水の都と猿と酒 Ⅰ
地に下ろされる軽い衝撃が身を揺らし、ナツキは目を覚ます。蓋の隙間から微かな水音と共に流れ込んできた新鮮な空気は、どこか懐かしい潮の香りがした。
「んーで、誰もいねーのかよ。おやっさん全然連絡くれねーし」
「うーん……おかしいわね、送り先の印は確かにここなんだけど」
不満げな男女の声。パサ、と紙を広げる音が聞こえる。
「どーするよ、こんなとこ夜にうろうろしてたら俺たちまで例のアレに……」
「ちょ、やめてよね……囮捜査なんてまっぴらよ。それに二人でいれば大丈夫って親方さん言ってたじゃない」
何やら不穏な会話も聞こえたが、どうやら目的地に到着したようだ。
くぐもって聞こえる声は困惑している。それはそうだろう、何せ彼らに「追って知らせる」ことになっている受け取り手なんて存在しないのだから。
……いや、存在すると言えばするのかもしれない、まさに今ここに、積荷として。
「に、ぅー……」
「うぅ……お姉ちゃん、はや、く……」
「はわぅ……くらくらするです……」
「あいつら……一発殴る……っ」
もうみんな限界だ。……いや本当に、日本の運転免許制度と舗装された道路の有難みがよく分かる一日だった。最初はみんなで無邪気にサプライズの計画を立てたりしていたのに、そんな気力はもう誰にも残っていなかった。気を失っては衝撃で目を覚ますのを何度も繰り返しながら、ただひたすら腕の中のにー子を抱きしめていた。気を失っている間にノイズ混じりの変な夢を見た気もする。
そう、ナツキ達はラッカとレイニーの「積み荷」として、フィルツホルンからこっそり逃げ出してきたのである。地上のゲートの門番には当然伝えずに、闇市経由で隣の地割れまで移動し、謎のコンテナとしてネーヴェリーデ宛に出荷されたのだ。
「ね、ねぇ、なんか呻き声聞こえない……?」
「はぁ? そりゃあれだろ、いつもの風笛じゃ……っ!?」
「ううん違うの、なんか人の声みたいな……え、何?」
コンテナの蓋を内部から開け立ち上がると、懐かしい姿が見えた。こちらを見て言葉を失う少年と、訝しげに首を傾げる女性の背中。
「……レイニーさぁん」
「あ、ほら聞こえた、あたしのこと呼んでるみたいな……っ、ま、まさか、ゆ、ゆゆゆゆゆうれ……ら、ラッカ? さっきからどこ見て……」
「な……なな……なっ」
「な、何、こっち? あたしの後ろ……何かいるの!? やだ、見たくない! ラッカなんとかしてよ! あたしお化けはほんと無理無理無理――」
ぴと、伸ばした両手をレイニーの首後ろに貼り付け、
「いぎゃやぁぁあああああああああっ!!?」
「うわわっと!?」
絶叫と共に瞬時に繰り出された回し蹴りとアッパーカットは、ナツキの反応速度をもってしてどうにかギリギリかわせる程の、必死で決死の火事場速度を伴っていた。
「な、な……ナツキちゃん!?」
「やだやだやだ……っ、へ?」
ようやく言葉を紡ぎ出せたラッカと、ようやく目を開けてこちらを見てくれたレイニーに、笑顔を向ける。
「どーも、久しぶりだね。いろいろと言いたいことはあると思うけどさ、まずは……衝撃に備えたほうがいいかも?」
「「え……」」
ゆらり、ナツキに続いてコンテナから幽鬼のごとく立ち上がったリリムの拳は、固く殺意の形に握りしめられていた。
☆ ☆ ☆
水の都ネーヴェリーデ。それはこのジーラ大陸の南端に位置する貿易港だ。大陸最大の観光地であり、フリューナ大陸との連絡船が発着する唯一の港でもある。
住居はそのほとんどが石造建築であり、街中に水路が張り巡らされている。……それだけ聞くと地球で言うところのベネツィアに近い景観だと思ってしまうが、詳細を聞けば全くの別物であることが分かる。
最大の違いはその立地と構造だろう。ベネツィアが平らなラグーン内の島に形成された街であるのに対し、ネーヴェリーデは断崖絶壁に囲まれた広大な円形の湾内に形成された水上都市であり、無数の石柱と石橋が折り重なるようにして建設された立体都市なのだ。フィルツホルンしかり、この世界の人々は街を積み重ねないと落ち着かないのだろうか。
