裏街ワーカーズ Ⅳ
結論から言えば、その日は魚を捕ることはできなかった。
力不足だったのか? いいや、そうではない。大きな進展はあったのだ。それにハロは「任せて」という言葉の通り大活躍だった。
水の匂いを覚えたハロは、アイシャと一緒に付近の人混みを歩き回り、数分もせずに一人の男をターゲットに据えた。
「アイシャお姉ちゃん、あの人……」
見てくれはごく普通の、アイシャやハロも纏っているフーデッドローブで素顔を隠した一般住人だ。酔っているのか足取りは少しふらふらしている。何かガチャガチャカチカチと金属や木が擦れる音のする袋を担いでいる。恐らくはハンマーやレンチといった工具の類だ。
「同じにおいなのです?」
「えっとねー……」
すんすん、目を閉じて匂いを嗅ぐハロ。そのまま男と十メートルくらいの距離を保ちながら同じルートを歩き続けること数秒、
「お水には入ってないけど、お水がたくさんあるばしょにいつも行ってて、おててはさびた鉄をよくにぎってる。あのあまーいにおいもほんの少しだけ、おててについてるよ。それに……」
「!? ちょ、ちょっと待つです、そんなことまで分かるですか!? 心でも読んだです!?」
「えへへ、ちがうよ。においのばしょとー、動きとー、あとなんかもわもわって……んー、広がり? を感じるんだよ!」
説明されても意味がわからない。心に余裕が生まれてからはずっと同種のニーコと一緒に暮らしていたせいで気にしたことがなかったが、こうも忌印種によって感覚に差が出るのか。
「アイシャお姉ちゃん、ハロすごい? ほめてほめて!」
目をキラキラさせて見上げてくる。ローブの背中がわさわさと揺れているのは、きっとあのふさふさの尻尾が中でぶんぶん振られているのだろう。感情が無意識に尻尾に現れてしまうのはフェリス種もペロワ種も同じだが、ハロやニーコは顔も声も尻尾も全部同じ感情を全力で表現してくるので、見ていて気持ちがいい。
「とってもすごいのです! あまーい匂いがするってことは、きっといつも水路に行ってる水路に詳しい人なのです! たぶん整備士さんなのですよ」
「えへへ……あれ、なんでせいびしさんだって分かったの?」
「それはほら、あの袋の中にたくさん工具が入ってるです。点検や修理のためのものだと思うです」
「え!? ……アイシャお姉ちゃん、ふくろの中が見えるの!?」
そんな訳がない。単にあの男が一歩歩くたびにガチャガチャ鳴る音が、フィルツホルンのスラムで暮らしていた頃、壊れては作り直される粗末な家々の周りでよく聞いていた音だから分かっただけだ。
しかし何をもって透視しているなどと……と思いかけ、つい先程自分も素っ頓狂な問いをハロに投げたことを思い出す。そう、ペロワ種の嗅覚が優れているのと同様、フェリス種は耳がいいのだ。
「ふふん、わたし達フェリス種は他のどの忌印種よりも耳がいいのです。音を聞いてるですよ」
「えーっ、すごい! でもハロだって耳はいいはずなのに……むむむー」
ペロワ種の聴覚も人間と比べれば遥かに優れているが、フェリス種はそのさらに上を行く。ハロは対抗心を燃やしたのかフード越しでも分かるくらい耳を持ち上げて音を聞き取ろうとしていたが、やがて諦めて肩を落とした。
「うーん、わかんないや。でもすごいよ、お姉ちゃんとハロがいっしょなら何でも見つけられるかも!」
「その通りなのです! ……というわけで、尾行するですよ、ハロちゃん! あの人について行けば、隠された水路の引き込み口にたどり着けるはずなのです!」
「うん!」
幸い今いる場所は人通りも多い。男も人気の少ない場所へ向かう様子はない。絶好の尾行日和だった。
そのまま男を追い続けること数分、急に周囲が明るくなり、開けた空間に出た。
フィルツホルンの闇市のように広い道の左右に所狭しと屋台が並び、提灯の明かりが並んでいる。しかし何よりその空間の明るさを生み出しているのは、他でもない太陽の光だ。
「わっ、まぶしい!」
「まるでお外にいるみたいなのです……!」
真っ直ぐ伸びる広い一本道の先に、洞窟の出入口が開いている。その向こう、海の彼方に浮かぶ真っ赤な太陽の光が、道全体を貫き照らしているのだ。裏街と表街の境目でもあるのか、フーデッドローブを着ていない観光客らしき者も多い。
高い天井を見上げれば、一本道の左右の壁を結ぶ紐に吊るされたいくつもの大きな横断幕が、この場所が観光名所であることをでかでかと教えてくれていた。
