甘い誘惑
一方その頃、アイシャは窮地に陥っていた。
「にゃーなの! にーこつまんない! にぁー!」
ニーコの叫びが部屋に反響する。洞窟の本道に通じる窓代わりの穴は板で塞いであるが、このアジトに近づけば十分漏れ聞こえてしまうだろう。
「お、落ち着いてくださいです、しーっなのですよ、ニーコちゃん」
「や! なつきもりりむもいないの、にゃーのー!」
「わたしと遊ぶですよ、ほら、トランプするです!」
「にゃー! にーこ、とやんぷあきた!」
「あうぅ……どうしたら……は、ハロちゃんやレイニーさんとは何して遊んでたです?」
「しやにゃいもん!」
「知らないのですかー……」
アイシャは、ナツキやリリムほどニーコに懐かれていない。別に嫌われているわけではないのだが、なにやらライバル視されているのだ。……まあその理由は分かりきっているし、自分も心の底には同じ感情を持っているのだが。
とにかく、甘えたい相手がいない状況に耐えられなくなったニーコがイヤイヤ期ワガママモードになってしまったのだ。
「はぅ……おなかすいたです……」
時刻は昼下がり。アジトの一室に行けば配給食がもらえる時間は、ニーコをあやしているうちに過ぎてしまった。くきゅるるる、と主張の激しいおなかをさする。
――コンコココン、とノックの音。
「にぁっ」「っ……」
ニーコはぱっと顔を輝かせたが、ナツキ達やリリムが帰ってくるには早すぎる。アイシャは傍においてあったアイオーンを手に取り、ニーコを後ろに隠して警戒態勢を取った。
が、心配は杞憂に終わった。「どうぞなのです」とアイシャが答えるのを待って立板を外し顔を見せたのは、《モンキーズ》の物作り担当の二人、リンバウとローグだった。
「アイシャちゃん、ニーコちゃん、無事!?」
「ふぇ!?」「に?」
「無事……だね。あー良かったー……」
切羽詰まった様子のローグは、アイシャとニーコの存在を確認するとほっと胸をなで下ろした。
騒がしいローグに対し、遅れて入ってきたリンバウは呆れ顔だ。
「だから言ったじゃねえか、心配し過ぎだってよ」
「そりゃ心配もするさ、普段ならともかくあんな話聞いたら……」
「気持ちは分からんでもねえがな」
「えっと……あんな話、なのです?」
外で何かあったのか、とアイシャが聞き返すと、リンバウは「話半分に聞けよ?」と前置きしてから、彼らが聞いた話とやらを教えてくれた。
曰く、最近表街・裏街問わずあちこちで放棄された「動作不良」のラクリマが見つかっている。傾向としては裏街のラクリマが多く、道端にぽつんと置物のように座りこみ、ただ虚空を見つめている。識別名やIDを尋ねても反応がない。立ち上がらせて手を引いても歩こうとしない。しばらく経ってから同じ場所を見にくると、そのラクリマはいなくなっている。動作不良が直って主の下へ帰ったか、あるいは何者かに連れ去られたか。酔っぱらいの幻覚か、はたまた幽霊の類か――
「で、今日はなかなか嬢ちゃん達が来ないってんで、このバカが騒ぎ出してよ」
「神隠しとかだったらどうするのさ! ローレライの件もあるし、用心に越したことはないって言っただけさ」
どうやら、いつもの時間に食堂に行けなかったことで心配をかけてしまったようだ。
「神隠しってお前な。俺らまでんなこと言ってちゃ解決するもんも解決しねえぞ」
「でもほら……最近食堂に本物の幽霊が住み着いてるって噂もあるし」
「毎食一人分どっかに消えちまう、掃除の婆さんがポルターガイストを見た……ってやつか? あんなんどうせ噂を流した奴が犯人だろ。本当に怖いのは人間ってな」
あれやこれやと怪談じみた話を持ち出すもリンバウに一蹴され、ローグは仏頂面になった。
「……リンバウきみ、聖片オンチの割に妙なところでオカルト否定派だよね」
「それは今別に関係ねえだろ! ったく……とにかく、嬢ちゃん達の身体に異常がなきゃそれでいいんだ。大丈夫だよな?」
「は、はいです。変なところはないと思うです」
「ならいい」
少なくとも、彼らの言う「動作不良」はアイシャの身には起きていない。ニーコは話についていけずに首を傾げているが、見た感じはいつも通りだ。
