水の都と猿と酒 Ⅱ
「お願い、レイニーさん、ラッカさん……今は何も聞かないでほしいんだ……」
「んっっ……!!」
「一晩だけ、にー子達を休ませてあげてくれないかな……?」
秘技・幼女の上目遣いのお願い。《モンキーズ》にも効果は抜群である。そしてレイニーはにー子も大好きであり、今にー子達が疲れ果ててしまっているのは物理的には概ねラッカとレイニーのせいである。
「あー……もう、しょうがないわね!」
「ありがとう、レイニーさん!」
コンボ成立。やったぜ、と心の中でガッツポーズを取る。
「ちゃんと明日説明してよね、この子達のことも……ふふ、かわいい。またダインさんが拾ってきたのかしら」
レイニーは溜息をつきつつも、腕の中で寝息を立てながらもぞもぞ動くハロを抱え直して笑った。まだ二人にはアイシャとハロの紹介もしていない。
「ま、どんな事情があったって放り出すわけにはいかねーよな。いいぜ、とりあえず今晩は匿ってやんよ」
ラッカのOKももらい、ほっと一息つく。スラムの川水を直飲みしていたとしても、彼は《モンキーズ》最年少にして全員が認めるパーティリーダーだ。基本は優しく頼りになるいい男である。
「ラッカさんもありがとう! ……ところでラッカさん、荷物重くない? ボクも両手空いてるし、少し持てるよ」
「ははっ、なんだよ、お礼のつもりか? 気にしなくていいし、そんなにヤワじゃねーぜ! ……てかオレよりほら、リリム姉じゃね?」
ラッカに促されて振り向くと、完全に表情の抜け落ちたリリムが俯きながらふらふら歩いていた。今にも倒れそうだ。
「り、リリムさん……大丈夫? 代わる? ボク二人くらいなら運べるよ」
「ん……ナツキちゃん……今あたしからニーコちゃんを取ると……何も残らないから……」
「そんなことはないよ!? うーん……リリムさん、手出して」
「……んぇ?」
「ボクの手、握って」
「そんな……ナツキちゃんの可愛いおててを握るなんて……畏れ多いよ……」
「何言ってるの!? もう寝てる!? ほら、《活気》術!」
「ん……っ!?」
こちらから細い指先を握り、気の力で少しだけリリムの全身の筋肉を賦活し、安定化して制御から切り離す。効力は一時間ほどだが、どれだけ疲れていようが身体を動かせるようになる術だ。かつてトドナコの森でアイシャを助けたときに使ったのと同じものである。
「にぅ……」
余波が届いてしまったか、リリムに密着しているにー子の耳がぴくりと動いた。精密な制御ができていない……自分も疲れているようだ。
「え……なにこれ!?」
「応急手当……っていうか神経系を乗っ取ってるだけ。動くからってあんまり無理すると明日辛いからね」
痛みを抑えて筋肉強度を上げて無理やり動かしているだけで、本当に消耗を回復しているわけではないので無茶は禁物だ。
「う、うん……ありがとね。はぇー……あたしの学んだ医学って一体……」
「原理が違うし、治療したわけじゃないよ。ほら行こ、リリムさん」
突然軽々と動くようになった体に目を瞬かせるリリムの手をそのまま引いて、ラッカとレイニーの後を追う。
彼らの話によれば、そろそろ「拠点」に到着する頃だ。《モンキーズ》が受けている依頼について詳しいことはまだ聞いていないが、彼らはここしばらくずっとそこで寝泊まりしているらしい。ありがたいことに今晩はその一角を貸してくれるそうだ。
「ここだぜ」
やがてラッカが足を止めて指差したのは、広い洞窟の壁に点々と開いた横穴だった。暗い光が漏れているそのうちの一つ、地面と同じ高さに開いた穴へと入っていく。
「宿屋……なの? アパート?」
「アジトよ」
「アジト!? 何の!?」
「こーら、声が大きい」
「ご、ごめん……」