――『屋台通りにようこそ!』
――『食べ歩きからお土産まで 屋台通りで最高の思い出を』
――『ストップ! ポイ捨て ゴミは壁沿いのゴミ箱へ』
屋台通りと名付けられているらしいこの場所は、フィルツホルンの息の詰まるような暗い闇市とは異なり、まるで祭のように活気に満ちていた。
「わぁ……」「すごーい……」
初めて見る光景に目を奪われ、アイシャとハロは言葉を失う。突然暗がりから明るみに出たことで眩んでいた視界が元に戻り、それが実はちょうどよく暖かな光源なのだと気づく頃には、……尾行していた男の姿は見えなくなっていた。
「あっ! み、見失っちゃったのです!」
「だいじょうぶ! ハロにまかせて!」
再び目を閉じ、くんくんと辺りの匂いを嗅ぎ始めるハロ。アイシャには大量の屋台から漂う美味しそうな匂いと、出入口から吹き込んでくる風が運ぶ潮の匂いしか感じ取れない。ならばと聴覚を頼ってみるも、屋台を設営したり片付けたりしている音が四方八方から聞こえるせいで全く分からない。音は匂いと違ってその場に残ってくれないうえ、高精度に聞き取るためには音の方向に耳を向けないといけないのだ。
ここまでか。アイシャはそう諦めかけたが、ハロの嗅覚はアイシャの予想を遥かに上回る働きを見せた。目を閉じたまま直径一メートルくらいの円を描くように歩いたかと思うと、
「こっち!」
迷いなく一つの屋台目掛けて走り出した。看板に掲げられている文字は「オクタボ」。ソースの匂いで思い出す、フィルツホルンのスラムでラムダに奢ってもらった熱々の……
「……じゃなくて! ハロちゃん、おなかすいたです!?」
「え? ちがうよ、こっち!」
「ふぇ?」
見ればハロは、オクタボの屋台と隣の屋台の間の隙間を抜けて向こう側に立って手を振っていた。……どうやらおなかが空いていたのはこちらの方だったようだ。
そのまま屋台の裏側を進むこと一分ほど、洞窟の壁面の少し凹んだ部分に無骨な鉄の扉を発見した。ただ、見るからに怪しい扉かというとそうでもない。掃除道具の入ったロッカーやら屋台の部品やら、そういうごちゃごちゃしたものが屋台を楽しんでいる人々から見えないようにまとめられている一角に、用具倉庫の入口ですよ、みたいな顔をして堂々と存在する、ありふれた形の扉だった。
「この奥なのです?」
「うん、取っ手にあの人のおててのにおいがついてるよ!」
「ならこれがきっと、秘密の部屋……」
「おらガキ共、邪魔だ邪魔」
「ひゃいっ!?」
突然後ろから声をかけられ跳び上がる。振り返ると、鉄パイプのようなものを肩に担いだフーデッドローブの男が、シッシッと手を払っていた。裏街の住人だろう。
「チッ、何だよ、迷子か? 屋台通りはあっちだぜ。ここは舞台裏なの、お前ら客が入っていい場所じゃねえの……って格好的にお前らも裏街のガキか。何か企んでんのか……?」
担いでいたパイプを同じようなパイプが積まれている場所に下ろしながら、男は訝しげにこちらを見る。スラムや闇市に生きる子供達が悪さをしがちなのはどこも一緒のようだ。
「あ、あのね、ハロ、だれかがこのドアに入っていくのを見たの! それで……えっと」
「なのです! このドアの奥に何があるのか気になって見に来たです! お兄さんは何か知ってるです?」
ラクリマだとはバレていない。ハロに合わせて好奇心旺盛な子供を演じてみると、男はあっさり興味を失い、呆れたように肩を竦めた。
「さあな、屋台レンタルの管理人共の倉庫かなんかだろ? 前になんかの部品探しに入ってみようとしたこたぁあるけどな、鍵閉まってたし……お? 開いてんじゃねえか」
男は扉を開けて中を覗き込み、
「ん……倉庫じゃねえな。廊下か……うおっ!?」
何かに気づき、そそくさと扉を閉めた。
「何があったです?」
「おしえておしえて!」
「……目キラッキラさせてんじゃねえよ、こりゃ《パーティ》の縄張りだぜ……ったく、ちゃんと鍵閉めとけってんだ」
「パーティ?」
知らない隠語らしき単語。掘り下げて聞こうとするも、男は曖昧に口を濁して語ろうとしない。
「あーほら帰った帰った、風邪流行ってんだからガキは外出てこねえで大人しくしてろっての」
「ふぇ……風邪が流行ってるのです?」
「なんだ聞いてねえのか? 最近な、ガキにしか伝染らねえっつう変な熱風邪が大流行してんだと。だからな、ここらで探検は切り上げてねぐらに戻れよ。じゃあな」
