水龍軒 Ⅱ
これは、いわゆる遺書ではない。
これは、一粒の奇跡を拾い導くための書である。
これは、一人の少女を救うための書である。
これは、いずれこの世に渡りくる一人の男に宛てた、手紙である。
私は一介の寿司職人だ。私に戦う力はなく、権力もない。
それでも、君にこの願いを託すことはできる。自分勝手なのは重々承知だが、どうか受け取って、私の代わりにこの想いを遂げて欲しいのだ。
いったい何の話をしているのか、と君は困惑しているだろう。もっと具体的に、結論から述べろと。
すまない。私は契約に縛られていて、禁則事項を書き記すことはできないのだ。タブーに触れた瞬間、私は死ぬ――そう思って読み進めて欲しい。
まずはようこそ、水龍軒へ。
君は大方、うちの店員にこの遺書を解読してくれと頼まれたのだろう。生憎だが、特に弟子に向けたメッセージはない。彼らが出した寿司と君が知る寿司に異なる部分があったのなら、それをメッセージとして伝えるといい。
もし君が知る寿司そのものを提供できたのなら、日本の味を絶やさぬよう店を立ち上げた者としては存外の喜びだ。その場合は、恥ずかしい恋文だったとでも伝えておけばいいだろう。
それから魔法の言葉を一つ教えておく。「イクラを七粒、つゆだくで」だ。
さて、どうでもいい話はここまでにしておこう。以下は君へのメッセージだ。
この日本語という言語を解する人間は、今この世界には書き手たる私しかいない。「彼女」はそう断言してくれた。
ゆえにもしこの文章を理解できるなら、それは記憶を保持して転生した地球人だということになる。馬鹿げた話だが、それが実際に起こりうることを私は知っている。
一方で、今となってはもう転生者が記憶を失わずにこの世界で目覚めることは不可能らしい。詳しい理屈は分からないが、そういう仕組みになっているのだと彼女は言った。
以上のことから、この文章は本来誰にも読まれるはずのないものだ。
ではなぜ私はこれを書いているのか。それは、彼女の提示した「仕組み」には穴があるからだ。
それは針穴のごとき微小な綻びで、原理的に修正不可能なものだと彼女は言った。そんなことはまず起こり得ないと彼女は主張したが、彼女は盲目的過ぎると私は考えている。針先より細い奇跡の光は容易にその綻びをすり抜けてしまうはずだ。
今後数百年、数千年の時が経ってようやく起こるかもしれないたった一つの奇跡。それを確実に拾い上げるため、私は今筆を取っている。
そう、君だ。君こそがこぼれ落ちかけた奇跡なのだ。
前世の記憶を保持したままこの世界に生を受けられる唯一の存在、それが君だ。君がこの文章を読めていることがその証明だ。
胡散臭い話だと思っているだろうか。ならば信用してもらえるよう、いくつか君のことを当ててみせよう。
ひとつ、君は地球で死亡後、地球ではない別の場所で生を受け、そこで再び死亡して、再びここに転生した。もしかしたら一度ではなく様々な世界を巡ってきたかもしれないが、少なくとも一つ、地球の外の文明を経由しているはずだ。
ふたつ、君は部分的に記憶喪失になっている。恐らく何らかの「天使」にまつわる記憶が欠けているはずだ。何か使命を与えられたような気がしているかもしれないが、あまり気にしないほうがいい。もし覚えていたとしても、君はその使命を放り出す可能性が高い。
みっつ、君は転生前の姿を失っている。これは君が「綻び」を通ってきた影響だが、星涙に近い容姿になっているだろう。勝手な想像だが、君はそれをなんだかんだ満喫しているんじゃないだろうか? 少し羨ましくもある。
――これくらいにしておこう。根拠については書くと死にそうなので割愛するが、どうせ当たっているだろう? 君の驚いている顔が見られないのが残念だ。
さて、話を戻そう。私は君をある場所へ導かねばならない――と言っても、私があれこれ先導するまでもなく、ただ一つの事実を伝えるだけで君は自らそこへ向かうだろう。
だがその前に、君は様々な「代償」を知る必要がある。
君がこの書を手に取るまで少なくとも数百年、この世界は滅びかけのまま存続してきたはずだ。
それはつまり、「神」の意思に抗って終焉を引き伸ばし続けてきたということ。そんな人の身に余る行いには相応の代償が必要になる。
星涙、時の聖剣、スペクトリアクター、ホロウベクタ、煌籃リンカネット、ラース・パラトネール、ハーモニウス・オルガン。
これらは全て代償だ。一つでもその代償たる理由を説明できないのならば、まして未知の単語があるのならば、君はまず調べ、暴き、識らなければならない。
もしかすると、これら代償は数百年の時の裏側に埋もれ、もはや君の手の届くところにはないのかもしれない。
それでも諦める前に今一度、家に帰って机に向かい、記憶を掘り起こしてみて欲しい。全ての答えはきっとそこにあるはずだ。
そして、君が全てを知ることができたなら。
全てを受け止める覚悟ができたなら、どうか。
どうか――彼女を赦し、救ってやって欲しい。
私では駄目だった。君でなければ届かないのだ。
失意の果て、彼女が最悪の道を歩み始めてしまう前に、どうか奇跡を。それだけが私の望みだ。
さて、伝えるべきことはほとんど書き終えた。よくここまで死ななかったものだと思うが、次が最後になるだろう。
いや――魂は消えないと理解はしているが、いざ死ぬとなるとやはり怖いな。少し無駄話でも書いておくとしよう。こんな畏まった文体もやめにしようか。
かれこれ80年も生きてきたけれど、やっぱり君とバカ騒ぎをしていた時が一番楽しかったと思う。今更になって、心からそう思うんだ。君はどうだい?
いや、異世界の暮らしの方が楽しかったって言いそうだな、君は。昔から無駄に適応力だけはあったし。
きっと僕の魂はこの星に囚われる。特別扱いしてもらえるかは分からないけど、もしかしたら、また君と出会って友達になれるかもしれない。その時はよろしく頼むよ。
じゃあ――さようなら、そしておかえり、僕の親友。
自分の店を持つ夢は叶ったよ、日本にじゃなかったけどね。
この店の主として、君の来店を心から歓迎するよ。
僕の名前は、タイショー。
君の名前は、ナツキだ。
彼女の名前は、メ――――――――――――