アジト。組織の隠れ家、セーフハウスというような意味だが、真っ当な集団の活動拠点として使われる類の言葉ではない。闇市にある時点でそれはそうなのかもしれないが、《モンキーズ》が受けた依頼とは一体――
「ん……」
と、リリムが何かに気づいて足を止めた。その視線の先にあるのは、壁に大きく刻まれた紋章だ。このアジトを使っている組織のロゴマークだろうか。
「リリムさん?」
「これ……どこかで……」
文字らしき形の模様がパズルのように絡み合い、シンプルな形――円と斜線を組み合わせた駐車禁止マークのような配置にまとまっている。文字らしき形とは言ったものの、翻訳システムが一切反応しないので実在する文字ではないのかもしれない。
「おーい、何してんだ? こっちだぜ」
「リリムさん、行こ? 今日は休まないと」
「ん、そうね……体は動くのに頭がぼーっとする……」
怪訝な顔でマークを注視していたリリムを引き剥がし、ラッカ達について行く。複雑に入り組んだ洞窟をすいすいと進むその様子からは、彼らがずいぶん長くここに留まっていることが見て取れた。
そして通されたのは、粗末なベッドが二つとテーブル代わりの石材が無造作に置かれた小部屋。《子猫の陽だまり亭》の客室とは雲泥の差だが、にー子と引き換えに逃亡生活を選んだのは自分だ。雑魚寝でないだけ幸せと思うほかない。
「お疲れ様、アイシャ」
背負っていたアイシャをベッドに下ろし、布団をかけてやる。
「むにゃ……ナツキさん……? ここは……」
「安全地帯だよ。安心しておやすみ、アイシャ」
「はい、です……、すぅ……」
優しく頭をひと撫でし、腕の影から再び顔が現れたときにはもう、アイシャは穏やかな寝息を立てていた。
「お疲れなのね……」
「おめーのせいでな」
「あんたのせいでしょ……ってダメダメ、起こしちゃう」
レイニーとラッカがアイシャの寝顔を覗き込んでくる。
確かに彼らの運転がアイシャの疲労に多大な寄与をしていることは間違いないが……それ以前にここ数日、アイシャには色々なことがありすぎた。
これまでただのドロップスだったはずが、実は天使の魂を宿した天使の雫なるラクリマだったことが突然判明し、天使をその身に降ろして別の天使と戦った――というのは巨大で衝撃的な体験としてあるだろうが、その他にももっとたくさん、アイシャは様々なものと戦っていたのだ。
ナツキとリリムの立てた作戦に修正を加えてまで《陽だまり亭》に残る選択を提示することの不安、責任。ながれぼしチーム後発部隊の実質的な隊長役としてのプレッシャー。目の前でナツキの体がちぎれ飛んだときに感じたであろう恐怖。
……彼女の立ち位置に自分を置いて考えてみればすぐ分かる。どれもこれも決してこんな幼い身体に背負わせていい重圧ではなかった。
そして何より、
『貴様……星涙の分際で、誰に刃を向けている』
『知ったこっちゃないのです』
人間に従い、人間を守り、その刃は神獣のみに振るわれる――心に植え付けられたドール行動原則を、彼女は真っ向から否定した。世界最高位の人間である聖騎士エルヴィートにアイオーンを向け、斬りかかった。あのタイミングではまだ天使に体を乗っ取られてはいなかったはずで、アイシャは自分自身の判断でにー子を想って行動したのだ。
常識との戦い。それがどれだけ過酷なものだったのか、ラクリマとして生まれたことのないナツキには想像することしかできない。しかしきっと、全世界でアイシャにしか真に理解し得ない戦いを彼女は越えてきたはずなのだ。心が疲れていないわけがなかった。
「さて、と。ここは空き部屋だからな、とりあえず使っていいぜ。もし誰かに何か言われたら俺達の名前出しとけ」
「明日朝イチで諸々聞かせてもらうわよ。じゃ、おやすみね」
もう片方のベッドに荷物とハロをそっと下ろし、部屋の出入口に木の板を立てかけ、ラッカ達はあっさり部屋を出ていった。
