Noah/θ - スパイク
《塔》の隔離空間内で、セイラは唸っていた。
ようやく電力が戻り、聖窩を含むピュピラ島全域のモニタリングが再開してすぐ、事態は主たる天使が言っていたほど楽観視できる状態ではないことが分かった。
酒瓶を数本空にして酔い潰れている主を叩き起こし、現状を説明して鎮圧に向かってもらったのがつい先程のこと。まさかスーニャ=クー=グラシェが裏切るとは思わなかったし、よしんばそれが分かっていたとして、生身の人間が聖騎士エルヴィートと対等に渡り合えるなどと誰が予想できただろうか。
「スーニャ……レベル2メルクポットを経験してまだ反抗できるラクリマがいるなんて……」
メルクの体内に取り込まれて「処理」されるお仕置きには、レベル1から3の段階がある。先程まで天使の血の調整に使われていたのはレベル1、媚薬漬けにされて夢の中で全身を犯されながら記憶を改竄される以外の苦痛は特にない。
一方、かつてスーニャが《塔》から逃げ出そうとした時に受けたお仕置きはレベル2だ。自分が何かの秘密を暴こうとして受けたお仕置きも同じである。気が狂いそうになったことだけを覚えており、何をされたのか具体的な内容は思い出せないのだが、思い出そうとするととてつもない怖気が走る。何があろうと二度と経験したくない、死んだ方がまだマシな内容だったことだけは確かだ。
レベル3は、処刑用だ。記録上使われたことはないが、死に至るまでにどれだけの苦痛が与えられることになるのか……考えたくもない。
「……ま、聖窩のことは全部聖下が何とかするだろうし、ぼくは島の方をどうにかしないと……」
大規模停電が起きている島の状況を、電力非依存の聖片を通してチェックしていく。こういう停電時のために電力非依存の監視網も整備してあるのだ。その情報を集積し閲覧するシステムは電力で動いているが、これは聖窩自体が停電しない限りは何も問題がない。そしてそんな事態は起こるわけがない――はずだった。
「ターミナルもスペクトロギーで動かせるようにしないとダメか……うぅ、でもそんなコストは……となると……むぅ……」
エネルギーは無限でも、それを扱う仕組みを作るための時間的・物質的リソースは有限だ。独立した非常電源装置を聖窩の深層に設置しておくのが現実的か、と脳内のTODOリストに書き込みつつ、島の被害状況を確認していく。
「負傷者……死者……なし? そんなことって……病院は……そっか、非常電源があるんだ。でも発電機自体が爆破されたんじゃ、そんなすぐに復旧は無理……ん?」
病院や食糧生産プラントといった重要施設のある区画の情報を確認していて、あることに気づく。爆破されて使い物にならなくなってしまっているのは第六、第七発電所だけだ。その他は全て制御回路の故障やケーブルの断線であり、新品に交換するだけで直るような不具合ばかり。第六、第七の管轄区域は電力需要の大きい商業区ではあるが、必要なら他の発電所からも電力を回せる構造になっている。そのためのケーブルは全て無事だ。
これは――数十人程度の人員を適切に動かせば、一時間もあれば復旧できる停電だ。だと言うのに、停電から数時間が経った今も光が戻っている区域は存在しない。今聖窩の各種システムが動いているのは、雷を操るギフティアであるフィン=テル=パセルが聖窩に直接電力を供給しているからに過ぎない。
「まさか……」
ログを確認する。最初に第六発電機、続いて第七発電機が爆破され、島全域から人が集まっている時間帯の商業区から光が消えた。それとほぼ同時刻に島の反対側の居住区で大小様々な小競り合いが発生し、全く別の理由による混乱が徐々に島全体へと波及していく。その過程で一つずつ他の発電機も機能を停止していくが、人々は「発電機が爆破された」という当初の衝撃的な情報しか伝達しないため、「全ての発電機が爆破された」と思い込む。同じタイミングで通信網もジャックされており、正しい情報は島中央の蓋内部で伝言を受ける《塔》の職員達には届かない。
結果、何も知らない《塔》職員達は数時間かけて《充電》中のギフティアをフィルツホルンからピュピラ島まで無理やり連れてきて、電力を供給させている。
「何、これ……」
