デフラグメンテーション
大変長らくお待たせしました(土下座)
失踪してません! 生きてます! 単にお仕事が激忙しかっただけです……
というわけで第二章【星の旅人】、始まります。
週一更新くらいのペースになると思われますが、ごゆるりとお付き合いくださいませ。
廻路秋葉は天才だった。
秀才ではなく、天才。それも数百年に一度とかそういうレベルのだ。
もっとも、生まれたときに天上天下唯我独尊と唱えたわけではないし、赤ん坊の頃からペラペラと言葉を話して大人みたいな振る舞いをする、いわゆる転生者みたいなやつでもない。秋葉は言うなれば、後天的な天才だった。ある日突然、彼女の下に天賦の才が降って湧いてきたのだ。
そのきっかけは明確だ。十年経った今でも覚えている、忘れられるはずもない出来事――両親の死の記憶。
週末の、いつものショッピングモールに買い物に出た帰り。自分と秋葉は父親の運転している車の後部座席に、母親は助手席にいた。両親の叫びが聞こえ、急ブレーキに驚いて顔を上げた瞬間、轟音が耳を劈く。一瞬遅れて衝撃がやって来た。そのまま意識を失い、気づいたら病院のベッドの上だった。
酔っ払い運転の逆走車が突っ込んできた、らしい。相手側の運転手は衝突時の衝撃で潰れて即死、夏樹と秋葉の両親も似たようなものだった。最も軽傷だったのは夏樹で、軽い骨折で済んだ。秋葉はまだ3歳と幼かったことも災いし、しばらく意識不明の状態が続いた。
点滴に繋がれて眠る秋葉の手を握りながら、夏樹は放心していた。世の理不尽を呪い尽くし、行き場のない怒りを看護師達にぶつけ、泣き喚き、何もできることはない、受け入れるしかないと悟り、何も考えなくなった。
「おにいちゃん、死ぬってどういうことなのかな」
突然、秋葉が声を発した。
秋葉らしくない、冷たく落ち着いた、しかし震えを隠せていない声だった。
慌てて立ち上がった夏樹を、涙に濡れた瞳が二つ、見つめていた。
「おにいちゃんは生きてる。秋葉も生きてる。お母さんとお父さんは死んじゃった。死ぬってなに? 生きてるってどういうこと? 秋葉は……なんでここにいるの? なんで秋葉は秋葉って分かるの?」
その哲学的な問いかけに、夏樹は何も答えられなかった。ただ、自分の知る幼く無邪気な秋葉はそんな難しいことは考えない、という違和感が胸を渦巻いていた。そしてそれは秋葉本人も気づいているようだった。
「おにいちゃん……あ、秋葉、へんになっちゃった。あのね、秋葉の中でね、いろんなことがたくさん、ぐるぐるばちばちしてる……こわい……こわいよぉ……っ」
思わず抱きしめた秋葉の小さな体は震えていた。何がなにやら訳が分からなかった。体を持ち上げた拍子に何かのケーブルが外れ、医療モニタがけたたましい電子音を響かせ始めた。異常を察した看護師が駆けつけるまでの間、とにかく今秋葉を守れるのは自分だけだと、泣きじゃくる彼女の背中を撫で続けた。
400。それが秋葉の叩き出したIQ値だった。
「旧式の値ですが、つまり実年齢の4倍……妹さんの精神年齢は12歳相当に達しています。DIQ……偏差値を用いた新式の試験では218でした。いずれにしても極めて高い、史上類を見ない結果です。しかし……妹さんの記憶、自己像は突然上昇した知能と乖離してしまっています。精神的に非常に不安定になっているものと――」
主治医の説明に対し、よく分からん、という顔になっていたのだろう夏樹に対し、彼は少し考えて言い直した。
「おそらく事故の影響で、妹さんの脳の一部が急に成長してしまい、他の部分と噛み合わなくなってしまっているんです。例えるなら、レベル3の勇者がバグでレベル12の魔法を覚えてしまったけど、MPはレベル3のままなので実戦には使えない感じ――」
「ちがうよ」
主治医の言葉を遮ったのは、いつの間にか病室を抜け出して面談室まで来ていた秋葉だった。