「よい、せっと……」「んに……」
リリムは背負っていたにー子をアイシャの隣に下ろした。身じろぎをするにー子をしばらく愛おしそうに眺めていたが、やがて自分もカクンと倒れ込むようにベッドに沈み、
「やばい……ここ数年で一番疲れた……ニーコちゃんと同じベッドで寝られるのに……堪能する気力がもう……、……すぅ……」
「あはは……お疲れ様、リリムさん。今日はありがとね」
ナツキの感謝の声が届くより先に、リリムは夢の世界に旅立ってしまった。
「ふわ、ぁ……んん……ボクもそろそろヤバい……」
大きなあくびが出てくる。無意識に覚醒状態を保たせている練気術を切れば、きっと自分も同じように倒れてしまうだろう。
リリムとアイシャ、にー子がいるベッドはもう入るスペースがない。ハロの隣に寝転びながら、これが大人五人だったら一人床で雑魚寝することになってたな、幼女ばかりのパーティでよかった、などとぼんやり考える。もしここにラムダやネイがいたら――まあラムダが雑魚寝かな、悪いけど。
「みんな……今どうしてるかな」
微睡みの中、つい今朝まで顔を合わせていた仲間たちに思いを馳せる。
今ここにいる五人は、ネーヴェリーデ経由でフリューナ大陸へ渡り、南向きにカロノミクノを目指すパーティだ。他の面々も目的地はほとんど同じだが、そのルートや手段が異なる。
リモネちゃん、ラムダ、キルネの三人は、《塔》にいるセイラという原初の涙にダイレクトに位置を把握されてしまうらしく、ナツキ達とは別行動である。彼女達は北の海を渡るルートでフリューナ大陸を目指すそうだ。
リモネちゃんチームにはネイも加わっている。ナツキ達は何かあったときにネイのサポートにまで手を回す余裕がないのと、リモネちゃんは《塔》の重要人物として一般に顔が知られているので、パーティに保護者的な一般人を加えることで少しでもカモフラージュしようという魂胆だ。
そしてスーニャだが、彼女は天の階の中でも特殊で、セイラも位置を特定できないらしい。そう聞いたナツキは一緒に来ることを提案し、スーニャ自身もそうしようとしていたのだが――リモネちゃんに却下されてしまった。
『むぅ……なんでだめ……?』
『スーニャは世間様の知名度が高すぎますからねー。特にオペレーターなら知らないほうがおかしいレベルです。あなたの忌印は隠しにくいですし、すぐ《塔》に連絡されちゃいますよ』
『でもスー、にーこ達といっしょがいい……』
『わがまま言うんじゃないですよ。ていうかあなたの場合、一人で時空の裏通っていくのが安全最速じゃないですか』
『むー……ちがう! りもね、いじわる。スーの気持ち、ぜんぜん分かってくれない』
『誰が意地悪ですか! あたしだって幼女と一緒がいいですよ!!』
リモネちゃんの最後のそれは特に関係のない魂の叫びだったが、そこまでの論理は通っている。しかしスーニャも譲れないという様子で、しばらく二人は言い争っていた。
一緒に行きたいというスーニャの思いには応えてあげたい。忌印をうまく隠せる方法を考えよう、とナツキが声をかけようとした瞬間、
『もういい!』
スーニャは涙目で一言そう叫び、空気に溶けるように消えてしまった。
『……ちょっと言いすぎましたかね。あの子、マイペースでもあんなにわがままじゃなかったはずなんですが……』
『ひとりぼっちが寂しいんとちゃう? アレや、今回の件でぬくもりを知ってしまったんやな』
『でもウチらと一緒に行くのも嫌がってたっすよ?』
『……たぶんスーちゃん、ニーコちゃんを守れなかったことをまだ気にしてるんだと思うです』
『にぅ?』
スーニャは言い争いながら、何度もにー子の名前を出していた。スーニャは悪くないと伝えてはいるし、にー子も全く気にしていないのだが……彼女なりに罪滅ぼしの機会が欲しかったのかもしれない。
