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Noah/υ - 願いの代償 Ⅳ

 現地に到着したときにはもう、《同盟》本部は半壊していた。

 まだ湿っている血飛沫の痕の向こうから、意識の無いリリムを背負った血だらけのシトラが平然と歩いてきた。


「あ、返り血なんで大丈夫です」


 何も大丈夫ではない。ラクリマ行動原則はどこに行ったのか。まさか殺してしまったのか。

 言いたいことは山ほどあったが、それよりも何よりも、不可解だった。


「なんかですねー、今ちょうど《同盟》内の過激派の粛清祭り中で、それに巻き込まれたっぽいです。幹部の身内だと思われて、過激派に人質に取られたみたいですねー。幸いまだ怪我はなかったですが……ちょっと危なかったです。ヘーゼルが走って知らせに来てくれて良かったですよ」

「…………」

「ん? 何ですかその顔……あ、《隻睛の亡霊》に話はつけてきましたよ。報復とかはないのでご安心を」

「……そうじゃねェだろ」

「はい?」


 何を平然としているのか。

 こんな騒ぎを起こせば否が応でも《塔》の目に留まる。シトラがただの子供ではないことに気づかれた時点でアウトなのだと、本人が一番理解しているはずではないのか。

 どう声をかけるべきか分からず黙り込むダインに、シトラはどこか呆れたように言った。


「言ったじゃないですか、同じ過ちは繰り返したくないって」

「あァ、聞いた。だから戻りたくねェんだろ。なら尚更何で――」

「私利私欲のために多くの人を見殺しにしたこと。それがあたしの過ちです」


 目の前に立っているシトラは、最初に出会ったときのシトラだった。子供という殻に入る前の、全てのしがらみを捨て去る前の。

 しかし出会ったときと決定的に違うのは――もう、迷子のような顔をしていないこと。信じる道を進むことを躊躇していないこと。


「自分のせいで大切な人を失うのは、もう嫌なんですよ」


 天を振り仰ぐ。一直線に割れた茜色の空、その向こう側をシトラは見ていた。


「あたしはかつて、無二の親友を殺しました。大切な同僚を殺しました。大量の部下を殺しました。みんな生きていて欲しかったのに……あたしの甘い選択のせいで、みんな死にました。でも」


 リリムを背負い直しながら、シトラは笑う。


「今日は、間に合いました。友達を一人助けられたんです」


 その笑顔は穏やかで、今にも消えてしまいそうに儚くて、何を言っても壊れてしまいそうで――返す言葉が出てこなかった。


「……分かってますよ。きっとそのうち、あたしには()()()が来ます。その時は……皆さんのことはあたしが命をかけてお守りしますから。だから抵抗せずに、話を合わせて、見送ってくださいね」

「見送れって……おめぇはこんな強ぇんだ、《塔》に帰る必要なんかねェだろ。それに上の連中だって人間なんだろ、おめぇの気持ちだって全く分かんねェわけじゃ」

「甘いですね」


 シトラの声は冷えていた。

 厳然たる判決を冷酷に告げる裁判官のように、告げる。


「《塔》を甘く見すぎです。あなたは《塔》の理不尽さを何も分かっていない」

「……んなこと、ねェよ」

「はっきり言いましょう。あたしは聖騎士と同格です。あたしを迎えに……捕まえに来れるのは聖騎士くらいで、彼らは公務執行を妨げる者を無制限に即時処分する権限を与えられています」

「な……!?」

「だから……その時は、よろしくお願いします、ダインさん」


 何をよろしくお願いされたのか。……分かってはいた。しかし分かりたくはなかったし、頷くこともできなかった。



 それからシトラは開き直ったのか、リリムやヘーゼル、その他常連客達を守るためならこっそり異能(ギフト)を使うようになった。一つ一つは小さな出来事、見間違いで済むようなことだったが、それが積み重なっていき、シトラは「なんかすごい身体能力を持っている、ワケありの人間の女の子」として受け入れられていった。


 そして数ヶ月後、その時はやってきた。

 勢いよく店の玄関が開き、入ってきた白いフーデットローブの男は聖騎士だと名乗った。


「聖騎士様がこんな市井の店に何の用ですか」


 震え上がる客達を庇うように、シトラは聖騎士の前に立って話した。


「ギフティア? あたしがラクリマだって言うんですか? ……や、確かに記憶喪失なんで有り得ない話じゃないですけども。見ての通り、耳も尻尾もないですし、お花摘みだってしますよ」