ネーヴェリーデの人々は、一日のほとんどを海抜数十メートルの空中足場上で過ごしている。海水面の高さはほぼ全て船の通り道であり、人が通れる足場はほとんどない。湾内に入った船を見下ろしながら、クレーンのような機械で貨物や乗客を引っ張り上げるのだ。
その様子は港というよりむしろ、何十隻も船舶を抱え込めるほど超巨大なドックと形容したほうが分かりやすいかもしれない。
「待って、レイニーさん。その説明だと街中に水路があるわけがないんだけど……」
解説を遮り、ふと抱いた疑問を呈する。隣を歩くレイニーは、頭の大きなタンコブを擦りながらウィンクを返してきた。
「いい質問ね、ナツキちゃん。それも見てみればすぐ分かるんだけどね、水路というよりあれは川なのよ」
「川?」
川、すなわち陸地に降った雨がまとまり水流となっているもの。その星の営みは、惑星ノアはジーラ大陸の砂漠に降った雨にも当然適用される。フィルツホルンの地底層の川を含む多くの河川は南へと流れていき、やがて一本の大河にまとまるのだが、その終着点がここネーヴェリーデの断崖なのだそうだ。
そして崖から湾へと降り注ぐ水の一部が街に受け止められ、無数の石橋の上を空中水路となって流れていく、というわけである。まるで大陸棚がまるごと隆起したかのような海岸線がずっと続くジーラ大陸南部ならではの景観らしい。
「街全体がダムみたいなもの、らしいわよ。発電にも使うし、飲み水にもなるし。そのまま海に捨てちゃうのはもったいないってね」
「なるほどね。ナイアガラの滝に囲まれた、エッシャーのだまし絵みたいな街ってことか……」
「ないあ……何て?」
「何でもないよ。説明ありがとね」
「これくらいお安い御用よー。てか、今話したことなんてリリムだって知って……リリム? あんた大丈夫?」
「……んぇ? あーうん……大丈夫大丈夫」
足を止めたレイニーに呼びかけられ、これまでずっとナツキの後ろで黙っていたリリムが気の抜けたぼんやり声を返した。
ナツキ、アイシャ、にー子、ハロ、リリムの五人は、コンテナを出てからずっとラッカとレイニーに先導されて歩いている。半日近くコンテナにすし詰め状態だったせいで、もはや話す気力があるのはナツキだけだ。
アイシャはナツキの背の上、ハロはレイニーの腕の中で寝息を立てている。にー子はリリムに背負われているが、そのリリムの足取りもふらふらしており危なっかしい。
「リリムさん……」
小さなコンテナの中、ずっと無理な体勢で衝撃から子供たちを守るように努めてくれていたリリムは、強がってはいるが息も絶え絶えだった。危険運転の恨みを乗せた渾身の拳骨をラッカとレイニーの頭に落とした後、その為だけに残していた最後の体力とばかりにその場に崩れ落ち、しばらくぴくりとも動かなくなってしまったくらいには限界だった。
そんなリリムを見てにー子は回復魔法を発動しようとしたが、『ふあふあ……』まで発声したところで電池切れで眠りに落ちてしまった。釣られてアイシャとハロも気絶するように倒れ――どうにか気力を振り絞ったリリムが立ち上がり、今に至る。
「ほら……ニーコちゃんは寝ててもぽかぽかあったかいからねぇ……陽だまりパワーであと三日はいけるから……うへぇ」
「何言ってるのリリムさん?」
「ダメね、着いたら秒で寝るわよこれ。……それに引き換えナツキちゃんは元気ねぇ」
「……リリムさんが守ってくれてたからね」
ということにしておく。元気に見えるかもしれないが、ナツキとて練気術で無理やり覚醒しているだけである。全身の筋肉を賦活している気の力を抜けば、例のごとくアイシャの重みにも耐えられず崩れ落ちてそのまま眠ってしまうだろう。
「んじゃ、引き続き私がガイド役するわねー。ナツキちゃん、他に何か質問ある?」
「あ、うん。すごく気になってることが一つあって」