そのうちまた姿を見せるだろう、とその場は収まったのだが、以降何度呼びかけても反応はなく、今に至る。
(スーニャ……大丈夫かな)
リモネちゃんとキルネによれば、彼女は異能や権力的に難なく一人でカロノミクノまで行けてしまうので、身の心配はいらないという話だが……どこかで泣いていたりしないだろうか。喧嘩別れのようになってしまったことが心残りだ。
そして最後に――エネルギー供給を絶たれコアだけになったメルクは、今はナツキが持っている。
剥き身だと失くしてしまいかねないということで、《陽だまり亭》の常連客の一人、服飾店を営むエレノーラが(戦々恐々としながら)ペンダントに加工してくれたのだ。といってもコアを削るわけにはいかないので、店にあった球状のロケットペンダントを一つ譲ってもらい、外れないように接着しただけなのだが。
(……メルクは、ボク達と一緒でよかったのかな)
今彼女を起動できるのは、コアに刻まれた緻密な気巧回路に充分な量の気を流し込める練気術士だけ。一応それが表向きの理由なのだが……
『ボクが気を流し込めばボクには逆らえなくなるから、危険はないと思うけど……やっばりメルクの意思確認もしたほうが』
『大丈夫ですよー。ぜひボロボロになるまでこき使ってやってくださいね』
『え?』
『ねー、レノラールだっけ? それ、接着剤なんて使わないで針でぶっ刺せばいいんじゃないのー?』
『へっ!? あ、あたしエレノーラ……じゃなくて、え、これ中に女の子入ってるのよね!?』
『あはっ、あの子は刺されたくらいじゃ死なないよ……きっと。ね、ブスッといっちゃお……? ほら、いっちゃえ、いっちゃえ♡』
『そ、そうなの……? じゃあ……ナツキちゃん達にひどいことしたって聞いたし……』
『わーダメ! あの体と違って気巧回路は繊細なはずだからっ! ボクはもう気にしてないからー!』
ロケットを開いてガラス玉を見ながら、《陽だまり亭》での一幕を思い出し苦笑する。
(仕方ないか……リモネちゃん達に渡したら割られちゃいそうだし)
リモネちゃんもキルネも、メルクの胎内に取り込まれる「お仕置き」を食らったことがあるというし、《塔》の天使以外の面々からは並々ならぬ恨みを買っていそうである。
もっとも同じことをされたという意味ではナツキ、アイシャ、にー子もそうなのだが――
(……あれはどこまでが『メルク』だったのかな)
ラグナの常識では、魔法生物は自意識を持たない。術者が構築した模造意識を持っていることはあるが、自由意志や人格はない。気の循環路を模した魔法回路にマナや気を流し、マナで構成された体を動かすことで、生物のように振る舞うのだ。根源の窓にあたる部分が術者との接続部になるので、根源の窓を経由する気の循環――「魂」は存在しない。
一方で、メルクの気の循環路は単なる魔法生物のそれではなかった。恐らく彼女は、術者に流し込まれた気の力だけで動いているわけではない。もしかすると――
「回路展……いや」
回路を解析しようと起句を唱えかけ、やめる。もしメルクという人格がナツキの予想通りの仕組みで存在しているのなら、それは勝手に眠っている人の体を弄くり回すことに等しい。
「……寝よ。今日は何もしてないのに疲れた……」
ロケットを閉じ、根源の窓から流れ出てくる気の余剰分を全てカットする。途端に重力が数倍になったかのように体が重くなり、瞼が落ちていく。ここ数日さすがに幼女ボディを酷使し過ぎているので、ちゃんと幼女らしい生活リズムに戻していきたいところだ。
ぽす、と隣で眠るハロの手がナツキの腹の上に乗る。小さな手を握り返し、ふと……何かを忘れているような気が。
「ん……? ……まいっか。おやすみ、ハロ……」
眠気が限界だ、難しいことは明日の朝考えよう……。