裏街ワーカーズ Ⅱ
ハロが長期依頼に携わる一方で、アイシャは書類整理やら掃除やら物資調達やら、小さな仕事を次から次へとこなしてタスクリストを埋めていった。リストには誰もがやりたがらない面倒だったり汚れたりする仕事がたくさん残っていて、彼女はそれを率先して請け負っていったのだ。
「わたし、こういうお仕事得意なのです!」
遠慮しているのではないか、奴隷のように働かされていた頃の誤った常識が抜けていないのではないか。そうしつこく心配するナツキとリリムに、アイシャは不満そうに頬を膨らませたかと思うと、「じゃあ勝負するです」と不敵な笑みを向けてきた。
彼女が持ちかけてきた勝負は、大量の資料の分別整理と資料倉庫の掃除タスクをエリアごとに分担し、誰が一番早く終わらせられるかを競うというもの。
みんなで手伝う形にもなるし望むところだ、と軽い気持ちで応戦したナツキとリリムを待ち受けていたのは――悪夢だった。
「リリムさん……こういうの得意じゃないの? 医者でしょ?」
「医者だからって国語と算数が得意なわけじゃないんだよねぇ」
そう、整理対象の資料は決算書やら納品書やら、仕分けのためにある程度読解と計算が必要な類のものばかりだったのだ。
リリムはもちろん、ナツキだって見た目は子供でも中身は大人である。当然できないわけではない――のだが。
「飽きた……疲れた……人力でやる仕事じゃないよこれ……なんでこの世界にはパソコンがないんだ……」
本来表計算ソフトで一瞬で終わるような計算を、計算機もない環境でちまちま筆算していく。表の左と右の内容に齟齬がないか、一行ずつ確かめていく。確認が終わったら押印。それを数百枚。
「ってかこれ分別整理じゃないよ! 事務作業だよ――ぎゅむっ? んーっ!?」
「ナツキちゃん成分補充……」
「ぷはっ、現実逃避しても仕事は減らないよリリムさん!」
「うぅ……だってさー……」
抱きついて泣き言をぼやくリリムを押しのけ、目の前に積み上がっている紙束を睨む。残りおよそ半分、手を動かさねば終わらないのだ、やってやるぞ、と自分に言い聞かせ――
「終わったのです!」
「え?」
「え?」
綺麗に整理されてファイル分けされた紙束の後ろで、箒とちりとりを手にアイシャが立ち上がるのが見え、ナツキとリリムは同時に言葉を失った。
勝負の結果は言うまでもなく、アイシャの圧勝だった。
怠惰な人間二人がヒイコラ苦しみながら大量の資料と格闘している横で、彼女はるんるんと鼻歌混じりにものすごいスピードで資料を捌き切り、ナツキとリリムの担当エリアの掃除まで完璧に終わらせてしまったのだ。
見れば、アイシャが作業していた机には一切の計算やメモ書きの痕跡がなかった。まさか全部適当にチェックしたのでは……などという邪推は、資料に丁寧に書き込まれた注釈や疑問点、計算の誤りの指摘の数々の前に即刻霧散することになった。
「うっそぉ……」
「……アイシャ、ひとつ137リューズのリンゴが27個でいくら?」
「ふぇ? 3699リューズなのです」
「おおぅ……」
「ちょ、アイシャちゃん、どうやって計算したの?」
「え、えっと……137が、27個あるから……3699なのですよ……?」
どうやっても何もないだろう、みたいな困惑顔を向けられてしまう。
なるほどこれは才能だと、ナツキとリリムは頷きあった。
「いやー助かったよアイシャちゃん! 誰もやってくれないっつーか、ウチの奴にやらせてみたら元より悪化しちまって、マジでどうしようかと思ってたんだ……」
「お安い御用なのです! ……あ、あとその経費申請書、計算間違ってるですよ?」
「は!? マジじゃねえか……誰かちょろまかしてやがるな、クソ……おやっさんに報告してくる! いやマジでありがとうな、あとさっきはキツいこと言ってすまん!」