レイニーが教えてくれたネーヴェリーデの概要は分かりやすかったが、一つ問題があった。それは――
「ボク達、もうネーヴェリーデにいるんだよね? なのにさっきからずっと、崖や湾どころか空すら見えない洞窟の中にいる気がするんだけど……」
周囲に見えるもの、濡れた岩壁、暗いランタンのような灯り、10メートル以上はありそうな高い天井を這う太いダクトに何らかの配線の束、道の中央をちょろちょろと流れる水、……以上。コンテナから出て数分歩き続けているというのに、景色はずっと変わらないままだ。空気に微かな潮の香りがあるだけで、レイニーの語る明るく賑やかなだまし絵のような街などどこにも見当たらなかった。
その疑問に答えてくれたのは、ナツキを挟んでレイニーとは反対側を歩くラッカだった。
「そりゃま、ここは裏街……闇市だしな、仕方ねーよ」
彼は一人だけラクリマを運んでいないが、代わりに皆の荷物の山を預かってくれている。流石は日々肉体を鍛えている剣士、ラクリマ二人分の重量はあるだろう大量の袋を軽々と運ぶ姿は頼もしい。……頭にはレイニー同様の大きなたんこぶを拵えているが。
「へぇ、闇市……ってことは地下なの? ネーヴェリーデが海の上にあるってことは……海中トンネル……?」
「あーいや、フィルツホルンの闇市とはちょっと違うぜ。あっちは『下』って感じだけど、こっちは『裏』っつーか」
「ネーヴェリーデは崖に囲まれてるって言ったでしょ? 簡単に言えば、ここはその崖に掘られた洞窟の中なのよ。アリの巣みたいに複雑でとっても広いの。こっちの連中は闇市じゃなくて表街と裏街って呼び分けてるわね」
「ははあ……なるほど。水の街の影の部分なんだね」
陽の当たる表の港街を取り囲む断崖絶壁の中に、観光客には見せられない部分が押し込まれているというわけだ。
「そうだナツキちゃん、水の街とは言うけどよ、裏街じゃ飲み水には気をつけたほうがいいぜ。裏街でもあちこち水路は通ってんだけどな、火ぃ通さねーならちゃんとした店のを買ったほうがいい」
「え? うん、そりゃまあ……生活排水混じりの水なんてそのまま飲まないよ」
これでも元日本人、飲み水に求める清潔さの水準は高い。そうでなくともスラム街の川水なんてそのまま口にするものか……と首を傾げるナツキを見て、レイニーが突然吹き出した。
「ラッカあんた……ぷふっ、ナツキちゃんにまで言われて……ぷふぅっ」
「うっせうっせ、経験者のありがてーアドバイスだっつの!」
「え、経験者? まさかラッカさん……」
「そ、飲んだのよ。バカだから」
レイニーは呆れ顔で教えてくれた。なんでも《モンキーズ》がこの街にやってきてすぐの頃、喉が渇いたと言ってラッカが裏街を流れている水路の水を直飲みしたところ、体調を崩して一日寝込んだのだという。バカである。
「でもよぉ、裏街の連中はいつも水路の水でメシ作ってるっておやっさん言ってただろ。じゃあ飲めるだろって思っても仕方なくねーか?」
「あんたねぇ……」
レイニーが溜息をつく。きっとパーティの衛生の担保は、ラッカの姉であり薬剤師でもあるルンが一手に担ってきたのだろう。
「あれからずっと姉貴が水調達してくるんだけどさ……濾過器通すだけだろ? 誰がやっても同じって言ってんのになんか譲らねーんだよな」
「あれ、表街のハンターズギルドで精製してる有料のミネラルウォーターよ。あの子も過保護だとは思うけどね、要はあんたのせいで余計な出費が――」
「おう分かった! この話はやめ! よし、他に気をつけないといけないことを考えようぜ。な! なんてったって裏街は治安が悪いからな!」
都合の悪い方向に進みそうな話題の舵を強引に取り、ラッカがこちらに目配せをしてきた。
……乗れって? まあいいだろう。ハロやにー子もいる以上、治安問題は聞いておきたい。
「うん、何に気をつければいい?」
「えーと、それはだな……逆に聞くぜ、何に気をつければいいと思う?」
「……話す内容を用意してなかったんだね?」