「あっ、待っ……行っちゃったです」
男は逃げるように去っていった。風邪云々は話を逸らすためにでっちあげた話題――というわけでもなさそうだった。おやっさんやリリムに報告しておいたほうがいいだろうか。
「アイシャお姉ちゃん、どうしよう? パーティのナワバリ……ってなに?」
「パーティ、は何かの組織のことだと思うですが……とにかく、深入りするのは危険みたいなのです。わたし達だけじゃ……」
――ガチャ、カチャ……
扉の方に向けていた耳が、金属や木の擦れる音を捉える。
「……っ! ハロちゃん、こっち来るです!」
「え?」
「その扉の向こうから、誰か来てるです! 多分さっきの……とにかく隠れるです!」
ハロを引っ張って近くの岩陰に飛び込む。と同時に扉が開き、先程尾行していた男がふらふらと出てきた。
「今日も異常なし、っと……変だよなぁ~……ったくよ……あれ、鍵が合わねえ……んー……?」
ガチ、ガチ、と男は何度も鍵を鍵穴に入れようとしては失敗する。鍵の持ち手の部分を穴に入れようとしているのだから当然なのだが、どうやら相当酔っているらしい。
「あークソ、何だってんだよ……あ、そうか……もう鍵が閉まってんのか。道理で入らねーワケだ、俺もバカだな。ハハハ、ハハハッ!」
突然大声で笑いだす。その様子は酔っているというより、どちらかというと……狂っている。
「あはは、へんなの、カギがしまっててもカギが入らないのはおかしいのに」
「ハロちゃん、しーっ」
「あぁん? 誰かいんのか?」
慌ててハロの口を塞ぎ、動きを止める。そのまま息を潜めること数秒、男は「気のせいか」と呟いてどこかへと去っていった。
残されたのは、鍵が開いたまま放置された扉。
「さて……どうするです、ハロちゃん?」
「ふふー。グンモンだよ」
「軍門?」
「こたえるひつようもない、あたりまえって意味だよ。カイお兄ちゃんがよく言ってた!」
それはきっと「愚問」だ。しかしハロは得意げに胸を張っているので、なるほどです、とスルーしておく。彼女の返答は理解したし、こちらも同じ気持ちだ。
二人で視線を交わし、頷き合い、扉を開ける。
真っ直ぐ伸びる廊下の奥の暗闇から、ぴちょん、と水滴の落ちる音が微かに聞こえてきた。
「真っ暗なのです……」
「うぅ……あ、そうだ! こんなときこそ……」
「ハロちゃん?」
ハロがおもむろに首元をまさぐりだす。何をしているのかと覗き込んだアイシャの目を、突然眩しい光が覆った。
「ふにゃあっ!?」
「わっ、ごめんね! ちょっと強くしすぎちゃった……えっと、これくらいかな」
ハロの指がきゅっきゅっと首元をこするたび、光が少しづつ弱くなっていき、やがて温かな茜色の光に変わる。光を放っているのは……首輪だ。聖窩に置いてきた本物の代わりのカモフラージュ用に、ナツキがハロに制作を依頼していたものである。
「ふふん、ハロとくせーの首輪れぷりか、ヒミツ機能そのいち! 『ぴかぴかライト』だよ!」
「わぁ……ナツキさんと何かこそこそ話してるとは思ってたですが……それ、どうやってるです? わたしも光らせたいのです!」
「えへへ、これはねー、ナツキお姉ちゃんの気をためてあって――って、いけない! これ、3分できれちゃうんだった!」
「ふぇ!? い、急ぐのです!」
茜色に照らされた廊下に駆け込み、すぐ横に見えたのはアジトにもあった変なマーク。先程の男はこれを見て驚いていたのだろうか。少し進んだ先に気密扉があり、奥からはごうごうと水が流れる音。笑顔を交わし、扉を開き――
そう、ここまでは順調だったのだ。
この先に問題解決の糸口があるに違いないと、アイシャもハロも信じていた。先程の男は事件に深く関わっていて、自分たちはこれから彼の口を割らせるための証拠を取りに行くのだと、そう思っていた。
☆ ☆ ☆
「あ、お疲れーナツキちゃん。……ナツキちゃん?」
リリムが遊び疲れて寝てしまったニーコと一緒に部屋で待っていると、ナツキが帰ってきた。しかしその足取りはふらついており、
「あ、リリムおねーちゃん……えへへ、ただいまー……」
「んえ!? お、おかえり……」
「おねーちゃん……ボクもう疲れたよ……。お願い、ぎゅーってして……?」
「えええ!? うん、お、おいで……?」
普段のナツキなら考えられないような台詞がポンポン飛び出してくる。困惑しつつも要望通り抱きしめてあげると、ナツキは腕の中で安心したように力を抜いた。そのまま瞼が閉じていき――
