水の都と猿と酒 Ⅶ
場所を移して、別の部屋。
おやっさんとの交渉は妙にスムーズに進んだ。さすがに裏社会の組織の幹部というだけあって、真面目な交渉にあたってはヴィスコ同様かなり怖い顔を向けてくる……のだが、ナツキが何かを言い返すと異常なまでに萎縮するのだ。まるで眠れる怪物と対峙しているかのように。……張り手で水に突き落としただけのはずなのだが。
そんなこんなで、密航の手配をして欲しいというこちらの要求はすんなり通った。何をやらかして逃げているのかを問い質されるかと思いきや、「大体の話は本部から聞いてるぜッ」とのことで、にー子が天使の血であることも把握されていた。
しかし彼に《モンキーズ》を雇ってナツキ達を運ぶよう任務を下したのはダインではなく「本部」とやららしい。ダインは一体どこにどう手を回してくれたのか……謎が深まっていく。
「一人頭1000ってとこだなッ! 上からの任務たぁ言え俺様達は仲介だ、裏船頭に払う分の金は出してもらわねえと」
「んー、それって一人一部屋の額だよねぇ? 相部屋でもうちょい負けらんない? 大陸間航路なら大きめの『お部屋』用意できるでしょ」
「お前……詳しいな? さてはこっち側の人間かッ?」
「あはは、さあねぇ。……あとさー」
手配料の交渉はリリムが矢面に立ってくれた。リリムについての情報はおやっさんにまで下りてきていないのか、保護者的な一般人だと思われていたようだ。ナツキには全く意味のわからない裏世界の隠語をぺらぺらと交渉に取り入れてくるリリムに、おやっさんは目を白黒させていた。
「ご、500! 一人あたり500だッ!」
「お、それなら帰るときも使わせてもらおっかなー。……ところでさっきのアレ、ナツキちゃんは許してくれたみたいだけど、あたしは全っ然許してないんだよねぇ……」
「ヒッ……!」
傍から見てもかなりえげつない交渉が数十分繰り広げられた結果、一人頭400万リューズ、つまり2000万リューズで船に乗せてもらえることになった。逃亡資金1億リューズのうち五分の一が消える計算になるが、それでも最初に提示された額の半分以下である。リリムがいてくれて本当によかった。
ずーんと意気消沈状態のおやっさんとは対照的なニコニコ顔で契約書にサインをするリリムをやや引き気味に見ながら、ラッカがナツキに顔を寄せる。
「ナツキちゃん……リリム姉が俺の知ってるリリム姉じゃねーんだけど……」
「あ、ラッカさんも知らないんだ。ボクも現場は初めて見たよ……」
リリムはかつてナツキの治療費を1000万リューズも負けさせた黒魔術の使い手である。具体的に何をどうしてそんなことが可能なのかはさっぱり分からないし、実際に目の当たりにしても何も分からなかったが……リリムと交渉中のおやっさんのしどろもどろ青ざめっぷりを見るに、知らないほうがいいことのような気がする。
「け……契約の通り、次の出港はちょうど二週間後の朝だ、それまでは匿ってやるぜッ!」
「ありがとう、おやっさん! あとその、えっと……ごめんね?」
「な、なーに……俺様は身の安全を優先したまでだぜッ……こ、ここ、交換条件忘れんじゃねーぞッ! あばよッ!」
「あいよー」
交渉が成立し、おやっさんは逃げるように部屋を出ていった。軽い返事と共に手をひらひら振ったリリムがほっと息をつく。
「あー……久々に頭使ったわー……」
「お疲れ様、リリムさん……細かいとこがよく分かんなかったんだけど、交換条件って何?」
「んー、その前にナツキちゃん、ちょっとこっち」
ひょい、と手招き。
「え、うん? ……んむっ」
近づいた瞬間、リリムに抱きしめられた。胸に顔が埋まる。
「……!?」
「あぁ……ナツキちゃん分が回復していくぅ……」
「ボク分消費して交渉してたの!?」
それを見たハロとにー子が駆け寄ってくる。
「ハロも! ハロもぎゅってして! あったかいよ!」
「にーこも! にーこのほうがぽかぽか!」
「ひゃー! うんうん、二人ともおいでー」
「きゃーっ」「にぁー!」
ハロとにー子を受け入れるべくリリムが腕を広げた瞬間にするりと抜け出す。リリムが気にしないというのはもう分かったが、やはり背徳感は抜けないのである。
「ナツキさん、その……」
「なにアイシャ、アイシャはいいの……って、ああ、なるほど」
