Lhagna/τ - 魔族の少女 Ⅰ
何者かに使われていたトスカナの魔力回路は、もう少しでマナが溢れてしまうのではないかという寸前のところでその動作を止めた。回路内に残っていた大量の風のマナが、魔法の残滓としてボシュッとトスカナの身体から吹き出し、抱きしめるように密着していたペフィロを吹き飛ばし、目の前にあった焚き火をかき消し、洞穴の内部を吹き荒れた後、穴の入口に積もった雪をごっそり空の彼方へと運んでいった。
大量のマナを一度に必要とする大魔法であればあるほど、マナ効率は悪くなり、残滓として無為に放出されてしまうマナも増える。それをどうにか技術で少なく抑えるのが魔女としての腕の見せどころなわけだが、今回トスカナの魔力回路を使ったのは、想像通りであれば恐らくニーコ、つまりちゃんとした使い魔契約もしていない猫である。そんな技術など持っているわけもなく、ただすさまじく大量のマナを流し込んで物量で押し切った、そういう残滓の出方だった。
「こんな量のマナ……一体どうやって調達したんでしょう……」
トスカナの知る限り、ラグナにおいてひとつの場所にこれだけの風のマナが自然に集まることはない。氷や闇のマナならともかく、全元素中もっとも拡散の速い風のマナは、一箇所に蓄積されるとどんどん周囲へ逃げていってしまうのだ。
しかし今トスカナの魔力回路を流れ続けた風のマナは、割り砕くことで枯渇した環境マナを賦活できるマナ結晶を一度に何千個も使えばどうにか可能なのかもしれない……というレベルの量だった。もちろん、国が管理している貴重なマナ結晶を老猫一匹がそんな大量に盗み出せるわけもない。
ここがシルヴァールなら、女神の住む森の泉に浸かりながらであれば可能かもしれないが――いや、そんな無礼なことができるはずもない。途中で女神に怒られて追い出されてしまうだろう。
「うーん……」
「と、トスカナ! ぼんやりしてないで助けてくれたまえよ!」
「へっ?」
くぐもったSOSにハッと顔を上げる。見れば、先程の風圧で飛ばされたペフィロが頭から岩壁に突き刺さってしまっていた。腕ごと腰くらいまで埋まってしまっており、あれこれ丸出しのあられも無い状態で足だけがじたばたともがいている。
「わーっごめんなさい! すぐ助けますから、とりあえず足閉じてくださいペフィロちゃんっ!」
他に誰がいるはずもない洞穴で、思わず後ろを振り返って誰かが見ていないか確認してしまうトスカナだった。
ペフィロを引き抜きながら、思う。ニーコは目的を遂げられただろうか。魔力回路が止まったのは、ニーコの大切な誰かを助けられたからだろうか。それとも、もう――
――いや、考えても仕方がない。きっと成功したのだ。そう信じよう。
それからおよそ一週間、またトスカナの魔力回路が専有されるようなことはなかった。
トスカナとペフィロは滞りなく魔王城への道を歩み続けた。見覚えのある村々の宿に泊まり、なぜ勇者様が、と騒がれながら、やがて魔王城のあるアルルゼール魔煌国の国境、《凍牙の谷》に辿り着いた。目の前にぱっくりと開いた氷の大亀裂の向こう、ゴツゴツとした岩山に埋まるように、黒々とした魔王城が血のように赤い光を漏らし――その全てが蜃気楼のように揺らめいている。
かつて魔王軍と戦いながら、何度も前進と後退を繰り返して一年もかけて踏破した行軍路。それが今はもう、魔王城が見えるほどの距離までたった一週間である。魔王軍の妨害はもちろんなく、魔物の残党にも一日一匹くらいしか遭遇せず、拍子抜けも甚だしい――もちろん、いいことなのだが。
「こんなに簡単に、ここまで来れちゃうようになったんですね」
「うむ」
「うふふ。感慨深いですね、ペフィロちゃん」
「うむ」
「…………えっと」
「心の準備は済んだかね」
「うぅ……まだです……」
そう、ここで終わりではないのだ。目の前に口を開ける《凍牙の谷》こそ、トスカナが超えねばならない最凶最悪の難関なのである。
底の見えないこの大亀裂は、自然にできたものではない。アルルゼール魔煌国をぐるりと囲むように人工的に作られた、侵入者を阻む氷と闇のマナの吹き溜まりなのだ。最深部の気温は氷点下50℃を下回り、とてもではないが動物の暮らせる環境ではない。
ならば飛んで亀裂を超えればいい、と誰もが思うだろう。しかしそれを実行に移したが最後、その者は凍牙の餌食となる。亀裂の上空には活性化した濃密な闇のマナが渦を巻いており、重力の方向がめちゃくちゃになっているのだ。
これは、飛ぶ方向が狂わされていつの間にか亀裂に真っ逆さま――なんて生易しい罠ではない。
一年半前にここに来たとき、重力とは時空の歪みなのだとエクセルノースは言った。上空を一目見たペフィロは引きつった顔で一歩後ずさった。そこかしこにある重力の変わり目のような場所では時間がずれ、空間が千切れている――彼らが何を言っているのかトスカナにはさっぱり分からなかったが、大事なのは、そこに突っ込んでしまったが最後、体は空中に縫い止められ、一瞬の後に引き裂かれて臓物を撒き散らしながら死に至るということだった。