 シトラは最初に決めた設定を貫き通した。何も知らないラズや他の客達が、何も知らないままでいられるように。

 聖騎士も必要以上にことを荒立たせるつもりは無いようで、シトラのことは「忌印(シグナ)のないギフティアの可能性がある」と表現し、あくまで検査のために《塔》で預かるという体裁を示した。

 聖騎士が直々にやって来ている以上、逆らうのは無意味。下手に動けば即刻殺されても文句は言えない。そんな状況下でただ一人、声を張り上げる者がいた。


「なんで? 聖騎士のおじさん、なんでシトラを連れてくの!? シトラはラクリマなんかじゃない!」

「リリム、やめな!」

「やだ! シトラを連れてくならあたしもついてく! 友達だから!」

「り、リリム、ダメだよ、聖騎士様はすごく偉い人だって兄貴が……」

「関係ないよ! ヘーゼルも言ってよ、シトラはすっごくいい子で、強くて、優しくて、あたし達の最高の友達でっ……あんな無口で戦うことしか出来ないお人形と一緒にしないでよ!」


 この頃のリリムはまだ何も知らない。その反論が見当違いであることも、背を向けたシトラが複雑に表情を歪めたことも、何も。


「リリム」

「ダインさんも何で止めないの――」

「すまん」


 首筋を叩き、気絶させた。

 場に沈黙が下りる。誰もがリリムとダインを見ていた。こちらを振り返ったシトラは泣きそうになっていた。


「ダインさん……ありがとうございます。今までずっと、ありがとうございました」

「……。検査に行くだけなんだろ。いつでも帰ってこい」

「……はい。それから、ヘーゼル」

「う、うん。なに、シトラ……」

「きっとまた会えますから。あたしのこと、忘れないでください。また会えたら、()()友達になってください。……そうリリムにも伝えてください」

「あ……当たり前じゃん! 私たち三人、離れてたってずっと友達だもん!」


 ヘーゼルの叫びを聞いて、シトラは悲しげに微笑んだ。きっとこの時にはもう分かっていたのだろう、《塔》で記憶を処理されてリリム達のことを忘れてしまうのだと。


「はい。……ずっと友達です。また、一緒に冒険に行きましょう」



 その約束は叶わなかった。

 数年経っても《塔》からの連絡は一切なく、教会に通いつめて声を荒らげるリリムとヘーゼルは出禁にされた。


 やがてリリム達がオペレーターになり、軍の窓口に「チュートリアル」を受けに行った夜――二人は憔悴しきった様子で《子猫の陽だまり亭》に帰ってきて、大声で泣いた。まるで子供のように、あの時流すはずだった涙がようやく流れる先を見つけられたかのように泣き喚き、現実を呪った。

 シトラの身体に、リモネという別の人間の魂が居座っている。その話はシトラを知る常連客達の間で瞬く間に広まり、どうするかという話になり――どうにもならなかった。ただ事実を受け止めるしか無かった。


 この頃にはもう、自分はギルドマスターになっていた。見えていなかった世界の仕組みも少し見えるようになり、《塔》が神獣と戦う裏で何をしているのかも何となく分かってきていた。

 《塔》の理不尽さを何も分かっていない。そうダインを評したシトラは正しかった。その自覚と共に、叶わぬ希望を抱くのをやめた。ヘーゼルもシトラの話題を出すことはなくなった。

 

 しかしリリムは諦めなかった。年齢を重ねるにつれ、表向きは全てを悟ったように落ち着いていったが、裏では興味もなさそうだった医学の本を読み漁り、猛勉強をしていると両親は言っていた。敵を殺すための薬学だけではなく、人を治すための知識を身につけようとしていると。

 やがて契約ドールを《塔》に砲弾として徴収されたときにオペレーターも辞め、リリムは医者になった。徴収の理由となった《前線》での戦いには軍医として同行し、多くの命を救った。その一方で闇市(アンダー)の裏社会にも闇医者《神の手》のコードネームで浸透し、情報収集を続けていた。オカルトじみた民間療法の文献、禁書指定の文献まで入手して読み漁っていた。

 全ては、シトラの身体をリモネから取り戻すために。リリムは出来ること考えられることを全てやっていた。それはもう友情と言うより狂気の域に達していた。


 その狂気を断ち切ったのは、他でもないリモネだった。


「なんかですねー、懐かしい気がするんですよ、このお店」

「え……っ!?」

「デジャヴというよりは郷愁って感じですかね。昔、ずっとここに住んでいたような……帰ってきたい場所って感じです。いいお店ですねー。リリムさんの行きつけですか?」


 その日は軍の監査があった。犯罪組織の密談所になっていないか、中流区以下の飲食店はたまに抜き打ちで監査官が来るのだが、その日の担当がなんとリモネだったのだ。自分はちょうど早上がりで帰ってきていて、リリム達常連客が夕食に来ているタイミングだった。当然ながら場は騒然となった。