アイシャはもじもじと何やら期待に満ちた目でこちらを見ていた。そういえばこの間約束したっけ。
「リリムさんの方が抱かれ心地はいいと思うよ?」
「な、ナツキさんがいいのです!」
「そう? はい、ぎゅー」
「はわぅ……」
幸せそうな吐息が漏れる。恋人とハグをするとナントカいう物質が出て幸せ度が上がる、みたいな話はよく聞くが、その類だろうか。恋人じゃないけど。
しかし相変わらず細い体だ。《子猫の陽だまり亭》で暮らすようになって栄養状態は改善されたはずだが、肉付きは変わらない。「余剰分」を天使が持っていってしまっているからだろうか。
「えっと……俺はどうすれば」
突然のハグ祭りにたじろぐラッカ。そういえば彼らが《子猫の陽だまり亭》にいたときも、積極的にスキンシップを取ってきたのはラッカ以外の面々だった。ローグとリンバウは娘を可愛がるように、レイニーとルンはにー子とセットで妹のように……いや、どちらかと言うと愛玩動物のように扱われていたかもしれない。ラッカはいつもそれを諌めつつも、何やら不満げな表情で……ふむ。
「ラッカさんもぎゅーする? ルンさん達今いないよ?」
「は!? いや、俺は……って、何で姉貴が出てくるんだよ!」
「ボクなら抱っこしてもいいよ? 一日の疲れが吹き飛ぶってギルドでは評判だったよ」
「自分で言うのかよ……いや、でもナツキちゃん今そんな格好だし」
「格好?」
自分の体を見下ろす。酒漬けになってしまったワンピースの代わりにゴム付きのバスタオルを巻いている。肩と腕は全部出ていて、タオルの下には何も着ていない。……まあ、問題ないだろう。いつも着ている服だって、服の下には何も着ていないのだから。当たり前だけど。
「さっきの魂の鎧じゃあるまいし、ボクは気にしないよ? ……あれだってラッカさんが選んだわけじゃないんでしょ?」
「……お、おう、もちろんだ!」
一瞬、何か嫌な記憶を思い出したかのように瞳が揺れたが、その肯定は力強かった。信じてたぜナツキちゃん、とどこからか謎の幻聴が聞こえた気がした。
「じゃあはい、ラッカお兄ちゃん、だっこ!」
「んぐっ……おう……」
大きな手が恐る恐る脇の下に添えられ、ひょいと持ち上げられる。
「え、軽っ!? 小っさ!?」
「あはは……これじゃ抱っこじゃなくて猫伸ばしだよ」
「俺の剣より軽いんじゃ……」
「そんなわけないよね!? ボク20キロはあるよ!」
小さな子供を抱き上げたことがないのだろう、ラッカは子供のように目を輝かせてひとしきり感動していた。
「なーぅ」
「ん、にー子?」
いつの間にか足下ににー子がやって来ていた。じっとこちらを見つめ、何かを考えている様子だ。
「なつきー、にーこもだっこ!」
「お、にー子もラッカさんに抱っこしてもらいたいの?」
「ちぁうのー! にーこもなつきだっこする!」
「えぇ!? それは無理が……あっちょ、にー子それはっ」
謎の欲望に駆られたにー子が、ナツキをラッカの腕から引きずり下ろそうとする。にー子がいつもナツキを引っ張るときに掴むのは服の裾だ。そして今、服の裾というのは――
――しゅるぽんっ。
「あっ……」
「にぁぅっ……」
緩いゴム一本で平らな胸の上に固定されていたタオルは、にー子の体重を載せた牽引力にあっさりと敗北した。勢いよく抜け落ち、にー子はタオルごと後ろにひっくり返る。後頭部から硬い地面に激突しそうになるのを、素早く回り込んだアイシャが受け止めた。
「な……なぅ?」
「よ、良かったのです……」
「ナイスキャッチ、アイシャ! ……でも良くない! こっちが何も良くないっ!」
「お……おう……?」
「おうじゃなくて! 下ろして、ラッカさん! 早くっ! ってかこっち見るなぁ!」
突然の緊急事態にラッカは放心状態になっていた。石像のように固まってしまっていて、ナツキは全裸宙吊り猫伸ばし状態のまま動けない。
「~~~~っ、ラッカさんのえっち! 変態!」
「へぶぅっ!?」
本日二度目の渾身のビンタが頬に叩き込まれ、ラッカは昏倒した。
後からよく考えてみるとラッカは何一つ変態的行為をしていなかったのだが、この場で相対的にもっとも張り倒されるべきはやはり、全裸のナツキを空中でホールドしたまま固まってしまったラッカだった。
