したことはしてないんだよね~……まあ、現地の人に~お薬の作り方と看病のしかたを教えたから~、しばらくは大丈夫~。ちょっと気になるとこはあるけど~、親方さんに調べてもらってるから~」
「そ、良かった。はぁ……なんか最近、変な事件ばっかりで嫌ね」
レイニーは溜息をつき空を見上げる。怪事が頻発している街の様子とは対照的に、昼も夜も真っ赤な夕空は《モンキーズ》が来た三ヶ月前からずっと変わらずそこにあった。
これだけ街のあちこちがおかしくなっているのだから、そろそろ空にも異変が起きるかもしれないな、などと益体もないことを考えていると、
「……ん?」
キラリ、空の彼方で何かが光った。
方角は北。フィルツホルンやラクリム湖のあるほうから――何かがプールに向かって飛んでくる。
「ねえちょっとラッカ、あれ……」
「ごぽぽっ……ぱばっ……!」
「あ、ごめん」
レイニーが右手を水中から上げると、二人が会話している間ずっと沈められていたラッカが勢いよく頭を出した。
「ぷはぁっ! ……お、お前、げほっ、殺す気かっ……!」
「うん……そんなことよりあれ見て、何か飛んでくるみたい」
「今うんって言ったか!? ……ったく、何かって何が……」
悪態をつきつつラッカが見上げた先、キラキラと星のように瞬いていた何かが近づくにつれ徐々に大きくなり――子供の形を成していく。
「んな……っ!?」
そのまま急降下してきた子供は、プールの上空10メートルほどで大きな焦げ茶色の翼を背に広げ、急停止した。
反動で胸元の不思議な形のペンダントが跳ね、太陽光を反射して煌めきを振りまく。先程遠目でも瞬いて見えたのはこの首飾りの反射光だろう。
「おっとと……あっぶね」
跳ね上がったペンダントを慌てて掴み、子供はそれをそっと首元から服の中にしまう。それはひどく大切なものを扱う手つきだった。
「さてと」
小さく呟いて子供は顔を上げる。
キリッとした顔立ちに、焦げ茶に黄のメッシュが入ったショートヘア。髪と同じく黒地に黄色いラインの入ったノースリーブシャツと短パンは伸縮性の化学繊維で出来ているようで、まるで公園にサッカーをしに来た子供のような出で立ちだ。
外見の年齢はちょうどナツキと同じくらいで、体のラインに起伏はほとんどない。もしこの子供が本当に公園でボールを持って駆け回っていたら、性別を迷いなく言い当てられる人は少ないだろう。しかし今、彼女が雌性体であることは誰の目にも明らかだった。
「ほーん……ここがネーヴェなんとかって街か。すげーな……」
ばさ、ばさ、と大きな翼をはためかせてその場で滞空しながら、子供はきょろきょろと周囲を見渡す。翼は聖片ではなく、少女の肩甲骨の間あたりから生えていた。
つまり彼女は人間ではなくラクリマなのだ。ラクリマの見た目は忌印を除き人間の女の子と同一、というのはこの星の常識であり、ゆえに彼女を男の子かもしれないと思う者は誰一人としていなかった。
「おい見ろよ、あれ」
先程のルンやレイニーなど比較にもならないほど人々の視線が集まり、ざわめきが広がっていく。
「飛行型ラクリマ……珍しいな、初めて見た」
「俺も。……てかさ、背中に羽生えてるだけで飛べるもんなのか?」
「さあな。調整で羽生やすときに体も作り変えてんじゃねーの?」
「え、あの羽って《塔》が付けてんの?」
「いや知らんけど。でも人形だろ? パーツの付け替えくらいできんじゃね」
当人にも聞こえるほどの声で無責任な憶測が飛び交うが、少女がそれを気に留めることはなかった。しばらくきょろきょろした後、「さてどーすっかな……」と少し困り顔になって俯き、
「ん」
「え」
そこでふとラッカと視線が合うと、丁度いいとばかりに話しかけてきた。