勇者パーティの面々は全員、実際にその様子を見た。重力が狂う程度どうということは無い、と何の根拠もなく豪語したワイバーン騎兵隊の若い兵士が、制止を振り切って谷を越えようとした結果、この世の物とは思えない苦悶の叫び声と共に細切れ肉となって飛散し、ギャアギャアと飛来した魔鳥の群れについばまれて跡形もなく消え去るまでの過程を、トスカナ達ははっきりと見てしまったのだ。
「うっ……」
当時の光景を思い出してしまい、吐き気が込み上げてくる。思わず口元を抑えたトスカナの背を、ペフィロの小さな手が優しく叩いた。
「思い出さないほうがいい。……今のぼくでも、この谷を飛んで超えるのは無理だぞ。それこそ成層圏まで上ってみれば分からないがね、きみが気圧に耐えられない。寒さに耐えて正規ルートを辿るより他に道はないぞ」
「……分かってますよぅ」
ペフィロが視線を向ける先に、亀裂の壁に沿って谷底へと降りる道の入口がある。比較的安全に魔煌国の内外を行き来するための唯一の道だ。
覚悟を決め、行きましょう、とペフィロに声をかけようとした――まさにその時だった。
「ぎにゃああぁぁぁあぁあ! は、離せ、離すのだー!」
そんな甲高い叫び声が、空から響いてきたのは。
「っ、ペフィロちゃん、あれ!」
「うむ、確認したぞ」
見上げた先、上空数十メートルの高さを大きな鳥が飛んでいる。ただの鳥ではない、知性を持ち人語を解する、魔王によって生み出された魔物の一種、魔鳥トラケラである。凍牙の谷の周辺に生息しており、近づいた人間を攫って谷の上空へと運び、重力の渦へ投げ込んで食べやすいサイズに千切ってから捕食するという、とんでもない生態を持っている。トラケラ自身は何らかの器官で重力の渦を回避できるのか、谷の上空でも自由に飛び回れるのが厄介だ。
今上空を飛んでいるトラケラは、その鉤爪でガッシリと獲物を抱えていた。フーデッドローブで身を隠しているが体格からして子供、じたばたもがいて叫んでいる。トラケラはあと数秒もせず谷の上空に到達してしまう。そうなったらあの子は――
「ペフィロちゃん!」
「まったく……ぼくは防御特化型の機体なんだぞ、本当は!」
毒づくペフィロの指がトラケラに向けられ、先端が青く光り始める。カカカッ、と腕の位置がコンマ数秒かけて微調整され、青いレーザービームが一条、曇り空を貫いた――その途中にトラケラの羽を串刺しにして。
クェェッ、と高い叫び声を上げ、トラケラが子供を取り落とす。
「ほれ。あとは任せたぞ」
「はい!」
すでに発動を済ませていた闇属性魔法《ゼロ・グラビティ》で空中に浮かび上がり、凍牙の谷の上空に入ってしまわないギリギリのラインを、落ちてくる子供に向かって一直線に飛翔する。
「ぎにゃああぁぁぁああぁぁあ! お、落ちるのだああぁあ……んぶっ」
「落としませんっ!」
激突気味に子供の体を抱き抱えて回収。周囲から様子を窺っている他のトラケラに絡まれる前に即Uターンし、こちらに向けて手を振るペフィロの前に降り立つ。ほっと一息、笑顔を交わした。
「ふぅ。大丈夫ですかー?」
子供を地面に下ろす。怪我をしているかもしれない、そうでなくとも震えて立てないかもしれないと思い体に手を添えたまま様子を見るも、子供は意外にもピンピンした様子でトスカナの手を振り払った。
「ふふ……ふはーっはっは! よくやったのだ、貴様ら。誰だか知らんが褒めてやるのだ!」
目深に被ったフードの向こうから、そんな偉そうな言葉が投げかけられる。それを聞いたペフィロの手が子供の背後から伸び、トスカナが制止するよりも早く、
「感謝するなら顔を見て言いたまえよ」
「え、わっ、やめるのだ! フードを取っちゃ……あっ」
勢いよく後ろに引かれたフードの中から、可愛らしい少女の頭が現れた。
真っ赤な瞳に、夜のように真っ黒な髪。ほとんどが肩口ほどの長さで切り揃えられている中で、左右ひと房ずつ少し長めの束がくるんと巻かれているのが特徴的だ。そしてさらに目を引くのは――髪より少し明るい灰色の、大きな二本の巻き角だ。
ラグナにはたくさんの種族の人間がいる。獣人もドワーフも皆大きな括りでは「人間」だ。その中には羊のような巻き角を有する人種も存在するが、彼らは羊と同じように全身が羽毛で包まれており、肌が雪のように白い。
一方、この少女は巻き角を持っているが、肌はトスカナ達と似た薄橙色で、毛むくじゃらでもない。ラグナにはこんな特徴を持っている人種は存在しない。しかしトスカナとペフィロは、彼女の姿に見覚えがあった。
何せそれは、つい一年前までトスカナ達がずっと死闘を繰り広げてきた――
「魔族……!」