幼女、観光する Ⅲ
「おーいハロ、どこー?」
「ココナお姉ちゃーん! こっちだよー!」
いくつも生垣を挟んだ向こう側から、楽しそうな応答が返ってくる。
「このめいろすごいねー、お姉ちゃーん!」
声のする方角が変わった。
「ちょっと、ハロ、動かないでってば! 合流しようよー!」
「えへへっ、おにごっこだー!」
「呑気なこと言ってないで! ここなんか変な噂あるみたいだし、離れないほうがいいよ!」
自然の迷路にようこそ、なる文言は比喩ではなかった。ネーヴェリーデの北端には崖と石橋が互いにめり込むように重なったエリアがあり、その周辺には生垣で作られた人工の大迷路が広がっていたのだ。
迷路は大人でも充分に楽しめるほどに本格的なものだった。所々に点在する全く同じ大きさの正方形の休憩スペースが、まるで同じ場所に戻ってきてしまったかのような錯覚を生む。しかも迷路には高低差があり、道や水路、トンネルが立体交差するような構造がさらに難易度を上げている。
時折すれ違うほかの観光客は、皆どこか真剣な表情をしていた。
ナツキとハロが子供二人だけでこの迷路に挑んでいることに気づくと、彼らは揃って心配そうな顔になった。迷って出られなくなってしまうと思われているのか、と考え「慣れてるから大丈夫だよ」と声をかけてみると、彼らは何故か口を揃えてこう言うのだ。
――神隠しに気をつけて、と。
曰く、この迷路は世界の裏側に繋がっていて、迷い込んでしまうと二度と帰ってこられない。迷路には目に見えない魔物が潜んでいて、一人でいると妖艶な呼び声が聞こえてくる。それに耳を貸してしまえば、たちまち闇の底に引きずり込まれて消えてしまう――そんな眉唾ものの噂がまことしやかに囁かれているらしい。
つまるところ、すれ違う観光客達は皆、そんなオカルトスポットの噂を聞いてやって来た物好きばかりというわけだ。
だからと言って完全に根も葉もない客寄せのガセネタかと言うと、どうやらそうでもないらしい、ということがつい先程すれ違った女性との会話で判明した。
『私、友達と旅行で来てたんだけどさ……三日前にここではぐれてから、通信機も繋がらなくなっちゃって』
『神隠しなんて正直信じてなかったけど……あはは、参ったなぁ……』
空元気で笑いながら、君たちも気をつけなよ、と言って女性はふらふら去っていった。嘘をついているようには見えなかったし、追いかけていったハロに一生懸命励ましの言葉をかけられたときに見せた涙は本物だった。
「迷いに迷って遭難、通信機も故障……の線はないか」
本格的な迷路とは言え、所詮は人工の庭園の一角だ。遭難するほどの広さではない。しかも生垣の高さはせいぜい1.5メートル。ところどころに踏み台になりそうな出っ張りも用意されており、子供でも迷ったら上から見下ろして出口への道筋を確認できるようになっていた。さすが観光地、安全対策もバッチリだ。
となると可能性としてありそうなのは、怪我をして動けず立ち往生しているか、生垣で視界が悪いことを利用した誘拐、殺人の類だ。
「……長居はしないほうがいいかな」
もし誘拐犯のような何者かが潜んでいるなら、単独行動しているハロは格好のカモだ。早く合流して用事を済ませて脱出するとしよう。
脳内マッピングをしながら《気配》術でハロの位置を特定し、音を立てずに回り込み――
「捕まえたっ!」
「きゃーっ! あはははっ、お姉ちゃんすごーい!」
曲がり角で出会い頭にハロの脇に手を突っ込み、抱き上げる。ハロは楽しそうにじたばた手足を振って笑った。
地面に下ろしてやると、ハロは満足気にパンフレットを取り出して広げ、
「あー楽しかった! ねえねえお姉ちゃん、つぎはどこいくの?」
「えーと、次の予定は……って、待った。ここの予定がまだだよ」
「あれ?」
「ほら、これ」
そうだっけ、と首を傾げるハロに試験管を見せる。思わず自分まで迷路に夢中になってしまい、謎の噂に振り回されたりもしたが、ここにはもともと水質調査のために来たのだ。
なぜこんな場所の水質が裏街に関わるのかは不明だが、まあ水の都と言うくらいだし意味はあるのだろう。
「庭園の中の水路ならどこでもいいって言ってたけど、この辺にはなさそうかな。噂のこともあるし一度迷路から出て――」
「すいろ、近くにあるよ?」
「え、ほんと?」
「うん! ハロにまかせて!」
ふんす、と何やらやる気になったハロは、その場でぐるぐる回りながらくんくんと匂いを嗅ぎ始めた。今朝アイシャからも聞いたが、ハロの嗅覚は凄まじくいいらしい。
やがて「こっち!」と自信満々に歩きだすのでついて行くこと数分、急に開けた場所に出た。
「おぉ……」
「わぁーっ、大きい木だ!」
他の正方形の休憩所を四つ並べたくらいの広さの広場。その中央にとても大きな広葉樹がどっしりと居を構えていた。大きく広げられた枝葉は優美に照らされて金色に輝き、海風に揺られて心地よい葉擦れの音を響かせている。
その根元を避けるように、広場の外周に掘られた溝をさらさらと水が流れていく。ハロはこの匂いを追って来たのだろう。
「ハロ、さすが! ありがとね」
