水の都と猿と酒 Ⅲ
……息苦しい。
何か柔らかいものが顔に張り付いている。すべすべしていて温かい。これは……マシュマロだろうか。パンケーキかもしれない。甘くていい匂いがする。顔を覆うほどの大きさだと食べるのに一苦労だ。とりあえず舐めてみようか。ぺろり。
「んぅ」
ぴくり、マシュマロパンケーキが動いた。活きのいいマシュマロのようだ。逃げ出してしまう前に食べてしまわなければ。はむ……
「ひぁぅ……?」
思ったより弾力がある……。かと言って歯を立てると痛がって逃げてしまうかもしれない。マシュマロだって生き物なのだから、食べる際には苦しみを与えてはならないと法律でも定められていたはずだ。もぐもぐ……
「ん、ひゃっ、ふゃ……だめ……」
確かマシュマロの生態は……、……何かがおかしいな?
ようやく脳が覚醒に向かって動き出す。一体何をちんぷんかんぷんなことを考えているのだろうか。
自分は今仰向けになっていて、顔の上にそこそこ重い何かが乗っているようだ。マシュマロではない、これは……生き物の柔らかさと温もりだ。
顔とそれの間に手を入れて引き剥がそうとすると、ふにゅ、と指が沈んでしまい上手く持ち上げられない。
「うくぅ……」
少し苦しそうな吐息。潰してしまいそうだったので一旦手を離すと、またふにゃりと温かなふにふにが顔を覆う。とくん、とくん、と穏やかな鼓動と一緒に、くきゅるるる……と何かの内臓が活動する音。
先程持ち上げようとしたことでちらりと見えたのは、のぺっとした肌色だった。今鼻先が埋まっている小さな窪みは恐らく――
「……、はっ!?」
やっと理解する。顔の上に誰かがうつ伏せでのしかかっているのだ。さっき散々ぺろぺろもぐもぐしてしまったのは誰かのおなかの肉だ。
慌てて腹筋に気を通して上半身を持ち上げると、その誰かは前方へと転がり落ち、ナツキの太ももの上で仰向けになった。
「んにゅ……カイおにーちゃ……そんなの……だめだよ……」
「ハロ!? ……あっ、忘れてた……そういやそうだった……」
腕を振り回しながら寝言を呟くハロ。彼女は驚異的な寝相で寝ながらにして同僚を絞め殺しかけたという伝説を持っているのだ。
ついこの間チューデント工房でアイシャ共々大きなベッドから蹴り落とされたと言うのに、すっかり忘れてしまっていた。今回はベッドから落とされることはなかったが……危うく窒息死させられるところだった。
「っていうか……どう寝たらこんな状態になるのさ……」
ベッドの上を暴れ回った後と思われる彼女の状態はとんでもないものだった。ベッドに下ろされたときには着ていたはずのオーバーオールはどこかに消え、中に着ていたはずのシャツは何故か右腕だけ抜けている。その状態で腕を振り回すものだからシャツはずり上がり、腹筋の感じられないぽっこりおなかから右胸にかけてぺろんと丸見え、白いお子様パンツも丸出しである。その辺りを気にするほど精神年齢は高くなさそうだが――
「風邪引いちゃうよ、ハロ」
「んぅ……」
このままではおなかが冷えてしまう。そっと元の袖に腕を通してやる。
と、視界の端でもぞもぞと別の影が動いた。
「んー……、ナツキちゃん?」
「あ、リリムさん……ごめん、起こしちゃった?」
「大丈夫……え、なんかハロちゃんすごいことになってない……?」
「あはは……かくかくしかじかで……」
ハロの殺人的な寝相について説明すると、リリムは寝ぼけ眼でうんうんと頷き、
「んじゃナツキちゃんもこっちおいでよー……詰めれば入るよ、ほら」
布団を広げてそんなことを言った。
「えっ……と……」
確かに、リリムが端に詰めたことでアイシャやにー子との間に幼女がもう一人入れそうな隙間ができた。しかし……しかしだ。リリムは正真正銘18歳の女性、こちらは見た目は幼女でも中身は20歳男性である。アイシャ達幼女の面々と一緒に寝るのは何も問題ない。一度リモネちゃんと同じベッドで寝てしまったが彼女は14歳、いや396歳だったか、何にせよあれは事故なのでノーカンとして、何の話だったか、そう、とにかくリリムの布団に自分から入りに行くのは大変よろしくない!