「……ん? はっ!」
突然カッと目を見開き、勢いよく体を起こした。
「り……リリムさん、ボク、今変なこと言ってた?」
「……。いや?」
「何そのほくほくした顔! 言ってたよね! ごめんね、忘れて! あああもう、ついうっかり仕事モードになってたよ……全部おやっさんのせいだ……っと、と」
何やら聞き捨てならない言葉が聞こえた気がするが、疲労困憊なのは確かなようだ。頭を抱えてふらつくナツキを支える。
「ナツキちゃん、戦闘訓練の教官しに行ったんでしょ? ……何やらされたの? まさか……」
「いや、普通に戦闘訓練しただけだよ、うん……最初は大したことなかったんだけどね……40人くらい相手したあたりからなんか百人組手みたいな形式になって……どんどん妹とボクの境界があやふやに……お兄ちゃんがたくさん……妹とは……」
うつらうつら、要領の得ない説明を展開するナツキの瞼が再び下りていく。やがてぽすっとリリムに体を預け、今度こそ静かな寝息を立て始めた。
心なしか顔が赤く、いつもより体温が高い。とはいえ具合の悪そうな様子はなく、呼吸も声も正常。疲れによる微発熱だろうか。
「……お疲れ様、ナツキちゃん」
そっと抱き上げ、その小ささと軽さに少し不安になりつつ、ニーコの隣に下ろす。一日ぐっすり寝れば回復するだろう。おやっさんには明日事情聴取だ。
「んなぅ……」
「ん……にー子……」
二人はもぞもぞと動き出し、磁石のように抱き合った。仲がよくて何よりだ。
天使のような寝顔を眺めてほくほくしていると、コンコココン、とノックの合図があり、リリムの許可を待ってから入り口の木板がカタリと外される音がした。
「ただいまなのですー……」
「ただいまー……」
「おかえりー。ん……なんかしょんもりしてるね、二人とも」
しゅんと肩を落としたアイシャとハロが部屋に入ってくる。とぼとぼリリムの前までやってきたかと思うと、まずハロが目を潤ませ始めた。
「うぅ……ハロね、がんばったのに……うまくいかなかった。ごめんなさい……」
ぎゅっと手を握りしめ、悔しそうに地面を見つめる。
ハロは、昨日リリムがアイシャと行っていた水路の問題調査を手伝ってくれていたはず。昨日の時点で難航する予感はあったが、この様子だと今日も解決はできなかったようだ。
ハロの嗅覚でも見つからないとなると、もう自分たちではどうしようもないだろう。気にしなくていい、とフォローを入れようと口を開きかけたところで、
「違うのです!」
そう割り込んだアイシャがハロを後ろから抱きしめた。
「ハロちゃん、すごかったのです! 全然ハロちゃんのせいじゃないのです! それに……お水の引き入れ口はちゃんと見つけたですよ!」
「……え、見つけた!?」
ハロちゃんのおかげなのです、とアイシャは語りだした。水量のおかしい水路は甘い匂いがしたこと。手にその匂いをつけた男を尾行し、怪しい通路を見つけたこと。そして――その向こうに、地上の川から水を引き入れている貯水池が確かにあったことを。
気密扉を二つ挟んだ向こう側、大きな地底湖のような貯水池には絶えず水が湧き出ており、そこには例の白くて細長い魚も泳いでいた。そしてその水は、壁に開いた大きな穴と鉄格子の向こうへと、絶えず正常な速度で流れ出していたという。
当然、魚はどこにも詰まっていなかった。貯水池の水からは甘い匂いもしなかったそうだ。
「うーん……こりゃなんか厄介な話になりそうだねぇ」
「あ、あと、廊下の壁に、このアジトの入口にあったのと同じマークが描いてあったです」
「マーク……ん、でもそれはほら、水道管理も親方さんの系列組織がやってるって話だから、そういうことじゃない?」
「なのですが……近くにいた人が、たぶんそれを見て……だと思うですが、変なことを言ってたです」
「うん、『《パーティ》のナワバリだ』って!」
「パー、ティ……」
その単語は、リリムの記憶の奥深くをチクリと刺した。マークを初めて見たときと同じ、何かを知っているはずだという確信と、何も思い出せないもどかしさが交互に心の中を駆け巡る。
思い出せない……思い出してはいけない? 何を――
「リリムさん?」
「ん……ごめん、あたしも分かんないや」
オォ――ン……、オォ……ン、と風笛が不気味に鳴く。
ここに来てから毎日聞いて、慣れ始めていたはずの音。それが今は何故か、不吉な出来事の予兆のような気がしてならなかった。