「ふふん!」
ドヤ顔を見せるハロの頭を撫で、忘れないうちに水の採取を、と試験管を浸す。コルク栓を締めて夕日にかざすと、透明な水の筒がキラキラと輝いた。
「……ん?」
ふと、気づく。試験管越しに見た大樹の根元、休憩用に備え付けられた木製のベンチに誰かが座っている。大人の女性だ。視線は大樹の枝葉に向けられており、自然の中で優雅に休憩中のように見える。
普通なら、穏やかな時間を邪魔するのも申し訳ないと思い、特に話しかけることもなくその場を去るところだが――《気配》術を薄く展開していたナツキは気づいてしまった。
その女性は一切の感情・思考を発しておらず、極度の放心状態である、ということに。
「あの、すみませーん」
女性に近づき、声をかけてみる。反応はない。
目はぼんやり開いており、時折瞬きもしている。死んでいるわけではないが、焦点が定まっておらずどこも見ていないようだ。
「なつ……ココナお姉ちゃん? どうしたの?」
「いや、この人、様子がおかしくて……お姉さん、大丈夫ー?」
ぽんぽんと肩を叩いてみる。これでダメなら気を流し込んで魂を刺激してみよう、と気を練り始めたところで、女性の体がピクリと反応した。
「え……あれ、私……」
「あ、良かった、気がついた。大丈夫? ぼーっとしてたけど……」
気温は涼しめなので熱中症ではないだろう。着衣は少し乱れ気味だが、服のまま布団に入った程度。見る限り目立った外傷もない。暴漢に襲われたわけでもなさそうだ。
「具合悪い? 出口まで送っていこうか?」
「ハロ達があんないするよ!」
「…………えっ、と」
貧血か、あるいは何かしら持病か。他に任せられそうな人がいない以上、見捨てていくわけにはいかない。
心配する二人を交互にぼんやり眼で見つめ、女性は呆然と呟いた。
「……あー……戻ってきちゃったんだ」
何かを思い出すように上を見上げたかと思うと、何故かその表情が恍惚にとろけていく。
「うふ……ふふっ……また……また行かなきゃ……歌を……歌を聴かせて……」
「……お姉さん?」
「君たちちっちゃくてかわいいね……翼はないけど、あの子みたい……うふふ、一緒に行く……? いいよ、行こう……楽園が私たちを、待ってる」
上気した顔のまま、女性はうわ言のように言葉を垂れ流し続ける。ナツキ達に話しかけているようで、その目は何か別の幻覚を見ているようだった。
「お姉さん、もしかして何か変なキノコとか食べたり……」
「……あれ、お姉ちゃん、なんかこの人……」
「あぁ――――っ!? いた!!」
「うわっ!?」「きゃっ!?」
突然背後から響いた絶叫に、ナツキとハロは揃ってビクリと肩を揺らす。慌てて振り返ると、先程すれ違った女性が広場の入口に立っていた。
「あっ! さっきのお姉ちゃん! おともだち、見つかった……?」
「あ、うん、さっきぶり……で、見つけたよ、今! そこに!」
ハロに心配そうに問われ、友人を探していた女性は木の下のベンチを指さしてそう答えた。
「え、まさかこの人が?」
「そう! ちょっとデリア、あなた今まで一体どこにいたわけ!? 心配させないで……デリア?」
鼻息荒くのしのし歩いてきた女性は、すぐに友人の様子がおかしいことに気づいて眉を寄せた。
デリアと呼ばれた女性も近づいてくる友人に気づき、とろんとした目を向ける。
「ん……ヴィーシャぁ……?」
「そうよ、あなたの幼馴染のね。何ぼけっとした顔してんの……熱でもある?」
「うふ……うふふ……ヴィーシャも一緒に来ればよかったのに……」
「はあ?」
「楽園……楽園だよ……ヴィーシャもきっと気に入る……さぁ、行こう……?」
「え……なに、楽園? 酔ってる、デリア……?」
ヴィーシャと呼ばれた女性は困惑の表情でナツキとハロに目を向ける。何か知っているかと聞きたいのだろうが、生憎何も分からない。
「ボク達が来たときは、ずっとそこでぼーっとしてたんだけど……様子が変だって思って話しかけたら、そんな感じになっちゃって」
「そっか……お腹すいてなんか変なキノコでも拾い食いしたのかな。デリアなら有り得る……」
「有り得るんだ!?」
「三日前もなんかその場のノリで高そうな壺買ってたし……ってあれ、持ってないじゃん! てか手ぶら! 鞄ごとどっかに落としてきた!?」
「うふふ……違うの、対価なんだから……全然安いもんでしょ……?」
「はあ? あーもう、なーんで旅行先でまでこうなるかな……よいせっと」
ヴィーシャは手馴れた様子でデリアを肩に担いだ。デリアも特に抵抗することなく担がれている。イレギュラーな光景のはずなのに、何故か自然さが滲み出ている。幼馴染の日常というやつだろうか。
「見つけてくれてありがとね。こいつは私が病院に連れてくから、心配しなくていいよ」
「あ、いや、ボク達は何もしてないけど……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。よく拾い食いしてお腹壊すのよ、こいつ。ったく懲りないんだから……」
ヴィーシャは呆れ顔で溜息をついたが、その表情には安堵と共に一抹の不安も滲み出ていた。