「んー……ナツキちゃーん?」
「あ……あの、えっと、そうだリリムさん! にー子奪還作戦が始まる前、ボクの正体について聞きたいって言ってたよね!」
「え? ……あー、うん……言った。作戦が成功したら教えてくれるってナツキちゃん言ってた……」
結局作戦終了後もごたごたしていてカミングアウトするタイミングがなく、謎の幼女のままここまで来てしまった。アイシャ達と行動するだけならともかく、リリムが旅の同行者に加わるならもう先延ばしにはできない。今こそ真実を告げるときだ!
「あのねリリムさん、実はボク、異世界からの転生者で、元は20歳の男なんだ! 元の世界では勇者やってました!」
「……? へー、そうなんだ。んしょ……」
「そうなんだよ! だから一緒に寝るのはさすがに、って、え、り、リリムさん……?」
ぼんやり眼のまま、リリムはベッドから下りてふらふらとこちらに歩いてきた。やがてベッド脇で膝立ちになり、いつものようにナツキの頭を撫で始めた。
「んー、今日もナツキちゃんはかわいいねぇ」
「へっ……あ、嘘だと思ってる!? いや確かに、嘘みたいな話だけど! 本当なんだよ!」
「んー、そっかそっか」
「なんなら口調戻すか!? 巡路夏樹20歳、あんたより年上の男だぞ俺は! ……クソっ、久々に戻したから違和感が……」
「うんうん……そうだねぇ……」
「は? おい、何を――」
リリムに両手首を掴まれ、引っ張られる。そのまま手のひらが向かう先は――
むにゅ。
「ちょっ、リリムさん!?」
「ん、どう?」
「どうとは!?」
大きくはないがちゃんとある。大人の女性サイズ。初めて触った。結構柔らかいんだな。
……いやそうではなく!
「何してるの、リリムさん! 自分の体は大事にして!?」
「んー……いや、減るもんじゃなし、ナツキちゃんだし、口調戻ってるし……で、どう? 興奮する?」
「へぁっ!?」
「もーちょい揉んでみないと分からないかな? あー、服越しだと物足りない? 脱ぐ?」
「何を言ってるの!? リリムさんは痴女なの!?」
ほぼ下着みたいな戦闘服で聖窩に乗り込んでいったときから無頓着だなあとは思ってはいたが、まさかそっち方面に突き抜けていたのか!? 寝起きはいつもこうなるのか!?
「いーから。あたしだって恥ずかしくないわけじゃないんだよー」
「へっ?」
少しリリムの声が真面目なトーンになったことに気づき、あらためて顔を見上げる。……少し顔が赤い。
「り、リリムさん……?」
「興奮するか、しないか。どっち?」
「そ、そりゃ……男としては、その……」
……あれ?