「後で怒られっかな……まあいいや。なあ、そこのずぶ濡れの兄ちゃん、水浴びしてるとこ悪いんだけどよ」
「お、おう!? 何だよ……いや水浴びしてるわけじゃねーけど」
「『水の都の一番でかいハンターズギルド』って、どこにあるか知ってっか? オレここ来んの初めてでさ」
「ここで一番のギルド? つったらほら、すぐそこの青いとんがり屋根の……」
「お? おー、あれか! 領主の城かと思ってたぜ。あんがとな、兄ちゃん!」
ラクリマの少女はにかっと快活に笑うと、ラッカが指し示した大きな建物へと飛んでいった。建物の前の広場に立てられている大きな掲示板の前に降り立ち、掲示されている依頼書や指名手配書らしい紙を眺め始める。
「何だってラクリマが一人でギルドなんか行くんだ……?」
呑気に首を傾げるラッカとは対照的に、レイニーとルンは深刻な表情で顔を見合わせていた。
「自由行動してる感染ラクリマってことは……まずいわね」
「まずいね~」
「まずい? 何がだよ?」
意図が分からず聞き返すラッカに、レイニーは「少しは想像力を働かせなさいよ」と呆れ声を返してから、答える。
「あの子、たぶん《塔》のギフティア部隊の子よ。神獣警報は出てないし……きっとリリム達の確保に《塔》が動き出したんだわ」
「……っ!? やべえ!」
「はやく~、ナーちゃん達に~、知らせないと~」
「ええ、すぐ行動しましょう。あっ……でも今日は向こうもお休みって言ってたのよね。今どこにいるか……あんた達、行先聞いてる?」
「知らないよ~」
「俺も知らねーな。おやっさんが何か色々渡したってくらいしか……ん?」
ふとラッカはレイニーの背後、先程ラクリマの少女が飛んでいった青いとんがり屋根のハンターズギルドの方に視線を向ける。
「おいおい……それより先に、あっちもまずいんじゃねーか」
「え?」
屋外掲示板の前に立つ件のラクリマの周囲に、怪しげな集団が群がってきていた。見える範囲で五人、うち一人はやたら高価そうな衣服を身にまとっている。
姿が見えるほど近場であるとはいえ、プールとハンターズギルドの間は数十メートルは離れており、彼らの表情までは見えない。しかし彼らとラクリマの少女が友好的な関係ではないことは、少女を逃がさないように囲いを作ってにじり寄る男たちの動きから明らかだ。
「あの服……プルタネルフの貴族ね。ほんっと間が悪いというかなんというか……」
レイニーが吐き捨てるようにそう呟き、ルンとラッカも眉をひそめる。
高そうな服の男が何か指示を出すと、男の一人が少女のシャツの裾をつまみ、めくり上げた。少女は抵抗しようとするが、高そうな服の男が何かを言うと、動きを止めて手を下ろしてしまう。
「ちょ……おい、あいつギフティアなんだろ? 何でされるがままなんだよ」
「あの子がラクリマで~、あのクソ貴族共が人間だからだよ~。アーちゃん達見てると~、忘れがちだけど~……調整されたラクリマはね~、本能的に人間には逆らえないんだって~」
「正確には『人間には攻撃できない』ね。感染してれば逆らう意思は持てるけど、害意は持てない。でも逃げることはできるから、首輪と厳重命令で縛る……だそうよ」
「っ……そうだったな」
ルンとレイニーの返答が伝聞調なのは、実際「おやっさん」に聞いた話だからだ。彼は《塔》がどうラクリマを運用しているかについて何故かやたら詳しい。彼の下で働く中で《モンキーズ》の面々は皆、ラクリマと実際に触れ合うことなく多かれ少なかれ知識を受け取ってきた。
「いや、でもギフティア部隊ってなんか特権っぽいのあるんだろ? 場合によっちゃ人間より権力あるとかなんとか」
「すごく特殊な場合でしょ? 確かえっと……天の階、だっけ。かなり上位の機密だからって親方さんは濁してたけど、ナツキちゃん達の話にたくさん出てきたわね」