意味がわからない。混乱の規模に対してあまりにも負傷者と被害総額が少なすぎる。爆破された第六、第七発電機ですら基礎や支柱部分は無傷で、羽だけ挿げ替えれば復活するのだ。全部合わせて一億リューズもあればお釣りが来るだろう。
計算してやっていなければおかしい。まるで、テロの首謀者が可能な限り被害を抑えて《塔》だけを狙い撃ちしようとしたかのような――
「りゅ――――ん!!!」
「うわぁっ!? 聖下!?」
突然背後から響いた澄んだ怒声に、飛び上がりながら振り返る。見れば、非常にご機嫌斜めな様子の天使が、可愛らしく頬をぷっくりと膨らませていた。
「なんなのね、なんなのね! ここまでコケにされたのは初めてなの! あいつ、何もかも放り投げて消えやがったの!」
「せ、聖下……?」
「余はヒキニートじゃないの!! 余だって頑張ってるのね! ずっと一人で、頑張ってるのね……ぐすっ」
「えぇっ、ちょ、聖下!? 泣いてます!?」
「泣いてないの! メルクポット送りにされたいのね!?」
「ひぇっ、されたくないですされたくないです!!」
――ダメだ、迂闊に話しかけたら殺される。
一体聖窩で何があったのかと監視領域を切り替えると、リモネが待機させられていたはずの小部屋がとんでもない有様になっていた。リモネやエルヴィートの全力戦闘によるものと思われる溶解痕の上に、純粋な破壊力による無数のクレーターができていた。先程まではなかったはずなので、主の振るった天使の力によるものだろう。
「ひえぇ……これ崩落させずに直せるかな……」
「セイラ」
「はっ、はい、何ですか!」
不意に話しかけられ肩が跳ねる。何を言われるかと恐る恐る主の顔色を伺うと、そこには珍しくどこか沈痛な表情があった。
「雫、見つけたの」
「……、へっ? 天使の雫ですか!?」
「りゅん。あれはイズだったの。でもあの子はもう別人だったの。幸せそうだったのね。何もかも忘れて、あいつに忘れさせられて、どこの馬の骨とも知れないヒトのこどもと一緒にいたの」
「っ!? え、待ってください、情報量が――」
「それでも……幸せそうだったの。だから、あいつの条件を飲んでやったのね。ただの時間稼ぎみたいな条件だったけど、猶予をあげたの。あと、リモネは剣と一緒に逃げたのね」
「ちょ、聖、下……!?」
重要情報の濁流をせき止めようと発しかけた言葉は、途中で途切れることになった。
ぽす、と小さな天使の体が胸に飛び込んできた。短い腕が胴の後ろに回され、バックドロップでも仕掛けるつもりかと身構え――そんなことは起こらず、ただぎゅっと抱きしめられた。
「え、何、えぇ!?」
「うるさいの。黙って余に抱かれてろなの」
言葉選びがおかしいとか、体格差でしがみつかれているようにしか見えないとか、リモネにはやらない方がいいとか、言いたいことは山のように浮かんできたが――
「はぁ……何なんですか、もう」
その全てを飲み込んで、小さな体をそっと抱き締め返した。今はそうするのが正しい気がした。
「りゅぅ……」
腕の中にすっぽり収まってしまう主の体は柔らかく温かで、まるでただの人間の子供のようだった。
彼女が子供の姿をしているのは超越性のカモフラージュであって、外見で判断しては痛い目を見る、というのは原初の涙の間では共通認識だが――もしかしたら、そのカモフラージュの向こうには見た目相応の脆さ、儚さも隠し持っていたのかもしれない。
「……こんな気持ちになったのは数百年ぶりなのね」
こんな気持ち、というのは寂しさか、人恋しさか。それとも部下達を天使の雫に奪われてしまった無力感か。いずれにせよ――
「大丈夫ですよ、聖下。聖下が諦めない限り、ぼくも諦めませんから」
「……当たり前なの。というかお前が裏切ったらこの星は一瞬で滅ぶのね」
自分が主を裏切るようなことは絶対にない。主の計画が少なくとも第三段階まで成就しなければ、ペフィロとの再会は絶対に叶わないのだから。
その状態のまま数分が過ぎ、徐ろに抱擁が解かれる。主は珍しく少し照れた様子でこちらを見ていたが、その眼には真剣な光が宿っていた。
「りゅん……計画フェーズ2.5、『かくれんぼ』を始めるの。セイラ、お前には余が組み上げた《塔》の全てを話しておくのね」
「えっ、全て、ですか? それって……」
「全ては全てなの。今の状況でお前に隠しておいても何もメリットがないの。こんな茶番、余とお前の全力でとっとと終わらせて、リモネもイズも他の天の階も回収して、ちゃっちゃかフェーズ3に移るのね!」