突然のことに慌てはした。これはやってはいけないことだという背徳感もある。リリムに対する罪悪感もある。
なのに……それと同時に本能的に発生してしまうはずの性欲による興奮は、一片たりとも見当たらない。
「え……あれ? そんなことって……」
思わずふにふにと手を動かしてしまう。柔らかい。リリムがぴくりと肩を揺らすのを見て罪悪感、手を止める。……以上。
「う……嘘だ、だってこの間リモネちゃんと寝たときは……」
「……ナツキちゃん、リモネと寝たの?」
「あ、いや、変な意味じゃなくて! 気づいたら同じベッドで拘束されてただけで……でもあの時は確かに……」
確かに、何だったっけ。
年齢の割に結構あるな、と思ったことは覚えている。
その双丘に顔が埋まってしまっていることに気づいて慌てたことも覚えている。
役得役得、なんて考えていて……あ、ほら、これが性欲じゃないか。きっとそうだ。
それにその少し前、アイシャと風呂場で「修行」をしたときだって、不本意ながら邪な気分になってしまった、ような……気がする。
…………。
邪な気分、がどんな気分だったか、まるで思い出せない……。
「そんな……まさか……」
「ま、そうなるよねぇ。男性の性欲って精巣が生み出すものだし……女の子に生まれ変わったんなら、だんだん男の子としての性欲はなくなっていくのが自然かな。まだちっちゃいし、女の子としての性欲もないんじゃない? 知ってるかな、男性ホルモンと女性ホルモンってのがあってねぇ……」
ああ、そういえば……リリムの職業は医者だった。
リリムはナツキの手のひらを両胸に押しつけたまま、医学的な解説を滔々と語り始めた。遠い昔に保険の授業で聞いたことがあるような話が、左耳に入っては右耳から抜けていく。
そういえば、メルクに媚薬を飲まされたときに感じた疼きは全く未経験のものだった。あれが恐らく女の子としての性欲の発露、なのだろう。この体は完全に幼女であって、成長によって獲得する性的欲求もそれに沿ったものになるのだろう。今のところイケメンにときめく様子はないし恋愛対象は女の子である自覚があるので、百合の花が咲く路線かもしれない。
いや、何にせよ、今重要なのは――
「でも、でも! リリムさん、ボクは本当に男だったんだよ! だからその手を離して――」
「あはは、うん、そこは疑ってないよ。ナツキちゃんがそんな嘘つくわけないし。……でもナツキちゃん、それって前世の話じゃない?」
「……え?」
「今のナツキちゃんの体は完全に女の子だよね。でもって、ナツキちゃんは女の子として生活することに苦労してないし、悩んでもいないように見える。……実は悩んでたりする?」
「それは……うん、別に悩んではないかな。むしろ幼女だと便利なことの方が多いかも……」
最初は苦労したし、男としての肉体を失ってしまったことを悲しみもした。だが切り替えの速さには定評のあるこの巡路夏樹、かわいい幼女の外見を活かしてかわいい服を着こなし、裏社会のボスを上目遣いで籠絡したことは記憶に新しい。
「もしこの世界で前世の姿に戻れるとしたら、戻りたい? もう一回女の子に戻るのはナシで」
「そりゃ戻りた――」
いや、待て。戻ったとして何かメリットはあるか?
この世界でできた知人との関係は再構築することになるだろう。元の姿は冴えない顔の平凡な20歳、こちらの世界では勇者の肩書もない。戸籍上はダインに拾われた孤児、職歴もない。上目遣いのお願いを筆頭とする様々な幼女の特権を失い、かわいい服も着られなくなり、《子猫の陽だまり亭》の看板娘業も廃業。美幼女であることによって手に入れたあらゆるものを失い、謎の無職成人男性が出来上がる。
では逆に、この世界に転生してからこれまで、元の体だったらよかったのに、と思ったことがあるだろうか? 一応ある。転生してすぐ、足の短さによる歩行速度の遅さやリーチの短さに苦労した。……それくらいだ。元の体との差異にはとっくに慣れたし、リーチ以外は身体強化でどうとでもなるし、この体はまだ成長するはずで、失った性欲だって復活するはず。
「……戻りたくないかも」
「ほほう。つまり――前世は男の子だったナツキちゃんは、この世界で女の子として生まれて、体も心も女の子な状態をずっと続けてきて、男の子としての性欲もなくなっちゃったけど、大変だともやめたいとも思ってない。合ってる?」
「う……うん」
不本意ながら、一言一句その通りである。
「男の人に着替えとか見られて恥ずかしかったことは?」
「はぇ!? そんなことっ……、……あるかもしれない……」
具体的にはそう、ラムダやカイ、ラッカに……あれ、思い出したらなんだか顔が熱くなってきた……?