「あのね、ばぐのせいでえむぴーはレベル12ぶんあるのに、秋葉のレベルもおぼえてるまほうのレベルも3のままなの。ぐちゃぐちゃしたえむぴーのかたまりがね、ずっとなにもできなくて、ぐるぐるばちばちしてるの」
「秋葉ちゃん……補足ありがとう。でもまだ勝手に歩き回っちゃだめだよ」
「えー、でも秋葉、もうあるけるよ。りはりび? だよ」
「歩けてもダメです。リハビリはちゃんと専門の先生の指示に従って――」
喩え話を理解して、より真実に近い形に再構成する。それが普通の三歳児にできる芸当でないことは夏樹にも理解できた。しかし怒られてしゅんとなる姿や語彙の少なさは夏樹のよく知る秋葉のままで、どこか安心している自分がいた。
両親を亡くした夏樹と秋葉に頼れる親戚はいなかった。幸いにも両親はある程度の貯蓄を遺してくれており、入院費を差し引いても向こう数年は二人だけで生きていける目処が立った。
しかしそれだけでは夏樹が稼げる年齢になるまでは持たないだろう、ということも分かった。
「親父が『ならうちの子になりゃいいじゃねえか!』って言ってたよ」
「え、養子ってやつ? マジで?」
「いや、すぐ母さんに怒鳴られてた。二人も追加で養えるだけの金を稼いでから言えって」
「なんだよ期待させやがって。タイショーんちなら結構アリかもって思ったのに」
幼馴染のクラスメイト、タイショーこと川上将太。彼とは家が近いこともあり、昔から家族ぐるみの付き合いで、夏樹と秋葉はしばらく彼の両親の世話になった。葬式だとか相続だとか、面倒なことは全部任せきりだった。きっといつか恩返しをしようと思い続けて七年、今度は夏樹が死んでしまった。また散々迷惑をかけてしまったことだろう。
……と、今となっては申し訳なさの極みだが、当時の夏樹はまだ小学生のクソガキである。面倒臭いことは大人がなんとかしてくれて当然だと思っていた。目下の悩みは入院中に進んだ授業の内容がさっぱり分からないことで、次点で秋葉が夏樹に秘密で何かしているのが気になること、その次が貯金を切り崩して生活することのぼんやりした不安、であった。
もちろん両親を亡くした悲しみだって消えてはいない。しかし夏樹は、どうしようもないことに対する諦めと新しい環境への適応は早い方だった。
「しっかしお金か……お金なあ……寿司屋って金持ちなんじゃねーの?」
「お金持ちのお客さんが来るイメージはあると思うけど、ウチは半分タイシュー食堂だから……って母さんが言ってた」
「タイシュー食堂ってなんだ?」
「わかんないけど、たぶんお金持ちはこない食堂のことだと思う」
「ふーん」
タイショーの家は寿司屋だった。回らない寿司屋と言えば聞こえはいいが、実態は近所の人々の懐事情に合わせた値段設定の、大衆食堂じみた謎の店である。小学生の夏樹はカレーライスが、秋葉はエビフライが好物でよく注文していた。寿司屋とは何だったのか。
「もし本当に養子になったら、タイショーは俺の弟になんのかな? 誕生日的に」
「ええ? 後からうちの子になるんだから夏樹が弟でしょ。跡継ぎの座は譲れないね」
「秋葉が妹になるんだからいいだろ……いやよくないな、こっちだってタイショーに秋葉の兄の座は譲れない。養子の話はナシな」
「あはは、出たよ兄バカ」
「うっせ」
きっといよいよお金が尽きてどうしようもなくなったら、養子縁組まではしなくともタイショー一家は夏樹が働ける年齢になるまで面倒を見てくれていただろう。
しかし実際は、夏樹と秋葉はそれから七年間、学費やらなんやらを自分たちで支払った上でパソコンだのゲームだのにお金をかけられる程度に余裕のある生活を送り続けたため、その未来は訪れなかった。
そのお金の源泉は――秋葉だった。
「こちら、懸賞金の100万ドルになります」
「!?」
「ついては、学会での発表を是非お願いしたいのですが……」
「がっかいって何ですか?」
「……そうなりますよね。ええ……はぁ……まさか本当に5歳だとは……全く、なんと報告すればいいのやら」
