Lhagna/τ - 雨
雨が、降っていた。
ヴィスタリア帝国学院、東研究塔36階、第一練気術研究室。
窓から見えるのは、激しい雨ではなかった。天気予報通り風は止み、ただしとしとと、雨が降っていた。
窓は開いていない。でもなぜか、わたしの足下に、ぽたり、ぽたりと雨粒が落ちた。
「うそ……うそです、だって、せんぱい、昨日も……元気で……」
ぽたり、ぽたり。
雨は、いつの間にか、わたしの目からも溢れ出していたみたいだ。
「だって……せんぱい、また明日って……また明日って、言ったじゃ……ないですか」
ふら、と一歩、部屋の中へ歩を進める。
奥のベッドに、人の膨らみが見えた。
なんだ、いるじゃないか。いなくなってなんかない。
「わたし、まだ……伝えてないんです」
「カナ……」
エクセルが、わたしに向かって手を伸ばしかけ、下ろした。
よろよろと、歩く。
見たら全てが壊れてしまうと、分かっていても。
全てがドッキリなんだ。みんな、わたしを驚かせようとしてるんだ。そうでしょ? そうだって言ってよ。
「せんぱいに……好きだ、って……伝えて……ないんですよ?」
ベッドの前に、たどり着く。
わたしの好きな人が、眠っていた。
随分と静かで、安らかな寝顔だった。
「せんぱい……起きてっ……起きてください……もう……っ、お昼、ですよっ……?」
せんぱいが起きないときは、鼻をつまむと一発で起きる。みんな、知らないんだろう。
右手を伸ばす。
「トスカナ、触れちゃ……むぐっ」
「ペフィ」
ペフィロちゃんが何か言おうとしたけど、エクセルが口を塞いだみたいだ。
何故か震える親指と人差し指が、せんぱいの顔に触れて。
「あ……あぁ……っ……いや……」
――大きくて、優しい手。でも、なんでこんなに冷たいのかな。
最初にせんぱいに触れたとき、そんなことを思ったっけ。
どうしてだろう。おかしい、な……
あんなに……あんなに、温かかったのに……!
「いや……せんぱい、いや、いやぁあっ! 何で、なんでぇ……っ」
自分の高い体温で温めようと、頬に手を押し当てた。
そのままベコッと、凹んでしまった。
「や、あぁっ、ああああああああっ、何で、やだっ、《キュア》、《ヒール》、《エルヒール》、《リバイブ》、《リジェネレーション》、《ヴァイタリティ》、《リペア》、《ライフトランジション》、《リカバリーフィ――」
「カナッ! やめろ、マナ中毒になる!」
「ばかっ、きみまで後を追うつもりかい!?」
「やめるんじゃ、阿呆!」
エクセルとペフィロちゃんとゴルグさんが走ってきて、わたしを羽交い締めにした。
やめてよ、せんぱいがケガしちゃったの、はやく、治さなきゃ!
「いや、やめて、放して! えくせ、る……ぺ……」
かくん、と、身体の力が抜ける。
ああ、マナ中毒だ。
一度に大量のマナを通しすぎた魔力回路の、決壊。
溢れたマナが神経系を侵して、首から下への信号を止めてしまった。
考えうる全ての治癒魔法を一度にかけたんだもの、当然の結果。
「まずい、心肺蘇生だ、ペフィは人工呼吸、ゴル爺は回路調律、早く!」
でも、そこまでしても、せんぱいは目を覚まさなかった。
わたしが凹ませてしまった頬も、元に戻らなかった。
この世界で最高位の治癒魔法の使い手、トスカナ=Q=ユーフォリエが、その身を犠牲にして全ての力を注いでも。
……死者は、蘇らなかった。
「クソっ、二人も、死なせて、たまる、かっ!」
エクセルが、倒れたわたしの上で、何度も何度も、わたしのからだのどこかを、強く押している。……胸かな? もう、えっちなんだから。
「いいかい、気を確かに持つんだ! 絶対、絶対たすけるぞ!」
ペフィロちゃんが、必死な表情で、何度もわたしにキスしてきた。……ああ、ファーストキスが。せんぱいとする予定だったのに。
「調律、開始、ぐ、ぉぉおおおおっ、なんの、これしきぃいっ!」
ゴルグさんが、わたしのおでこに手を置いて、何か叫んでいる。……せんぱいが練気術でわたしの魔力切れを治療してくれるときも、おでこだったな。
みんなが何をしているのか、何も分からないけれど。
死にかけているわたしを助けようとしてくれていることだけは、分かった。
わたしたちは神様に選ばれた最強の勇者パーティで、ずっと信じ合ってきた仲間だから。
きっと私は助かるんだろうなって、思った。
――でも、なんで。どうして。神様。
――どうして、せんぱいは助けてくれなかったんですか。
いっそわたしも死んじゃえばいいなんて気持ちは、必死な三人のせいで、胸の奥に押し込められてしまって。
喉にも力が入らず、叫ぶこともできないまま。
ただ涙だけが、雨と一緒に、溢れ続けて。
不格好な夕焼け色のマフラーに、吸い込まれていった。