リンバウも内心では心配してくれていたのか、アイシャの答えを聞いて表情が緩んだように見えた。
「そういや嬢ちゃん達、メシはよかったのか?」
「あ! そうそう、それも伝えに来たんだった。もう食堂閉まっちゃったよ?」
「あぅ、それが……」
今直面している問題は、幽霊だの神隠しだのとは対極の、現実的で生物的なものである。
ちらり、ローグ達が現れてから静かになったニーコに視線を向けると、
「なぅ? ……にゃー! ごはんなんていやにゃいもん! にーこつまんない!」
突然怒りを思い出したかのように不機嫌になり、ぷいっと顔を背けた。
振り出しに戻ったのです、と顔を覆うアイシャを見て、男二人は顔を見合わせて笑った。
「なるほど。ついに」
「ハロの嬢ちゃんのときはレイニーがどうにか宥めすかしてたが……限界が来ちまったか」
「ま、それならそれでちょうどいいか。……ねえ二人とも、一つ提案があるんだけどさ」
ずいっとアイシャとニーコに顔を寄せてきたローグが、そこで一旦言葉を止め、あからさまに悪いことを考えている顔になる。
「あ、あの……?」「にぁ……?」
困惑する二人に、ローグはいたずらに誘うような囁き声で告げた。
「二人とも、こっそり抜け出して僕達と遊びに行く気、ない?」
「にぁ!?」
それは甘い誘惑だった。
当然ニーコは食いつこうとするが、アイシャはすかさずその手を引いて止めた。
「だめなのです、ニーコちゃん!」
「なぅー?」
ナツキからニーコを任された身として、今この状況で甘言に流されるわけにはいかないのだ。
「今聖騎士さんが来たら、わたしだけじゃニーコちゃんを守りきれないのです! ローグさん、何考えてるです!?」
「大丈夫、表街には出ないからさ。ローブ被ってればバレないよ。今ニーコちゃんだけずっとお留守番なのって、単に仕事ができるほど大きくないからでしょ?」
「それは……そうなのです。でも」
聖騎士だけじゃない、そもそも闇市は元から治安の悪い場所であり、ニーコみたく幼く無知な子供を連れ歩くのは危険だ。
しかし、そう続けて指摘しようとしたアイシャを制するように、ローグは畳み掛けてくる。
「僕達、もうここじゃ結構顔が売れててさ。おやっさんの組織の人間だってみんな分かってるんだよね。そんな僕達が連れてる子供に手を出す奴なんていないよ。もし絡まれても、聖騎士様とかじゃなければアイシャちゃんが撃退できるし。できるよね?」
「ふぇ、は、はいです……たぶん。でも、《塔》の人達がこっそり探しに来てるかも……」
「裏街の酒場は回ってみたけど、君たちを探してそうな怪しい人の情報はなかったよ。君たちがネーヴェリーデにいるってこと、まだ《塔》にバレてないんじゃない?」
「な……なのですか……?」
ぺらぺらとまくし立てられ、頭がぐるぐる混乱する。
ちらりと横のリンバウを見るが、呆れ顔で見ているだけでローグを止めようとはしない。助けを求めても無駄なようだ。
「で、でも、ローグさん達のお仕事は……」
「へえ、僕達の心配してくれるんだ? ありがとね、でも大丈夫! 僕達も今日はお休みをもらってさ、レイニー達は表街に遊びに行ってるよ。……僕とリンバウは寝坊して置いてかれたけどね」
「何言ってんだ、俺は起きてたぞ。単に泳ぎたい気分じゃなかったってだけだ」
ずっと黙っていたリンバウが、聞き捨てならないとばかりに口を挟んでくる。
「あれ、そうなの? 僕のことなんか気にしないで行ってくればよかったのに。もったいない」
「馬鹿か、お前を気にしたわけじゃねえよ。それに……俺はお前じゃねえしな」
「どゆこと? レイニーとルンの水着姿、ラッカに独占させちゃっていいの?」
「そういうとこだっつってんだよこの色ボケ野郎」
リンバウの言葉は荒いが、そこに憎しみは感じられない。性格が全く合っていないにもかかわらず、お互いのことを分かり合って信頼している――そんな距離感が彼らの間にはあった。
「はは、相変わらず堅物だねぇ。……とまあ、男二人で駄弁っててもつまんないし、アイシャちゃん達が来たら誘おうと思ってたんだよね」