そして主は語った。原初の涙にすらアクセス権のなかった機密情報の数々。《塔》のコアシステムを含むブラックボックスの全貌。主が天使の雫と交わした約束。ノア全土を舞台にした「かくれんぼ」のルール。計画第3段階の達成条件。
「……っ!」
それらを全て咀嚼し、飲み込んで、気づく。気づいてしまった。
主は気づいていないだろう。現時点でその判断材料を全て有しているのはこのセイラ=ニル=マキナという一個体のみだからだ。
それは、自分達原初の涙にとって、絶対に主に知られてはならない事実。
あのナツキという名前を持つ少女が、疑いの余地なく「最悪の可能性」であるという、最高にして最低な――覆せない現実だった。
「どうしたのね、セイラ。スパイクでも起きたのね?」
「っ、いえ、一気に情報が増えたので色々と再検証を……」
「るん、助かるの。お前の情報処理能力は頼りにしてるのね」
ズキリと心が痛む。スパイクとはドールが命令を実行不能になったり二律背反に陥ったときに発生する放心状態のことだが――確かに今自分はスパイク状態にあったかもしれない。
何せ、笑顔と共に信頼を向けてくれる主を、つい数分前に忠誠を誓った主を、裏切る算段を立てていたのだから。
☆ ☆ ☆
「……失敗? えぇ、アナタ今、失敗と言いましたか?」
「そ、君の計画は失敗、あの子達の計画は大成功。アハハ……僕も信じられないけど。聖窩に乗り込んで例のギフティアも回収して、犠牲ゼロで撤退したってさ」
「そんな馬鹿な話がありますかねぇ! あるわけがないでしょう!? えぇ、そもそもどうやって調整が終わる前にピュピラ島まで辿り着いたと!? ワタシがどれだけ苦労して半日も時間を稼いだと思ってるんですかねぇ!? 笑えない冗談はワタシは嫌いなんですよぉ!」
薄暗く小さな部屋に、男の叫びが木霊する。
「まあまあ、落ち着きなよ同胞。できちゃったもんは仕方がない、じゃあどうするかを考えないとね?」
「冗談ではないと……。えぇ、いいでしょう、《古本屋》は何と? どこに逃げたかくらいは聞いてきたんでしょうねぇ!?」
「や、ソースは彼じゃないんだ。彼、この事件が起きるちょっと前から書庫を閉じちゃってるんだよね。《マスター》も《裏庭》も他の情報屋連中も、事件の日から示し合わせたみたいに休業中。《マスター》と《神の手》が情報屋界隈で何か裏工作してたって噂もあるけど……これはただの噂かな。あとは、まあ偶然だろうけど、事件当日だけ《同盟》が何もせず大人しかったみたいな話もあるよ」
「ほほう? それは……まさかフィルツホルンの闇市が総出であの小娘に加勢したとでも? えぇ、馬鹿馬鹿しいにも程がありますよぉ!」
語気を荒げる男に対し、情報を提供した男は飄々と肩を竦めた。
「落ち着きなって、俺もそう思うよ。《神の手》が関わってるのは確かだから《古本屋》が動かされた可能性はあるだろうけど、《塔》の正式発表もまだだし、ピュピラ島の流刑囚共の調査はさっき始めたとこ。……とにかく信頼できる情報ソースが何一つなくてね、どこに逃げたかもまだ分かってない」
「全く……忌々しいですねぇ! ……む? お待ちなさい、では何故、奴らの計画が成功したと分かったのですか?」
その問いかけを待っていたかのように、ニヤリと口の端が上がる。
「そう、それが本題。実は、別口で信頼出来る情報提供者から、今まさにここに連絡が来てる」
「……通信機? ここに電波は届かないはずですが」
「いいから取ってみなよ」
「……もしもし? えぇ、代わりました。ワタシが……、……は!?」
通信機からもたらされた情報は、男を混乱の渦に陥れたが――その顔はすぐに醜悪な歓喜に歪んでいった。
それを見届け、もう一人の男は部屋を後にする。
「さて……と。ここまでちょろいと逆に心配になるなぁ。……まいっか、最終的にナツキ君をぶち殺せればオールオッケーだしね……あ、もしもしボス? 俺だけど……」
歩きながら話す男の声は、徐々に水音に溶けていく。
ここは水の都ネーヴェリーデ、水路と港と貿易の街。夕日に輝く水面を、観光客を載せた小舟が揺らしていく。
それを光とするならば――街の裏側の奥深く、大陸最大規模の闇市では今日も、影の住人達が策謀を巡らせていた。