「あはは、ナツキお姉ちゃん、はだかんぼだ!」
「あ、ハロちゃん、人間さんは裸だと恥ずかしいらしいのです、だから見ちゃダメなのです!」
「えー、そうなの? ……なんで?」
「なぅー?」
「えっと……どうしてなのです、リリムさん?」
「んーとねぇ……あ、はいナツキちゃん、タオル」
「…………うん、ありがと」
まあ……ね、もうラムダにもカイにも見られたし、ね。こんな幼女ボディ、リモネちゃんでもなければどうとも思わないだろうし、別に……別にいいんだけど……ね。
忘れよう、と自分に言い聞かせる。再びタオルを体に巻きながら、リリムに問いかける。
「それでリリムさん、交換条件って?」
「あー、大したことじゃないんだけどね。これから二週間、あたしたちがあの部屋を宿代わりに使わせてもらうかわりに、組織のお仕事をいろいろ手伝うって話になったんだ」
なるほど、負けてやった分タダ働きしろということか。
「組織のお仕事……って、なんかヤバいことやらされるんじゃないよね?」
「んー、それはあたし達次第? ほら、このリストからできそうなもの選んでやってくれってさ。見た感じ《モンキーズ》も同じ枠のお仕事してるみたいだねぇ」
「ふーん?」
リリムの手元の紙を覗き見ると、そこには大量のタスク項目がずらりと並んでおり、それぞれに担当者と開始日、完了予定日の記入欄が設けられていた。その一番上、過去の用紙からの転記である旨を示す但し書きと共に書き込まれた、三ヶ月前の日付を開始日とするタスクが目に留まる。
――『ローレライ』担当者:《モンキーズ》他 完了予定:未定
「……何、これ? ローレライ?」
「これね……他の項目と比べて明らかに情報が少ないんだよねぇ」
気絶したままのラッカを見る。
「十中八九、意図的に隠されてる……あいつら、何に首突っ込んでるんだか」
ローレライ、確か美女の歌声で船乗りを誘惑して船を沈めるとかいう魔物だか人魚だかの伝承だったはずだ。この世界にも似たような話があって、それを何かの隠語として使っているのだろうか。
『もし誰もいない道で歌が聞こえてきたら、それはオバケの歌だ。……すぐ逃げろよ』
アジトにくる途中、妙に真剣な顔のラッカがしてくれた忠告を思い出す。なにか関係があるのかもしれない。
「手伝ってあげる?」
「んー……」
リリムは少し考え、
「別の依頼でフィルツホルンに二人よこせるくらいの余裕があるってことは大して緊迫してない。あたし達に手助けしてほしいって素振りもなかったし、むしろ依頼の話は避けてるように見えた。そもそも三ヶ月かけて解決してない裏の問題に、残り二週間のタイムリミットつきで首突っ込むのは危険……かな。ナツキちゃんはどう思う?」
「うん、だいたい同意見。だけどもし《モンキーズ》に助けてって言われたら、出航までの間だけでもできるだけ助けてあげたい」
そう返すと、リリムは顔を綻ばせて「さすがナツキちゃんだ」と頭を撫でてきた。
「よし、じゃあとりあえずこの中からお仕事選ぼうかねー。へーいみんな集合……ってちょ、何やってんの……?」
リリムの驚きの声に釣られて後ろを向くと、そこでは幼女三人衆がわちゃわちゃと……人体実験をしていた。
「にー……」
「どう、アイシャお姉ちゃん? はずかしい?」
「……分からないのです。いつも通りだと思うですよ?」
「だよねー? うーん、人間とラクリマのちがいなのかなぁ……?」
「にぁー?」
全ての服を脱ぎ捨てたアイシャが棒立ちになってハロとにー子がそれを凝視し、感想を聞いていた。にー子はセーターの裾をぺろんと捲りあげ、パンツ丸出しで首を傾げている。
「じゃあこんどはハロのばん! んしょ……」
「……ハロ、ストップ! アイシャも早く服着て! にー子もそんなことしちゃダメ!!」
オーバーオールの肩紐を下ろそうとするハロの手を抑えながら叫ぶ。
おそらくはハロが、「なぜ人間は全裸だと恥ずかしいのか」を理解するためにアイシャとにー子を巻き込んで始めた実験だ。純真無垢に好奇心と行動力を併せ持った子供、恐ろしすぎる!
「あー……うん、ハロちゃんはお仕事より先に、お外を歩くときにやっちゃいけないことからお勉強しよっか……ね」
リリムのやや引きつった笑顔に対し、ハロはいつものきょとん顔で首を傾げた。