夏樹が中学校に上がるくらいの頃、突然家を訪問してきたナントカ財団の人間が、札束がぎっしり詰まったアタッシュケースを開けて見せてきたのだ。何かの詐欺だと思い警察に通報しようとした夏樹を慌てて止めた彼は、事の経緯を詳しく説明してくれた。なんでも――秋葉は、世界の誰も解けずに多額の懸賞金が掛けられていた数学の難問をひとつ、解いてしまったらしい。
生年月日を含む秋葉のプロフィールと共に提出されたその解答は、数学の証明として適切な表現に翻訳され、一年かけて世界中の数学者達に審査され、なんとか誤りを見つけてやろうと目を光らせるあらゆるその筋の専門家達を唸らせ、屈服させ、結果こうして懸賞金を管理している財団の職員が「自称5歳」の天才数学者を訪ねにきたというわけである。
二年前、夏樹に内緒でもくもくと何かを書いていた秋葉は、きっとその問題を解いていたのだろう。
100万ドル、当時のレートでおよそ一億円だ。それに加えて、夏樹と秋葉の事情を知ったナントカ財団は、毎月「研究費」と称して生活資金を振り込んでくれるようになった。財政問題が一挙解決したのである。
今になって思うと、夏樹の立場でそのお金を使ってゲームやらパソコンやらを買うのはなんというか、妹のヒモみたいな感じで気が引けるのだが――当時中学生になったばかりのクソガキにそんな発想はなかった。
ちなみに秋葉はその後も天才っぷりを遺憾無く発揮し、コンスタントに数学会や物理学会を揺るがしていたらしい。一方夏樹は「天才妹に全ての才能を吸われた凡人お兄ちゃん」として近所で若干有名になった。ほっとけ。
☆ ☆ ☆
■■■■がこちらを見て笑っている。
――――削除。
☆ ☆ ☆
その日は雪が降っていた。関東では久しぶりの、積もるほどの雪だった。
夏樹はちょうど大学受験を終えた翌日だった。博士号持ちのくせに小さな子供のようにはしゃぐ秋葉と■■■■に連れ出されて、近所――――
再構築。
その日は雪が降っていた。関東では久しぶりの、積もるほどの雪だった。
夏樹はちょうど大学受験を終えた翌日だった。博士号持ちのくせに小さな子供のようにはしゃぐ秋葉に連れ出されて、近所の公園まで遊びにいった。公園にはすでにタイショーがいて、近所の小さな子供たちを引き連れて雪合戦に興じていた。
「お、夏樹じゃん。受験お疲れ! 感触どう?」
「よ。本命は五分五分ってとこ、他はまーいけるだろ」
「いいじゃんいいじゃん。ちなみに僕は明日本命の試験日」
「うぉい、ぜってー今日雪遊びしてちゃダメなやつ……でもねーか。タイショーの本命ってつまり」
「そ、父さんを納得させられればクリア。最初の関門だよ」
寿司屋の倅のタイショーは、明確な夢として寿司職人を目指していた。しかも小学生の頃話していたように親の後を継ぐのではなく、独立して店を持ちたいという茨の道を選んだため、父親とは大喧嘩をしたらしい。
「勇気を出して父さんに相談できたのは二人のおかげだよ。ありがとね、秋葉ちゃん、■■■■」
でかい図体を屈ませ、タイショーは何度目になるか分からないお礼を秋葉と■■■■に――――
――――削除。
その日の夜はタイショーの試験前の練習に付き合うことになり、■人は――――修正――――二人はタダで寿司が食えるとウキウキで公園を出た。
公園の出入口前の横断歩道。歩行者信号が青になる。
飛び出す秋葉。鳴るクラクション、ブレーキ音。
振り向こうとする秋葉を突き飛ばし、衝撃――
歩道に立つ■■■■が首を傾げる。
――――
――――削除。修正、統合。デフラグメンテーション。
――――あの快晴の夏の日、手を伸ばした、誰かに。消去。
――――完了。
「――お兄ちゃああぁぁあぁぁあっ!!」
意識を手放す最後の瞬間聞こえた、秋葉の悲痛な叫び声が……胸の奥に焼きついている。
それ以外は、重要ではない。
「……ちゃん、ナツキちゃん……そろそろ着くみたいだよ……」
呼ばれ、溶け、渦巻いて……曖昧な世界が消えていく。
――夢の終わり。