「……お客さん方の慌てっぷりがちょいと気になりますが、監査の方は異常なしです。やー何でですかね、すごく気に入っちゃったんで、今度は個人的にお客として食べに……え? ちょ、リリムさん、何でいきなり大号泣してるんです!?」


 乗っ取られたのではない、記憶を消されたのだ。名前が変わっているのは、恐らくシトラの方が偽名だ。

 そしてその記憶は、完全に消えてしまったわけではない。


「あのさ、リモネ……覚えてないかもしれないけど、リモネはここの看板娘だったんだ。あたしやヘーゼルの友達でさ……あたしが《同盟》に攫われたときも、助けてくれて」

「は、はぁ……? いきなり何を」

「でももういいんだ、分かったから。記憶がなくなって名前が変わってもシトラはシトラだって。別人に乗っ取られてるわけじゃなかった。今思えば、一緒に《前線》で戦ったときも……戦うときのクセ、完全に同じだったもん」

「え、えーと……シトラって……え? あたし《前線》で、人前で名乗りましたっけ……?」


 リリムや他の常連客達の話を聞いたリモネはひどく困惑していた。やがて逃げるように店を出ていき、


「…………」

「おめぇ……何の用だよ」


 翌日ギルドに神妙な顔でやって来た。


「ダインさん、昨日の話って……」

「事実だ。おめぇは一年半、ウチの娘だった。……俺が拾ってきたんだよ、ヘルアイユの淵の涙の遺跡の入口でな」

「一年半……やっぱり」


 何かを確信したように頷く。


「六年前くらい、ですよね」

「あ? あァ……そんくらいだな。もうそんなに経ったか」


 ギルドマスターになってからの年数と比べながら答えると、リモネは「そうですか」と俯いて、自嘲気味に小さく笑った。


「逃げようとしたんですね、あたし。……そりゃそうか。あのタイミングでそんな場所に飛ばされたら、そうなるでしょうね……」

「……やっぱ、おめぇなんだな。あいつも」

「ええ。きっとあたしは、『シトラ』は幸せだったと思います。あたしが今こうしてるってことは、自分の未来を捨ててでも守りたいものが出来たってことですから。……さしずめ、リリムさん辺りですかね。昨日の反応からして」


 そう言って見せた穏やかな笑みは、六年前に見たものと同じだった。


「ちったぁ記憶が残ってるわけじゃ……ねェのか」

「残ってませんよ。あの子は容赦しませんから……。精々、懐かしさや違和感を覚えるくらいです」

「あの子ってのは……聞かねェ方が良さそうだな」


 賢明な判断だ、とでも言うようにリモネは笑った。


「昨晩、同僚に聞いてきました。あたしはもう何度も記憶をリセットしているそうです。……そのことすら忘れてるんです」

「はァ!? 何度もって……」

「全部、あたしが承諾したうえでのことだそうです。……ま、当然ですねー」

「っ!? 何でんなこと――」

「分からないですか?」


 儚げな笑顔と共に聞き返され、言葉に詰まる。

 ダインさんもまだまだ子供ですね、と余計な前置きをして、リモネは笑った。


「幸せを知ってしまったから、ですよ」

「……っ」

「大空を飛び回る幸せを知りながら捕まって鳥籠の中で一生を終える鳥と、鳥籠の中で生まれて鳥籠の中で一生を終える鳥……どちらが幸せだと思います?」


 幸福を知らなければ、不幸にも気づかないで済む。幸せとは主観的で相対的なもの。だから自らを幸福を知らない状態に戻し、幸福を奪われた不幸を取り去った。……そう言いたいのか。

 それは確かに、間違ってはいない。《塔》という鳥籠が絶対逃れられない檻であることはもう分かっている。その前提のもとで、リモネの選択には同情の余地がある。

 だが――


「……子供はどっちだ、馬鹿野郎が! 独りよがりも大概にしろ!」

「うぇ!?」

「おめぇはそれでいいかもしれねェがな、残されたあいつらのことも考えろ! あいつらがどんだけ心配したと、どんだけ泣いたと思ってんだ!」

「そ……それは」

「おめぇ、誰かに忘れられたことねェだろ! 俺もおめぇが初だけどよ、忘れられる悲しみってもんがあんだよ! 人間ってのはな、自分一人じゃ生きてけねェんだよ! 家族なりダチなり、なんなら通りすがりの赤の他人でもいい、てめェの存在を認めてくれる奴がいて初めてこの世界に存在できんだよ!」