「いや違うって! あーそうだ、あんま人のいないとこは一人で出歩いちゃだめだぜ。オバケに攫われちまうからな!」
なんだそれは。
「ラッカさん、ボクのこと子供だと思ってるでしょ」
「子供だろ!?」
「まあそうだけどさ……なに、誘拐犯でも出るの? もともとにー子やハロを一人で行動させるつもりはないし、ボクやアイシャやリリムさんは戦えるから心配ないよ」
「あー……いや」
何やらラッカの歯切れが悪い。話題逸らしが上手くいかずにまごついているのかと思いきや、ちらりとレイニーを見るとこちらも難しい顔で何かを考えていた。
「単純に戦えるってだけだと……難しいかもなのよね」
「え……なに、手練の殺人鬼でも潜んでるの? まさか本当に子供を攫うオバケが出るとか言わないよね?」
「……まあ、人目のある道を選んでれば大丈夫よ。裏街の裏路地なんてもともと入ろうとしないでしょうけど、迷い込まないように注意してね。最近ちょっと……物騒な事件が多いから」
「もし誰もいない道で歌が聞こえてきたら、それはオバケの歌だ。……すぐ逃げろよ」
「うん、分かったよ……?」
何やら重苦しい沈黙が下りている。ナツキは首を傾げ、詳細を問いただそうとしたが、それは否応無しに遮られることになった。
――オォ――……ン……
「っ!?」
突然、頭上から悪霊の呻き声のような不気味な音が響いたからだ。
反射的に飛び退き、洞窟のやたら高い天井を見るが――何もいない。太いダクトやパイプらしきものが這っている岩肌を、ランタンの揺れる明かりが不気味に照らしているだけだ。
「気をつけて! 気配はないけど何か……まさかこれがオバケの歌!?」
「あはは、違うわよ。これは風笛ね。大丈夫よナツキちゃん」
「……風笛?」
「おう、最初は鳴るたびにビビってたよなー、主にレイニーが」
「一言余計よ」
危険がないと分かっているのか、レイニーもラッカも平然としていた。《気配》術でも特に悪意は検出できなかったので、ナツキも警戒を解く。
「ほらあそこ、大きなダクトがあるでしょ? 外に繋がっててね、海風があれに吹き込むと、今みたいに音が鳴るのよ」
「へぇ、天然の楽器なんだ……え待って、じゃあなに、ここの人たち一日中あの怨霊の泣き声みたいな音聞きながら過ごしてるの?」
「そうよ。……そんな顔しないで、あたしも最初は信じられなかったわよ」
「まー三ヶ月もここで暮らしてっと、慣れちまうよなー」
二人は思い出話のように笑いながら話しているが、ナツキ達はそんなに長くここに滞在するつもりはない。旅立ちの日までずっと、音がするたびにビビり散らかすしかなさそうである。
「といっても裏街だけよ。表街じゃ遠くに聞こえることはあっても、気になるほどじゃないわ。ナツキちゃん達は心配いらないでしょ」
「え? あー……いや、たぶんボク達、裏街からは出ないと思うよ」
「ん? 何よ、あたし達の仕事場が裏街だからこんなとこに送られてきただけで、別に何かから逃げ隠れしてるわけじゃないんでしょ? 一旦親方さんのとこまでは連れてくけど、その後は別に……」
その問いは冗談交じりだったが、完全にその「何かから逃げ隠れしてる」身としては笑うに笑えない。不意打ちにピシリと固まってしまう。
車で運ばれているときに聞こえていた会話から察してはいたが、ラッカとレイニーはナツキ達の事情を知らされていないのだ――今のナツキ達は《塔》に追われている大犯罪者であるという事実を。
「…………あはは」
「……え? まさか何かやらかしたの、ナツキちゃん? ……考えてみれば、何でわざわざあんなコンテナで……」
「はぁ、だから言ったじゃねーか……箱一つ運ぶだけで白金貨10枚とかおかしいって」
「ま、まあまあ! その話は報酬の話と合わせて明日、ね!」
雲行きが怪しくなってきた。
まあ気持ちは分かる。彼らとて中堅パーティ、危ない橋は渡りたくないだろう。
しかし――今はなりふり構っていられないのだ。
ナツキは禁断の秘術を使うべく、レイニーの袖をきゅっとつまんだ。