「いいのです、気にしてないのですよ」
今回のタスクをリストに加えたという若い男はナツキとリリムには目もくれず、涙ながらにアイシャに感謝し、最初にアイシャの猫耳を見たときの心無い言葉を陳謝し、アイシャが見つけた問題だらけの書類を抱えて走り去っていった。
エルヴィートとの一戦を超え、人間に対して全く物怖じしなくなったアイシャ。いつの間にか差別的な言葉すらも涼しい顔で受け流し、もはやナツキやリリムより冷静に社交的に大人な対応をするようになっていた。
「皆さんすっごく喜んでくれるです。わたしも嬉しいのです!」
仕事終わりにアイシャが屈託のない笑顔を浮かべてそんなことを言うのを聞くに至り、ナツキとリリムは悟った。自分達の抱いていた心配は、アイシャを縛る同情の鎖でしかなかったのだと。彼女はただ自身の才能を活かそうとしていただけなのだと。
思えば、《子猫の陽だまり亭》でもアイシャはよく皿洗いや掃除、洗濯を楽しそうにしていたし、会計の計算もしっかりこなしていた。ドールとして六年間生きる中で身につけてきたスキルなのだろうか。
それから数日間のアイシャの活躍により、小さめの依頼はリストからすっかり無くなってしまった。他の面々の助っ人に回ることにしたアイシャは、ハロの助手をしたり、ナツキと一緒に賊の鎮圧に出たり――今日はにー子休みのリリムの依頼代行をしている。護身用にリリムの脱法アイオーンを引っ提げ、鍛冶の仕事を終えたハロを連れて裏街を駆け回っているはずだ。
今や二人は《水魚の婚礼》のアジトでは人気者である。組織に所属しているオペレーター達の中には感染個体のドールを良く思わない者もおり、絡まれることもあったが――逆に最近はドールに話しかけているオペレーターをよく見かけるようになった。もっともそのほとんどは調整済の非感染個体なので、謎の命令を下されたと勘違いしたのか「よく分かりません」とずっと首を傾げていたが。
しかし、もう人間に抵抗できなかった頃のアイシャではないとはいえ、小さな子供二人で治安の悪い裏街をうろつかせるのはやはり少し心配だ――と顔を曇らせるナツキの鼻先を、ナイフの刃がヒュンと通り過ぎた。
「おっと。速度は充分だけど……ちょっと踏み込みが浅いかな!」
――ギィン!
返ってくる刃の腹を木剣で叩く。目の前の男の手からナイフが弾き出され、宙を舞う。
「んだと!? クソッ……」
「お兄ちゃんは短刀使いだから、リーチはフットステップで稼がないと!」
「分かって、らぁ!」
「でもそうやって無策に相手の間合いに入るのは――」
――スッ。
ナツキが振った木剣が、もう一本のナイフを懐から取り出そうとしていた男の首元スレスレで止まる。
「――危険だから、相手の隙を待つ。もしくは、隙ができるように誘導する。隙が出来たら見逃さずに、躊躇わないで間合いを詰めて、ナイフを持ってないほうの手で相手の体勢を崩して、急所に一撃。定石としてはそんな感じだよ、お兄ちゃん」
「ちっ……くしょォ! 何なんだよ、お前!?」
男は膝をつき、悔しそうに叫んだ。
無理もないだろう。今日ここに集まったのは、おやっさんの組織《水魚の婚礼》のエリート戦闘員達だ。だと言うのに、各々が使い慣れた殺傷武器や防具を装備したうえで、木剣一本に防具なしの幼女に完封負けしているのだ。
突然教官として現れた謎の子供相手に、彼らは最初は手加減して戦いを挑んできたが、侮れば一瞬で惨敗する相手と認識された今では全員目をギラギラ輝かせて全力である。エリートを名乗るだけあってこの世界ではかなりの実力者なのは確かだが、魔法を使えない時点でナツキの敵ではない。
「あいつ……どこの部隊のガキだ……?」
「あれ剣士じゃねえのか? ナイフと刀はまだしもボウガンと棍棒の使い方まで教えてたぞ……」