「ちょま、ダインさ、顔が近、怖――」

「おめぇの一番大事な奴が、おめぇんこと綺麗さっぱり忘れちまったとこを想像してみやがれ! おめぇはそいつのこと覚えてんのに、そいつはてめぇなんか見たこともねェ近寄るなって言うんだよ! 分かるか!? おめぇはおめぇん中に生きてた俺を、ラズを、ヘーゼルを、リリムを――殺したんだよ!」

「ひっ、ぁ、ぅ……」


 勢いのままに怒鳴ってしまってから、ハッと気づく。今目の前にいるリモネは記憶を消した後のリモネだ。記憶消去に承諾したリモネではない。深呼吸して気持ちを落ち着かせる。


「……すまん、おめぇに言ってもただの八つ当たりだな。俺が言ったのも勝手な都合の押しつけにゃ違いねェし……そもそも本当におめぇが承諾したのかも怪し……ん、おい?」

「……っ、ぇぅ……」


 見れば、リモネはぽろぽろ涙を流していた。


「あー待て、待て、泣くな! 俺が悪かった! 不安定なとこにぶっ刺す話じゃねェな! すまん!」

「いえ……ぐすっ、すみませ、あたし……うぅ……っ」

「こりゃガチ泣きだな……おい、悪かったって。その年で背負わせていい話でもなかった」

「ぇぐっ……あたしもうすぐ400ですけど」

「……、……そうか」


 微妙な沈黙が下りる。そう言えば見た目で年齢が判断できないラクリマだった。それにしても大きめの秘密を突然知ってしまった気がするが、あまり気にしないでおく。


 リモネはすぐに落ち着きを取り戻し、ぺこりと頭を下げた。


「……すみません、取り乱しました。どでかい男の人に怒鳴られたの久しぶりなもので」

「泣きポイントはそこか?」

「七割方そこでしたねー。あたしだから良かったですが、普通の子供にやったら秒で失神しますよあれは。……と、それはともかくですね」


 普段のお調子者モードになったと思いきや、上げた顔にはどこか寂しそうな表情があった。


「ありがとうございます、ダインさん。……正直、結構刺さりました。親友に忘れられるのを想像してしまって……それが残り三割ですねー。また記憶を消すかどうかの事態になったときにはちゃんと、あたしを泣かした怖い顔と一緒に思い出しますね」

「一言余計だっつの」

「いたっ! ちょ、暴力はよくないと思いまひゅ! ひょ……らいんひゃん!?」


 生意気なことを言う口をぐにぐにと左右に引っばりながら、六年前のあの日を思い出す。

 

『あたしはかつて、無二の親友を殺しました』


 あの時リモネが口にした親友と、今想像したという親友はきっと同一人物だろう。

 自分の甘い選択のせいで親友を、同僚を、部下を見殺しにしたと彼女は言った。その罪を繰り返したくないと、二度と《塔》には戻りたくないと言って、彼女は《子猫の陽だまり亭》に逃げてきたのだ。

 それを全て忘れて、彼女は《塔》の職員としてここに立っている。


「リモネ」

「ふぁんれすか!」

「あァ、すまん。忘れてた」


 回想の間ずっとリモネの頬を摘んでいた指を離す。リモネは頬を擦りながらむくーと膨れて見せた。


「あたしのもちもちお肌が伸びちゃったらどうしてくれるんですか!」

「400歳が何言ってやがる」

「ぶちころがしますよ」


 ようやくいつもの調子に戻ってきたようで、安心する。


「で……おめぇ、あんだけ戻りたくねぇって言ってた《塔》で、なんとかやれてんのか。一生鳥籠に住むにしろ、鳥籠が生きてける環境じゃなきゃ意味ねェぞ」

「む……その様子だと、意外とあたしのこと知ってそうですね、ダインさん。弱ってる幼女につけ込むとは何たる極悪非道」

「……おめぇが勝手にべらべら喋ったんだろうがよ」

「そんな、スリーサイズまで……」

「それは知らねェよ!」


 じと、と疑いの目が向けられる。十かそこらの子供のスリーサイズなど聞いてどうするというのか。


「で、まあ……そうですね、あたしは戻ったなんて感覚はないですけど……なんとかやってますよ。最近は世界が滅びそうなんで、自分のことなんかぐだぐだ考えてる暇がないとも言います」