「なのですか……」
「うんうん。……あ、嘘じゃないよ? 君たちに何かしたらあとでリリムちゃんに殺される」
「ああ、それは間違いねえな」
楽しそうに話す二人の様子からは、何か悪巧みをしている雰囲気は感じ取れなかった。彼らは本当に単なる休日の暇つぶしにアイシャ達を誘ってくれているのだろう。
「でも、なんで私たちなのです? 人間さんと一緒に遊んだほうが、面倒なことが少なくて楽しいと思うです」
「ええ? 何言ってるのさ、どうせ遊ぶならかわいい女の子とじゃないと。……あ、変な意味じゃなくてね?」
「……? ニーコちゃんと一緒に遊んでくれるってことなのです?」
「んー、ニーコちゃんもかわいいけど、どっちかというとアイシャちゃんかな! 実は14歳だってナツキちゃんから聞いたよ。それでもちょっと守備範囲外だけど今のうちにお友達にな痛って! 何するのさリンバウ」
「ナンパ始めんな馬鹿、困ってんじゃねえか」
「? ……? えっと……えっと」
――まずい、彼らが何を言っているのか分からない。なぜ今ローグはリンバウに怒られたのだろうか? どうも、普段《陽だまり亭》で常連客達が振ってくれた話題とはかなり趣が違うようだ。
困惑するアイシャを見て、ローグは「あーっと……ごめん」と少し気まずそうに謝って一旦咳払いをし、
「それにさ! アイシャちゃん、おなか空いてるでしょ? さっきからずっとかわいい虫が鳴いてるよ」
「はぅ」
諦めて帰ってくれるかと思いきや、すぐに立ち直って切り口を変えて攻めてきた。それも今のアイシャにはかなり効果的な方向から。
くきゅるるくるるぅ。胃袋まで、そうだそうだとけしかけてくる。
「う、うぅ、でもそれは、遊びにいっていい理由には……」
「なるなる! 全然なるよ。……あっ!」
そこでローグは今思いついたというように声を上げ、耳元に口を近づけて囁きかけてきた。
「そういえばさ、ナツキちゃんとハロちゃん、表街までおいしいもの食べに行ってるんだよね……? 二人だけずるくない?」
「っ、そ、それは……仕方ないのです。チケットは二枚しかなかったのです。それに……ハロちゃんにはお外を見せてあげたかったのです」
「おお……なんて健気な。……ね、僕達と一緒に来れば、組織の配給食なんかよりずっとおいしいもの、おなかいっぱい食べさせてあげるよ……? もちろん、僕達の奢りで」
「っ……!?」
「ていうかアイシャちゃんさ、その格好になって思ったけど、すっごい細いよね。ちゃんと食べてる? なんか、天使様を呼び出すのには栄養が必要とか言ってなかったっけ」
「あ、ぅ、確かに、そうなのです……けど」
――きゅっ。
しどろもどろなアイシャの服を、小さな手がつまんだ。
「え?」
こちらを見つめる潤んだ瞳と目が合った。
「なぅ……あいしゃ、にーこね、いーこにする。だから、なぅ、おねがい……」
「ニーコちゃん……っ、そ、その目は反則なのです……!」
ぐらぐら。頭の中で天秤が揺れている。
ずっと同じ部屋に閉じ込められているニーコに楽しいことをさせてあげたいという気持ち。ナツキとハロだけずるいという心の奥底の小さなわだかまり。おなかが空いたという生理的欲求。天使を呼び出すためにしっかり食事をとる必要があるという正論。ニーコの上目遣いの破壊力。全てがアイシャの使命感を崩さんと総攻撃を仕掛けてくる。
「ち……ちなみに、どこに食べに行くですか?」
聞くだけ、聞くだけだ。そう、彼らが自分たちをどこに連れていこうとしているのか知ることで、ニーコも納得させて誘いを断る方法を探すのだ――
「ん? 候補はいろいろあるけど……やっぱ屋台通りかな。ぼったくりじゃなくて美味い店、いろいろ知ってるから連れてってあげるよ」
「っ!」
屋台通り。その言葉を聞いた瞬間、ハロと足を踏み入れたときに漂ってきた、濃厚で香ばしいオクタボの香りが蘇ってくる。
くきゅるるるる……くきゅるるるるくるるるぅ……
「……た、食べたらすぐ帰るですよ?」
アイシャは胃袋に従うことにした。