「でも~、たぶんあの子は~、違うんじゃないかな~」
ルンの言うとおり、ナツキが《モンキーズ》に語った《塔》との戦いの中に、翼で空を飛ぶギフティアの話は出てこなかった。恐らく彼女はギフティア部隊の中でも「一般」の、特権を持たないギフティアなのだ。
「ドロップスと違って、神獣との戦闘中は周りの人間より自分の身を守ることを優先するらしいけど……人間に襲われた場合にどうするのか、は聞かなかったわ」
「何だってんだよ……あんなん神獣との戦いみたいなもんだろ……」
「あんたそれ、間違ってもクソ貴族共の前で言わないでよね」
「うーん……戦闘中かどうかの判断は~曖昧だと思うけど~、プルタネルフ自治区も~同じくらい特殊みたいだしねぇ~」
人道に照らせば、暢気に会話などしていないですぐにでも助けに行くべきところだろう。《モンキーズ》の三人とて、心の中では今すぐにでも飛び出したいと思っていた。もっと近くで男たちの横暴を見ている野次馬の中にも、同じ思いの者はいたかもしれない。
しかし誰も動かない。なぜならあの男たちは「プルタネルフ自治区」の貴族、すなわちフリューナ大陸から貿易に来た面倒な連中であり、関わるとろくな事にならないということを皆知っているからだ。《モンキーズ》の面々も、《水魚の婚礼》との契約の段階で「何があろうと絶対に関わるな」「襲われたら応戦せずに逃げろ、勝てる相手でも戦うな」と厳命されている。
歯がゆい思いでラッカ達が事の推移を見守るなか、少女の体をまさぐっていた貴族たちは何かを取り上げ、高く空にかざした。太陽光を反射してキラリと光るそれは恐らく、少女が大事にしていたペンダントだ。「返せよ!」と少女の悲痛な叫びがかすかに聞こえ――
「クソッ……」
「ラッカ~、だめだよ~」
プールの端へ向かおうとするラッカの腕を、ルンが素早く掴んで引き止める。
「分かってる……けどよ!」
「いくら自治区の特権があったって、このジーラ大陸に来て何もかも好き勝手できるわけじゃないわ。こんな人前で《塔》直属のあの子に危害を加えることはできない……はずよ」
「あれが危害じゃねーってか!?」
「……前にダインさんにも聞いたでしょ、ドール運用法。後遺症が残らなければ罪には問えないって」
レイニーが顔を伏せながら答え、ラッカは返す言葉を失う。レイニーだってそんなことは言いたくないのだ。
「それじゃ、あいつは……このままあのクソ野郎共が飽きるまで……俺らはそれを黙って見てるってのかよ……」
呆然と呟くラッカの視線の先、貴族の一人が奪ったペンダントを石橋の縁の向こうへと投げ捨てる。少女がじたばたもがきながら言葉にならない叫びを上げる。
「っ……」
これ以上はもう見ていられない、とラッカが目を伏せようとした、その時だった。
貴族の男達が突然一斉に横向きに吹き飛び、地面に倒れ伏した。
「……は?」
ラッカはまず、少女が行動原則に打ち勝って異能を使ったのだろうと思った。しかし当の少女は地面に力なく座り込んだままだった。何が起きたか分からない様子で、ラッカと少女の視線は同じものを追う。
それは、銀色の風のように見えた。
風は男達を吹き飛ばしたあと、そのままの勢いで石橋の縁を超え、落ちていく少女の首飾りを優しく包み込む。そこでようやく速度を落とし、ラッカはそれが人間の少女の形をしていると気づいた。
ラクリマの少女は慌てて立ち上がり、銀色の少女を追って石橋から飛び降りる。やがて二人共ラッカ達の位置からは見えなくなり――
「今のってまさか」
「……ナツキちゃんよね?」
「だよね~」
遠すぎて顔は判別できず、いつも着ている服でもなく、髪色すら違ったというのに、なんとなく三人にはその確信があった。