「……そうか。まァ何だ、つれェ事があったらいつでも飯食いに来いや。閉店後でもいい。ラズも俺も、話くらい聞いてやっからよ」

「おっと、傷心のシトラちゃんと違って、あたしはそう簡単に機密は漏らしませんよ?」

「400歳ってこともか? ……ってそうじゃねェよ。分かるだろ」

「……ええ、すみません。ありがとうございます、ダインさん」


 あとあたしは永遠の14歳ですから、と一睨み入れて、リモネはギルドを去っていった。


 それから何度か、リモネは本当に《子猫の陽だまり亭》に来たらしい。主に愚痴混じりの雑談をして帰っていくとラズが笑っていた。


 そしてそれは、再び日常が崩れ始めたあの日も。


「およ? ダインさん! 帰ってたんですねー」


 シトラを拾ったのと同じ涙の遺跡でナツキとニーコを拾った帰り、店から出てくるリモネと鉢合わせた。

 急いで去っていったのは、フィルツホルン近郊で出没した大型神獣の情報が入ったからだろうか。そいつならもう死んだぞ、と伝えかけて、面倒ごとになりそうだったので止めた。


 相も変わらず、ここではないどこかから投影されているような笑顔。

 いつかまた、失ってしまったあの日々のように……素直に笑える日が来るのだろうか。彼女に刺さった楔を抜き去る存在がいつか現れることを願ってもいいだろうか。


「どうした、ダイン?」


 まあその前に、新たに抱え込んでしまった特大級の問題の種をどうにかするのが先決なわけだが。


「……いや、何でもねェ」


 小さく溜息をつき、袋を抱え直した。

 もうあの涙の遺跡には近づかないようにしようと、固く心に決めながら。



☆  ☆  ☆



 ――そして、今。

 あの時と同じようにニーコが攫われ、あの時と同じようにどうすることもできないと諦め引き留める大人達を振り切って、《塔》の最深部へと乗り込んでいった子供達は。


「……よう」

「あ、ダイン。ただいま。……何その顔?」

「んー、これはあたし達が帰ってこない覚悟を固めてた顔だねぇ」


 ニーコどころかリモネすら連れ出して、何食わぬ顔で帰ってきた。まるで六年前の選択をやり直して誤りを精算するように、どうせ無理だと理不尽に屈していた大人達を嘲笑うように、晴れ晴れとした表情で。生意気な口を利きながら。


「おめぇらは……すげェな」

「へ!? 何さ、いきなり……わ、ちょ、撫でないでよ!」

「うわ、ダインさん!? あたしもうそんな歳じゃないよー」

「うるっせェ。俺からすりゃおめぇらはまだまだガキだ。冒険バカのクソガキ共だ」


 そのくせ大人にはできないことをやってのける。危険を顧みず理不尽に立ち向かっていけてしまう。

 それは無謀で、後先考えておらず、そんな叶わぬ願いを叶えてしまった代償はとてつもなく大きい。まだ人生の二割も生きていないというのに、彼女らは自由と引き換えにこれから一生《塔》に追われる身となってしまったのだ。それは助けた側だけではない、助けられた側も同じだ。

 しかしそれでも――


「あっはは、ダインさん、照れ隠しがあからさまですねー」

「なぅ? てぇかくし?」

「幸せってことですよー」

「だいん、しゃーわせ? にーこといっしょ!」

「そこ! うるせェんだよ!」

「あはははっ、顔が怖いですよー」

「にぁ! だいん、かおこわい!」


 子供達はそんな代償など知ったことかと、本当に幸せそうに、心からの笑顔を弾けさせている。今この瞬間が何物にも替え難い僥倖であるということくらい、自分にだって分かる。


「……ナツキ、リリム」

「何さ」「何?」


 ナツキ達を引き留めたことが間違いだったとは思わない。謝るつもりなど毛頭ない。何度同じ状況になったって、自分は同じように引き留めるだろう。しかしそれでも、今言うべきことはある。


「ありがとうな」

「「……!?」」


 信じられない現象を目の当たりにしたかのようにぽかんと固まる失礼な頭をくしゃりと掻き回し、《子猫の陽だまり亭》を後にする。

 向かう先は《ユグド精肉店》、その三階――ギルドマスター執務室。厳重に閉じられた金庫を開け、その奥底へと手を伸ばす。

 

 自分はここまで何もしてこなかった。次は自分ができることをする番だ。


「――よう、俺だ。久しぶりだな、お姫様?」

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