「…………」
「それってさ……男の子だった前世の記憶が残ってるだけの、正真正銘の女の子なんじゃない?」
「えっ……と、……。……そう、だね……」
頷くしかなかった。
仮にあらゆる人の魂が輪廻で巡っているのだとすれば、リリムだって前世は男だったかもしれないし、ダインは女の子だったかもしれない。彼ら彼女らはそれを忘れているだけで、自分はたまたま前世を覚えているだけなのかもしれない。
だとしたら、前世で男だったことなんて、現世で気にしたところでなんの意味もない……?
「……ん? いや、待って、話がズレてる! ボクが気にするかどうかじゃないんだよ! 男だった記憶のあるボクと同じベッドで寝るのはリリムさんが嫌でしょって話!」
「んぇ? 何で?」
「何でってそりゃ……性欲がなくたって背徳感とか罪悪感はあるし……記憶と合わせればジェネリック劣情みたいなものっていうか……」
「あっははは、いいね、ジェネリック劣情」
何かのツボを刺激したのか、リリムは愉快そうに笑った。この世界にもジェネリック医薬品はあるのだろうか……。
「うーん、あたしから見たナツキちゃんは今でもかわいい女の子だしねぇ……あと、劣情に悶えるナツキちゃんもかわいいと思うよ? 大丈夫だよー」
「何のフォロー!? じゃなくて、リリムさんはもうちょっと警戒して!」
「あー、襲う? 襲っちゃう?」
「襲わないけどさ!」
「じゃあ問題ないよねぇ」
……身に覚えのあるやり取りだ。なるほど、アイシャ達はこんな気分だったのか。
「難しく考えすぎだよ、ナツキちゃんは」
そう言ってリリムはナツキの手首から手を離した。圧力の均衡を失った手のひらがぽよんと押し返される。その感触は前世なら背徳感と共に喜びがあったはずなのに、今はただ、柔らかくて弾力があるなぁ、自分も成長したらこうなるのかなぁ、わくわく、としか考えられなかった。
……わくわく?
「嘘だ…………」
自分の思考が信じられずに愕然と手のひらに目を落とすナツキを、リリムはひょいと抱き上げて隣のベッドへと運び、
「さ、二度寝しよ。《モンキーズ》の奴らが起こしに来るまで、あたしがナツキちゃんを……独り、占め……すぅ……」
同じ布団の中で片腕でナツキの頭を抱きながら、一瞬で眠りに落ちてしまった。本当に全く警戒されていない。
「むにゃ……ナツキさんは……かわいい女の子なのです……」
「……なーなぅ……なつきー……かーいぃ……」
反対側から追い打ちの寝言が飛んでくる。と同時ににー子の柔らかい体が背中にくっつき、そのにー子ごと抱きしめるようにアイシャの腕が伸びてきた。
「……。ま、いいか……あったかいし……」
リリムの言うとおりだ。今自分は幼女になっているのだから、幼女として生きればいいのだ。成人男性だった頃のナツキを知る者達などこの世界には存在しないし、今後出会うことだってあるわけがないのだから。
「あいつらと再会でもしない限り……大丈夫……」
勇者パーティの面々を思い出しながら柔らかな温もりサンドイッチに身を任せること数秒、寝不足の幼女ボディはあっさり眠りに落ちた。
このときナツキは、リリムの性転換への反応が想定外すぎたせいで、その前段にあった「転生」などという突飛な概念を彼女があっさり受け入れたことに疑問を抱けなかった。――もっとも、もし疑問を抱いて問い質していても、リリムは笑ってはぐらかしただろうが。