「本部の連中が新作兵器を開発中って聞いたけど……まさかね」
フーデッドローブで全身を包んでいるので、ナツキの容姿は相手や観客には見えていない。組織に所属する人間兵器か何かだと思われているのか、外野から物騒な会話が漏れ聞こえてくる。
一般的な武器での戦い方は一通りラグナで習得済みだ。上達が早いと褒められることはあったが、各武器の師匠の教え方がよかったのだと思う。今はそこで習った基本の戦い方をそのまま教えているだけだ。
ナツキは気にせず、悔しがる男に歩み寄り、笑いかけた。
「お兄ちゃん、一撃一撃の速さや正確さはすごかったよ。相手の動きを観察できるようになれば、すごく強くなると思う」
「……んなこと言ったってよォ」
「ほら、さっきボクと戦ってた短刀使いのおじさ……お兄ちゃんいたでしょ? あの人は速さ正確さはそんなでもないけど、ボクの動きをすごくしっかり見てて、全然隙がなかったんだよね」
「あー……そういや結構長引いてたな。スゲェって思った」
「あはは、攻撃を誘うの大変だったよ。お兄ちゃんもあの人と手合わせしてみると、お互い得るものがあるんじゃないかな。あと――」
反抗的だった男は、徐々にナツキの話を真剣に聞き始める。周囲で観戦していた同じ短刀使いの人々も集まってくる。
今ナツキが請け負っている仕事は、《水魚の婚礼》が運営している傭兵団の戦闘教練である。組織内で成績がいいからと驕っている連中を叩きのめして初心に突き落としてくれる鬼教官募集、とあったので受注してみたのだ。
「……あざっした! 俺、訓練超頑張ります!」
「うん、頑張ってね、お兄ちゃん!」
妙に礼儀正しくなった男が、決意に満ちた表情で拳を握りしめ去っていく。これで十人目だ。部屋の隅からパンツ一丁虎マスクのマッチョ男が近づいてきて、水の入ったボトルを投げ渡してくれた。
「ありがと、おやっさん」
「おうッ! どうする、そろそろ休憩入れるか?」
「ぷはっ。んー大丈夫、あと十人くらいはこのままいけるよ。昨日はにー子と遊んでただけだし……だけどおやっさん、一つ大事な相談が」
「よぉし! 次だッ! ナマイキ妹教官わからせバトル、ネクストチャレンジャー、カモォォンッ!」
「ネーミング! もうちょっとどうにかして!! ずっと妹キャラのままでいるの、結構疲れるんだよ!?」
ナツキの魂の叫びに対し、おやっさんはガッハッハと豪快に笑った。
「娯楽にして釣らねえとなッ、あいつら顔も出さねえから――、ん?」
「笑い事じゃないんだけど……って、おやっさん?」
文句を返そうとして、おやっさんが何やら真剣な顔で遠くを睨んでいることに気づいた。
「何かあったの?」
「いや……」
言葉を濁すおやっさんの視線の先を追う。
洞窟内に設えられた円形の戦闘訓練場の外周、野次馬の合間を縫うように、ふらふらと酔っぱらいらしき男が歩いている。おやっさんは彼をじっと睨んでいた。
「うわぁ、めっちゃ飲んでるね」
「…………」
一週間ネーヴェリーデの裏街で過ごして分かったのは、そこかしこに酔っ払いが溢れているということだ。
もっとも、真っ昼間から酔っ払いが闇市を歩いていることそれ自体は別に珍しいことではない。やけに多く見かけるのは、貿易が盛んな港町なので、小売業者に卸される前の珍しい酒を安く買えるからだろう――とリリムは推測していた。
「……おやっさん?」
往来の酔っ払いは迷惑ではあるが、今のおやっさんのように何かを探るような真剣な眼差しを向けるような対象ではないはずだ。
訝しむナツキに対し、おやっさんは「悪い、あとは任せた」とだけ言い残して酔っ払いを追いかけていった。
「……? ま、いっか」
ボトルの水を飲み干し、疑問を振り払って再び訓練場の中央へ向かう。今日はまだこれから百人以上も相手をしなければならないのだ、気合を入れなければ。




